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企業や個人に選別され、悪あがきする国家 制御不能で根底から存在を見直される時代
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141103-00010001-bjournal-bus_all
Business Journal 11月3日(月)6時0分配信
前回連載では、資本にとって生産の手段を支配できなくなった国家は、もはや効果的かつ効率的な資本の再生産の乗り物ではなく、生産手段を支配することの価値が減衰していくハイパーグローバリゼーションという環境において、大きな企業組織もまた、同様になりつつある可能性があることを指摘した。今回は、技術革新と結合・融合した現在のグローバル化によって、個人が資本の再生産の乗り物として重要になりつつあることを解説してみたい。
米社会学者ダニエル・ベルとともに脱工業化による知識社会の到来を先導した米経営学者P.F.ドラッカーが『The Age of Discontinuity』(邦題は『断絶の時代』)を著したのは1969年であるが、その四半世紀後のインターネット離陸期である1994年に興味深い指摘を行っている。
94年の論文でドラッカーが指摘した【註1】のは、ハードからソフトへの価値のシフトは、価値の源泉が、個人が所有する知識に移行するという画期的な転換であり、これが脱工業化社会の意味するパラダイム・シフトであるとという点である。インターネット上のイーベイなどのマーケットプレイスやフェイスブックなどのSNS、アップルの運営するApp storeやGoogle Play、ひいては3Dプリンターなどのオープンなプラットフォームを、価値を具現化する生産財として安価かつ自由に使用することができる環境のもとで、知識を有する個人は、グローバル化によって従来国家や資本家や企業が占有していた生産の手段を自ら活用できることで、大きな価値を具現化できる可能性が高まるということである。生産財の価値の低下は、技術革新による所有から使用、そして、シェアという流れのなかで起きている大きな潮流といえる。
これは、個人がLeverage(小さな力で大きなものを生み出せる)を効かせることができ、組織の規模がその意味を喪失していくことを意味する。つまり、デジタルの属性により従来よりも創出価値拡大の自由度と可能性が高まることはもちろん、デジタルプラットフォームの出現により企業に比べ小さな存在である個人でも大きな価値創出が可能となったということにとどまらず、個人であるがゆえに格段に少ないコストと速いスピードで価値創出できるということも意味している。
資本の再生産の乗り物としての個人の価値の高まりは、情報通信技術の急速な進歩によって促進され、この流れは経済価値を効果的かつ効率的に生み出せるプラットフォームが提供され続ける限り強化される。資本の再生産の観点で見ると、生産の手段を活用できる個人が効果と効率の両方において大きく寄与することが可能になりつつあるということである。これは、米国の未来学者ジョン・ネイスビッツが『GROBAL PARADOX』で指摘した【註2】「The Bigger and More Integrated the World Economy become, the More Powerful Its Smallest Players become」という状況が生まれつつあるということである。資本は、資本の再生産を効果的かつ効率的に行えない乗り物からたちまち逃げていくのである。それは、国家にとっても企業や個人にとっても例外ではない。
●企業や個人に選別される国家
このような資本再生産の乗り物の移行は、国家が優れた企業や有能な個人を選ぶのではなく、逆に選別される側に回ることを意味している。
今後は、優秀な個人と企業に選ばれた国は栄え、そうでない国は廃れていくであろう。複数の国のパスポートを持つことが当たり前になるかもしれない。この観点で考えると、人口が多く、変化対応の遅い国家(人口が多いほど、合意形成に時間がかかる)は、不利になるのではないか。もはや、GDPの総額と人口(または兵士)の数で国力を競う時代ではなく、重要なのは一人当たりのGDPではないだろうか。人口が60万人足らずのルクセンブルクの一人当たりのGDPが日本の2倍以上の11万ドルということや、人口550万人足らずのシンガポールの一人当たりGDPが日本を上回るという事実は興味深い。
グローバル化により現在、主権を盾に高めに法人税を設定することさえできない国家が生まれ、G7/G8からG20への拡大に顕著なように国家単独の決定権が弱体化する流れが強まっている。そして、国家主権のおよばない多国籍企業、国境を超えて自由に移動する優秀な個人、自由に移動できる資本と生産財を、国家が再度管理することはすでに限界である。このような現実を見てみれば、国家の4要件(主権、領土、国民、情報のコントロール)に基づく国家の専権性は、もはや成り立たないことは明白であろう。
領土の問題を例に挙げれば、否決されたとはいえ、スコットランドの英国からの独立に関する住民投票や、米国が悪者扱いしようとするイスラム国の動きは、人工的につくり出された国民国家の限界を示している。また、国民の面では、優秀な国民は国家間を移動し、特に富裕層はもはや国家を見てはおらず、結合と相互依存を高める世界で何が起こっているかが最大の関心事であり、課税に敏感で足が速い金融資産の多くはすでに海外に移転されており、国外に移住する者も多い。
国家はなくならないが、その力は間違いなく低下していくであろう。国家は抵抗するであろうが、国家の機能は縮小していかざるを得ず、国家はその成り立ちを根底から見直す必要に迫られるはずである。最終的に国家が機能縮小という結果を迎えるという可能性を受け入れることなく、変わりたくないと悪あがきする国家と、生き残るためには急速に変わらざるを得ないことを理解し、変身するであろう合理的な企業と、その狭間でリスクテイクの判断を迫られる、変わらなければいけない個人という構図である。畢竟、政府がつくってきた、国家と企業と国民(個人)が同一のインタレスト(関心)を持つ、三位一体という仕組みはもはや機能しないと考えるべきである。社会福祉国家を維持することは不可能であることを国王が国民に宣言したオランダは、変わることをいち早く決した国家であるが、かたや、安倍政権は、変わりたくないと悪あがきする国家の典型ではないであろうか。
●制限される国家主義
そして、グローバル化、国家主義、民主主義の関係は、3者のうち2つの選択を迫られ窮地に陥るトリレンマの関係にあり、3つを同時に追求することが不可能であることが明白な中で、国家主義を崇高で優位なものであるという前提を置かず、グローバル化が不可避である進化環境であるとすれば、結果的に制限されるのは、合理的に考えて国家主義ではなかろうか【註3】。
資本主義市場経済=自由貿易がもたらす格差拡大の内在性を指摘した仏経済学者トマ・ピケティやトルコ出身の経済学者ダニ・ロドリックが主張する国家の積極的な自由貿易への介入、すなわち、グローバル化がもたらす取引費用の低減を、国の介入により逆転させるべきであるという見解は、心情的には理解できるが、果たして可能かは疑問であろう。
ヘゲモニー(覇権)の存在によって取引費用を抑制している状況であれば、逆にその引き上げも可能であろう。しかし、粛々と進行するヘゲモニーの喪失は、取引費用を引き上げることを非常に困難にする。つまり、ヘゲモニーの存在しない状況に多数の主権国家が存在するという状況では、複数国家が協調して、現在のグローバル化(資本のグローバル化とテクノロジーとの結合・融合による取引費用の劇的な低減の流れ)を止めることは非常に難しいのではないだろうか。資本と生産財が世界を自由に移動し、経済的ばかりか政治的そして社会的に相互に結合し、強い相互依存関係にあり、それを強化する現在のグローバル化にあって、国家が、国内での格差の拡大を危惧し、国家の壁を再び高めて、民主主義を盾に社会福祉国家という美名に逃げ込むことは、国家財政が極度にひっ迫する中、はたして現実的であろうか。
ヘゲモニーが弱体化する「Gゼロ」の本当の意味は、国家主義とその背景にある主権国家の力の弱体化であるが、リーダー的国家の不在が、必ずしも世界の不安定を意味するわけではない。ヘゲモニーの弱体化で世界が不安定になるという議論が横行するのは、国家主義を不動の前提に置き、急速な技術革新がもたらす構造的変化を見極めることができないメンタルモデルの強さを示しているに過ぎない。畢竟、これは、主権国家の過大評価と暗黙の国家前提の民主主義、そして、テクノロジーの過小評価に根差すものであるといえる。グローバル化も国家主権も民主主義もすべてが変化していくものなのである。別の言い方をすれば、個人の力が拡大していく中で、個人にとっての「国家」「民主主義」「資本」というものに対する認識は時代とともに変化し、その意味合いと相対的な重要度は変化してきているということであり、現在のハイパーグローバリゼーションとは、その変化の表れと捉えることもできるのである。
繰り返しになるが、国家の存在力の相対的かつ絶対的低下をもたらす現在のグローバル化は、人類に選択権のある進歩ではなく、人類が自らつくってしまった選択権のない環境適応としての進化環境であると考えたほうが、個人も企業も国家も適応率・生存率は高まるのではないかということである。
【註1】Peter F. Drucker,, “The Age of Social Transformation”:The Atlantic Monthly, Volume 274, No. 5(1994): pp. 53-80.
【註2】John Naisbitt, Global Paradox:The Bigger the World Economy, the More Powerful Its Smallest Players, William Morrow&Co (1994)
【註3】これに対して、テクノロジーの進歩を過小評価、国家主権を過大評価して希望観測的に国家主権を最優位とし、その強化を強く提唱する論者には、ダニ・ロドリック(『Globalization Paradox:Democracy and the Future of the World Economy, 2011』<邦訳は『グローバリゼーション・パラドクス:世界経済の未来を決める三つの道』>)がいる。
文=小笠原泰/明治大学国際日本学部教授
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