02. 2014年11月14日 07:54:32
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「キーパーソンに聞く」 能力主義が日本の「ものづくり」を作った『アメリカ自動車産業』の篠原健一教授に聞く2014年11月14日(金) 山中 浩之 同一労働・同一賃金の原則下では、「カイゼン」は機能しない。日本の現場には「マイルドな能力主義」が機能しているから、世界一のものづくりが可能になった――。近著『アメリカ自動車産業』(中公新書)で、年功制や能力主義といった言葉の定型的なイメージを、実証研究によって打ち崩した京都産業大学教授の篠原健一さん。その篠原さんに聞いてみたい。「なぜ生産現場ではうまくやった日本企業が、ホワイトカラーの現場では生産性が低いと言われてしまうのでしょう?」 (聞き手は 山中 浩之) 篠原先生がお書きになった『アメリカ自動車産業』を拝読しました。誤読していないかどうか最初に確認させていただきたいのですが、結局、日本企業の「ものづくり」について多々言われている美点というのは、やや煽り気味に言いますと「能力主義が支えていた」んだなと。 篠原健一(しのはら・けんいち)氏 京都産業大学経営学部教授。1990年、同志社大学経済学部卒業、1996年、同大学大学院アメリカ研究科博士課程単位取得退学、大阪商業大学商経学部専任講師。同大学助教授を経て、2007年、京都産業大学経営学部教授。専攻・雇用関係、経営管理。博士(政策科学)。主な著書に『転換期のアメリカ労使関係:自動車産業における作業組織改革』[ミネルヴァ書房、2003、第20回高宮賞(組織学会)、第19回冲永賞(労働問題リサーチセンター)受賞]、石田光男氏との共編著『GMの経験:日本への教訓』(中央経済社、2010)などがある。 篠原:「同一労働・同一賃金」を権利として頑なに守ってきた米国の自動車産業と、日本とを比較すると、そのように思えますよね。 雇用を維持した上で、能力に応じて給与、昇進、職場移動の形で報償を与えてきた日本企業と、「勝手に個人の能力を評価されてたまるか、だったら職場の在籍順に(いい目を見させろ」という労組(UAW)側の言い分を呑んだ米国企業、ですね。 篠原:国民性もあるのかもしれませんが、制度の影響は大きかったと思います。 日本がブルーカラーの世界で「マイルドな能力主義」をうまく制度として導入できたのはなぜでしょう。 篠原:私の認識では、戦後の占領下、GHQが入ってきて日本の社会制度に大胆な変革を加えました。そこで、ブルーカラーのホワイトカラー化が起きた。 戦前まではざっくりいうと、日本も欧米と同じように「格差社会」で、ブルーカラーは簡単にクビを切られるし、能力主義も導入されていません。ホワイトカラーに比べ雇用が不安定だし、賃金の額自体の格差も結構あって、ゆうに数倍の差はあった。 おお。 現場に机がある米国の労働者 篠原:当時の小説や資料を読んでいると、旧帝大の先生とかって結構、いい生活をしているじゃないですか。山手線の内側に、そんなに年でもないのに一軒家を持っていて、お手伝いさんを雇ったり、人力車で学校に通ったりとかしています。そんなことは、現代の我々にはまああり得ない。やっぱり格差が大きかったと思うんですよ。 それが戦後の労働運動で、大卒以上のエリートのホワイトカラーと、ブルーカラーの格差をなくそうという気運が盛り上がり、GHQが後押しをした。結果、戦後はブルーカラーとホワイトカラーの差が縮まり、雇用の安定と給与や出世の道が開かれた。 この効果は劇的でした。戦後の日本の経済成長を引っ張ってきているのはブルーカラーの働きがすごく大きいし、極端なことを言ってしまうと、「ブルーカラーの社員の比率が高い産業ほど、日本は競争力があった」とすら、思うぐらいなんですよ。もちろんそうでないところもありますが。 “マイルドな”競争意識が働くことで、収益への貢献が自分の出世や所得につながる、という実感を現場が持てたことで、QC活動やカイゼン、カンバン方式などの、現場の協力が必須の仕組みが導入できた。 篠原:米国の自動車工場に見学に行くと「やあ、日本から来たのか」と作業員が話しかけてきて、こちらが心配になるくらい楽しげに盛り上がって「おっと」とかいってラインに戻る。 コメディ番組みたいですね。 篠原:そして「それで続きなんだけど」と、また戻ってきてくれたりします(笑)。職場にもよるけど、現場に個人の机があったりするんですよ。コップを置いて飲みながら、新聞とか雑誌を広げてだーっと読んで、また仕事に戻って、という、その繰り返しで。 …それはたしかに日本の工場ではあり得ない光景だ。どちらのほうが人間的なのかは分かりませんが。 篠原:作業時間を「誰でも作業を終えられる時間+マージン」で決めているので、慣れた人だとかなり余裕があるからこんなことができるわけです。自分のゆとりを縮めて全体の効率を上げよう、という発想は、同一労働・同一賃金の環境下では出てきにくいでしょうね。 で、先生の本を拝読して思ったのが、偶然の要素はあったにせよこれだけ製造業の現場でうまく機能する仕組みを作り上げた日本企業が、ホワイトカラーでは効率性で世界から大きく劣ると言われ続けているのはなぜなんだ、ということで。 篠原:欧米、とくに米国の場合は労働環境に結構メリハリがあって、ブルーカラーは平等主義、ホワイトカラーは上にいけばいくほど過激な能力主義、競争の世界になっている。これが日本の場合は、ブルーカラーとホワイトカラー全体がわりと優しい、マイルドな能力主義なわけです。 ホワイトカラーの場合、マイルド能力主義では世界に対して甘すぎる、ということでしょうか? 篠原:上に行くほど甘いといえば甘い、国際競争的に見ると弱い、という感触はあるでしょうね。 それは、日本のブルーカラーの世界と比べても甘いんでしょうか。 甘さ、緩さは否めないが… 篠原:自動車メーカーでブルーカラーの部門の方に話を伺うと、「俺たちは毎日要員管理で、先月は三千何人だったけど、今月は13人増えて、とか、非常に厳密に要員管理が行われている、かつかつだ。ところが俺たちブルーカラーから見て、例えば人事部のホワイトカラーの人たちの要員管理はなんか緩いんじゃないか。どうものんびり働いている」と。 なるほど。 篠原:「そもそも、人事が適正要員数を明確に言えない。何人いるのと聞くと、200人ぐらいとのたまわる。ぐらいって何だ」とかですね。もちろん、ホワイトカラー側にも言い分がありますよね。仕事の成果を数字できちんと測れる仕事じゃないし、対人関係調整能力が必要だし、工場と違ってそんな簡単にできっこないよと。 そういう言い分がバブル崩壊まではずっと通用していましたが、これ以降は経営が大変になって、どこかコストを削らないと立ち行かないよねとなったときに、全社的に目を向けられたのがホワイトカラーの要員管理だと思うし、その方策として出てきたのが成果主義だと思うんです。 成果主義=能力主義のハードな適用、ということですね。 篠原:終戦による社会改革がブルーカラーの働き方に大きな改革をもたらした。90年代のホワイトカラーのリストラ、あるいは成果主義というのは、それに匹敵するくらいの大改革だという認識です。これは恩師・石田光男先生が言われ、私もそう思いますし、雇用関係研究者では結構シェアされている意見だと思います。 でもホワイトカラーの場合、言い訳もあるとしても、数値で評価しにくいというところがあるのも確かだし、そもそも、評価に納得感が得られなければモチベーションにもならない。 篠原:ええ。そしてアメリカでもエリート層は別として、下層ホワイトカラーなどの場合、基本は職務給ですからね。「あなたの仕事はこれ」という、マニュアルがばしっと決まっている世界です。それでこの仕事がいらなくなったら切られるということが、結構簡単に行われている。けれども、日本の場合はそういうマニュアルがない状態がほとんどです。 そうですね。 篠原:それで何となくみんなで、「あんたの仕事はこの辺だよ」と、お互いに協力し合い、どこからどこまでが自分の仕事なのか分かりにくい。そうなると、会社側も能力を査定しにくいし、明確な理由がないから切りにくくなると。 なるほど。日本は就職ではなく就社、米国では職種=仕事と言われますが、そういう背景があるわけですね。だから米国では、切られもするけれど再就職も日本に比べればやりやすい。 篠原:別の会社で同じ仕事ができるところを探せばいいわけですからね。そして米国では、それぞれの職域を他から浸食されないようにするために、職種が非常に細かく分かれています。例えば大学の職員さんなんかでも、100とか200とか。そして、それぞれ色んな労働組合が入り混じっていて、組織や管理体制も複雑になっています。 うーむ。転職しやすい背景にはそういうこともあるのか。言葉を飾らずに言えば、「能力」をパーツとして交換しやすいようになっているんですね。 欧米ホワイトカラーの生産性は、「下層」があればこそ 篠原:過度の一般化は避けるべきですが、議論のためにあえて簡単にまとめますと、米国のホワイトカラーは、高収入だけど徹底的な能力主義で、強く結果を求められるエリート層と、職務給でマニュアル仕事をすればいいけれど、日本ほどは安定していない下層との差が激しいのに対しのに対し、日本は全体がマイルドな能力主義ということ。そして、仕事の内容がブルーカラーほど「客観的な数字」で評価できないので、全体になあなあになっている面は強いです。 あ、ということは、一口に「ホワイトカラー」として日本と海外を比較しても意味が薄いですね。 篠原:ええ。理屈として、実力主義で鍛えられた少数のエリートが、仕事の多寡に応じて増減できる部下を思いきり使った方が、全員がなあなあのチームより効率がよくなることは大いにあると思います。 …ローコストで使える戦力があるからこそ、効率が高いってことですかね。日本では、コスト削減のために管理職クラスが細かな事務仕事まで引き受けたりしてますが。 篠原:そうなると、ますます効率が落ちそうですよね。 むむむ、エリート競争曲は願い下げですが、とはいえマニュアル通りの仕事ってのも面白くなさそうだなあ。 篠原:そうですね。これはブルーカラー、自動車工場の現場でのお話ですが、1970年代のアメリカでも、やっぱり代わり映えのしない仕事が毎日続くのは面白くないというので、荒れちゃった時期があるんですよね。ヨーロッパもそういうことがありました。それで「クオリティー・オブ・ワークライフ(QWL)」という言葉が60年代、70年代にかけてはやりましてね。動機付け理論とか、人間関係論の動向にも関係しています。でも、あれはやっぱり職務給ベースから発達した学問という側面は強いですよね、私が思うに。 ほほう、日本にいると、この手の学問も(日本では)普通の会社員、すなわち「マイルドな能力主義」の人に対するものかと思っちゃいますが。 篠原:マニュアル通りに、いろいろな人をそこそこの能率で使えるような方策があれば、一番効率がいいだろう、というのが、現場に対するそもそもの欧米的な感覚で、そこからテイラーの科学的管理方法が生まれてきました。出来高給という発想もありましたけれど、やがて、それらでは面白くないという人々が出てくる。それではというのでQWLや「動機付け理論」が経営学で出てきた、というつながりです。 米国産業界の勘違い 篠原:たとえば、自分の工夫や改善、提案が仕事に反映されるようにしていけば、やる気になるのではないか。でもどうしたら、と思って見渡したら、日本の工場の生産性が高いということが分かってきて、カイゼンやQC活動が「あ、クオリティー・オブ・ワークライフって、日本でやっているじゃないか」と。 (マイルドな)能力主義、昇進、異動があるから可能だったのに、ある意味勘違いしてしまったと。 篠原:そうなんですよ。あ、日本って結構マニュアルにこだわらない仕事の仕方をしているよね、つまりチームで仕事をしているよね。みんなで仕事をシェアしながら、生産性も高いよね、と。「これが彼らの秘密だったのか、学ぶべき価値があるな」となったのが80年代。 先生の本によれば、うまくいった部分もあるけれど、まだ現在も道半ばとのことですが。 篠原:ええ。それはそうですよね。「チームワークはいいけれど、その分自分が忙しくなるだけじゃないか」と、普通思いますから。職務給の制度を大きく変えない限り、日本の現場の強さを移植することは難しいでしょう。 そこで、日本のホワイトカラーについてはどうでしょう。効率を上げるには、競争社会のエリートと、マニュアルで動く不安定雇用の一般社員、の二分化に進むべきなんですか。 篠原:難しいですね。パイが増えている間は、ある意味緩い管理でもよかった。だからといって「もうパイはありません、ホワイトカラーは今まで緩くし過ぎました。これを締めなきゃいけませんね」ということで、強引に数値的、成果的な部分をぐいっと押し出してしまえば、猛烈なモラルダウンが起こってしまうでしょう。 米国では、エリート層は結果の数字で評価されますが、一般層はマニュアル通りにやれているかどうかが評価の基礎ですもんね。逆に言うと、一般的なホワイトカラーの仕事は、客観的な数字で評価するのが難しいからそうなっているわけで。 篠原:そこに無理矢理数字を持ち込もうとすれば、どうしても齟齬が生じます。 それって行き着くところは、「無理に数字で評価されるくらいなら、もういい。会社がやってほしいということを紙に書いて出してくれ。あと所用時間とコストも入れてくれ。そうしたら俺、その中でばっちりやるから、ほかのことは一切俺に構うな」という社員が増えてくるんじゃ… 篠原:職務給の世界ですよね。今ちょっとそういう傾向がありますよね。 ありますよね。個人的には、それで社員の孤立化が進行したらそれこそ日本企業、日本社会の大ピンチじゃないかと思うんです。日本のユニークネスの消失につながりそうだと。すみません、妄想ですが。 篠原:いえいえ。そういう議論は確かにあって、やっぱり今、さっきからおっしゃっている通り日本のホワイトカラーって、行き詰まっているところがありますよね。単純な、非常にシンプルな成果主義ってやっぱり無理じゃないですか、ホワイトカラーは。 だから、といいますか、だけど、すべての日本企業がそういう成果主義とか、職務給に向かっているわけでもないと思うんですよ。「うちの会社の強みは、やっぱり昔ながらのマイルドな能力主義。細かい数値的な能力概念とかも大事だし、それも多少入れるけれども、本筋は、やっぱり人柄がいいとか、謙虚であるとか、チームで頑張れるとか、そういうところがうちの強みだ」と、こう思っている会社はたぶんたくさんあると思うんですよね。 「やっぱり人柄」は案外正しい? というか、本当は、みんなが「それでいきたい」と思っていそうですよね。 篠原:そうなんですよ。そして自動車業界って、たくさんの人や会社が関わるという製品の特性上、そういうメンタリティーをわりと持っている会社が多いと思うんです。 日産はゴーンさんが来てから、だいぶ変わったでしょうし、トヨタでもホワイトカラーの成果主義的な発想が人事制度に入っているとは思います。だけど、やっぱりあの会社って「うちの強みは昔ながらの、田舎の日本企業の延長なんだ。これからこれでもいくよ」というのが基本姿勢だと思うんですよね。そういう会社が、ほかの業界、ほかの産業にもたぶんあって。だから欧米流の成果主義とか職務給にいかないと日本企業はつぶれるとか、だめということもないと思っているんです。 ただ、このままで押し切れるところもあれば、押し切れないところも出てきますよね。 篠原:昔ながらのマイルドな能力主義=職能給、同一賃金・同一労働の職務給、そしてハードな成果主義と、いま結構枝分かれが始まっていて、主流がどっちにいくのか見えない。ばらけるのかもしれないですし、ハイブリッドかもしれません。 職務給、職能給、成果主義と挙げていただいた中の3つに、「やっぱり人柄だよね」というお話は入るんですか。 篠原:それは職能給ですね。 職能給の方ですか。 篠原:日本のわりと広い能力概念ですね。人格をも能力概念とするという、彼は人柄がいいからリーダーシップを取れる、とか。 それ、正直いって分かるんですよね。というか、やっぱりそれが一番なんだろうと。どうせ数値化できないんだったら、いっそ「こいつになら騙されてもいいや」と思える人に出世してほしい。 篠原:そうですね。私もそういう考え方で、日本企業はこれからも頑張ってくれたらいいなと当然、思っているわけですけれども、一方で、人柄がいいけど仕事の割に給与が高すぎる、という年長者も存在するわけで(笑)。 根本的な問題以外は、触らないのも手 篠原:だからすごく難しい話になりますが、日本流の人格重視の美点を残しつつ、いかにムダな給与を減らすか、ということになると思うんですけど、それは学者の世界でもまだ答えはないんですよ。 そうですか。 『アメリカ自動車産業』 篠原:1968年に行われた、日本の賃金制度についての座談会を本で引用したのですが、我々の制度は年功+能力による抜擢、そして降職も思い切ってやる、と、当時の人事担当者がすっきり語っています。
もちろん産業によって、扱っているモノ・サービスによって違いはあると思いますけれども、やっぱり日本の人事制度には弱点だけではなくて強みもあると思うんですよね。だから拙速に、日本はアメリカ型にならなくちゃいけない、終身雇用はもう時代遅れだとか言い切るのもどうかなと思いますね。その強みは、簡単に失ってはいけないものです。根本的な問題じゃないんだったら、下手に触らないほうがいいものも多いんですよ。 このコラムについて キーパーソンに聞く 日経ビジネスのデスクが、話題の人、旬の人にインタビューします。このコラムを開けば毎日1人、新しいキーパーソンに出会えます。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20141113/273796/?ST=print
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