01. 2014年10月27日 07:49:46
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残念ながら世界はますます悪くなっている 混乱の中で私たちが譲ってはならない原則とは 2014年10月27日(Mon) 松本 太 ミラノに来ている。ちょうど10月16〜17日にASEM首脳会議が開催されたのに伴って、イタリアのシンクタンクISPI(国際政策研究所)主催による欧州とアジアの有識者を集めた会合に招待されたからだ。 この2週間の間、ジャカルタに始まり、ワシントンDC、ロンドン、ミラノとぐるりと地球を一周回った。世界の有識者がどのように今の世界を捉えているのか様々な意見を聞いた。そして、筆者の見方も虚心坦懐にぶつけてみた。 その問いと答えは様々だが、1つだけ間違いなく一致していることがあった。「世界はすでにひどく悪い状況にあり、不幸なことに間違いなく一層悪い方向に向かっている」という赤裸々な認識である。 それにしても、わずかこの2週間の間にも、世界全体が一歩ずつ確実に悪い方向に向かっている。そして、そのスピードは誰もが驚くほどだ。 本稿では、世界の混乱が極まる中で私たちが譲るべきではない、いくつかの原則とは果たして何なのか、皆さんと虚心坦懐に考えてみたい。 「世界の終わり」の始まり? 最初に、筆者がこの2週間の間にこの耳で聞き、この目で見た事実とニュースを次に簡単に並べてみよう。 ジャカルタでは、中東の「イスラム国家」を支援するインドネシア人サラフィー主義過激派の会合まで頻繁に開催されるようになっている。1カ月前には4人の新疆のウイグル系のイスラム過激派と見られる人々がスラウェシ島で拘束されている。マレーシア人の支援を受けてトルコに向かう途中であったという。 香港に向かうキャセイ・パシフィック航空では、「西アフリカのエボラ出血熱、中東地域の中東呼吸器症候群(MERS)、中国における重症急性呼吸器症候群(SARS)の流行をふまえて、症状に疑いのあるお客様は香港当局に報告が必要となっています」との機内アナウンスがあった。米国の感染症研究所CDCによれば、今、緊急対策がとられなければ、来年1月半ばには、エボラ出血熱の感染者数は140万人を超えるという。 トランジットで立ち寄った香港では、中環(セントラル)地区を若い学生たちが占拠し、倦(う)むことなく、彼らの雨傘を掲げ続けていた。香港政庁も学生たちも今の状況に出口がないことは百も承知の上である。 ワシントンDCでは、多くの米国人有識者たちが11月の中間選挙以降、オバマ政権がレームダック化することに強い警鐘を鳴らし、これから2年間、世界はますますコントロール不能になるだろうと筆者にひどく悲しげに語ってくれた。 もっとも筆者は、現代世界の混乱の原因を、オバマ大統領のリーダーシップの欠如のみに帰すような単純な見方はとらない。世界各地の混乱にはそれぞれに理由があり、もっと複雑なものだ。 ロンドンでは旧知のアラブ人の友人たちが、イラク、シリア、リビア、イエメンは言うに及ばず、ほぼアラブ諸国の全てがもはや手に負えないほどに機能停止に陥っていることを嘆くばかりだった。とりわけ、イラクはもはや西部のアンバール県のほとんどが「イスラム国家」の手に落ちつつあり、今やバグダード空港陥落のおそれが囁かれつつある。このような中で、倒したはずのサッダーム・フセインが生き還ってほしいと希望する人々さえいる。 フランクフルト空港では、ひどく厳密なセキュリティチェックが実施されていた。きっと、イスラム国家などによる爆弾テロを厳重に警戒してのことであろう。 そして日本への帰国フライトでは、エボラ出血熱に関するWHOの緊急事態宣言を受けて、西アフリカ諸国に過去3週間以内に滞在した者は日本の検疫当局への報告が義務付けられていることがアナウンスされていた。 「デカメロン」の世界と現代世界 幸い、ミラノはイタリアの中でも比較的経済状況も良好なせいか、ずいぶん穏やかな雰囲気が漂っていた。唯一の問題と言えば、ASEM首脳会議開催のせいで、各国首脳のVIPの車列が渋滞を招いていたことぐらいだろうか。 ミラノのクレリチ宮殿で開催されたシンクタンク会合に参加していた筆者は、会議中にもかかわらず、2人の「ジョヴァンニ」の描く世界にぐっと引きずり込まれることになる。長い国際会議になればなるほど、空想は羽ばたくのだ。 ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロによる美しい天井画「太陽神の凱旋車の疾走」にある寓話的な世界の四大陸を見上げながら、筆者は700年近く前の北イタリアのことをずっと考え続けていた。ジョヴァンニ・ボッカチオの著作「デカメロン」の世界のことだ。 ティエポロによるクレリチ宮殿の天井画 拡大画像表示 ボッカチオは、黒死病が迫るフィレンツェの郊外の別荘に集まった7人の女性と3人の男性が語る100の物語を、デカメロンにまとめた。14世紀に猛威をふるった黒死病は、当時のヨーロッパの人口の3分の1から3分の2を死に至らしめ、欧州の人口が回復するのに1世紀半以上の年月がかかったという。英仏の百年戦争が続く中で、ヨーロッパの諸都市は分断され、未曽有の混乱の中にあった。そのような中で、突如として黒死病が人々を襲うのだ。
そのような過酷な状況の中で、ボッカチオは様々な物語を語り続けることで、人が生きることの意味合いをさりげに示したとも言えよう。しかし、現代に生きる私たちには、この世界と離れた別荘に籠り、物語を語っている余裕はもはやない。 イタリアの代表的な週刊誌「エスプレッソ」は、今週号で“UN MURO NON BASTA”(壁は十分ではない)と題して、世界各地にある「壁」を特集している。例えば、イスラエルとパレスチナの西岸やガザの間を分け隔てているあの「壁」のことである。 「壁は十分ではない」という特集を掲載した「エスプレッソ」誌 外部と内部の間に壁を建設することにより、外部との交流を遮断し、敵の内部への侵入を防ぐのは、人間が取り得る常套手段である。中世の欧州の都市も高い壁を作り、外部の敵の侵入を防いだ。ミラノのスフォルツェスコ城はその典型的な例と言っても良い。
高い城壁で囲まれたスフォルツェスコ城 しかし、現代の欧州が直面する脅威であるエボラ出血熱や、過激なイスラム主義者たちの侵入を食い止めることが果たしてできるのであろうか。イタリアの週刊誌のタイトルが語るごとく、ローカルなものが相互に果てしなくつながったこの世界では、「主権国家」という人工的な壁は、もはや何の役にも立たない。
壁は、短期的には敵の浸透を防ぐかもしれない。しかし、長期的に見れば、壁はいつか乗り越えられ、たいてい徒労に終わることになる。壁に限界があるとすれば、私たちはどうすればよいのか。 世界を成り立たしめているもの 混乱の極地に向かう中で、私たちはこの世界の秩序を成り立たしめている、基本的な原理や原則について改めて考えを巡らす必要がある。それは、決して資源や、水や食物といった物質的な問題ではない。 それを世界の規範と呼んでもいいだろう。それが難しければ、普遍的な法と言い換えても良い。逆に国際法と言うと、むしろずいぶん小さなもののように聞こえようか。 世界の各国が、普遍的なルールや規範を平気で犯すことを自らの利益のためにはもはややむを得ないと考え、さらには公然とそれをおおっぴらに語るようになるならば、その時に世界(の秩序)は終わるだろう。 それほどまでに私たちは今や極めて難しい局面にさしかかっている。比喩的に言うならば、世界秩序の底が抜けるか、抜けないかという瀬戸際なのだ。 この点で、私たちは、ロシアがウクライナ東部での事実上の武力行使を決して認めようとしないことや、中国が南シナ海で行っていることを国内の核心的利益を守るためであると説明していることも、逆説的にこれらの国々が普遍的な規範の重要性を理解しているからと考えることもできよう。 さらに近い将来、世界の全ての国々が共有できる1つの規範ではなく、一部の国々のみの間でしか分かち合えないような規範がいくつも誕生するようになるとすれば、その時私たちは、どのように世界の秩序を維持することができようか。 だからこそ、そのような普遍的ではない、極めて特殊な秩序の形成を意図する者があるとすれば、私たちは、優柔不断な宥和的な姿勢をとることはきっぱりと断り、断固とした姿勢をとらなければいけない。なぜなら、こうした挑戦に対して宥和的な態度をとることは、私たちの生きる世界の秩序の本格的な崩壊を意味するからである。 「悪」を「悪」と認めること 現在の世界の混乱に立ち向かう上で、最も重要な原則がある。とりわけ善悪の彼岸を超えることをよしとして、相対主義の考え方に長らく馴染んできた、私たちにとって。 すなわち、「悪」を「悪」として認められるかという、深刻な課題である。 例えば、「イスラム国家」を悪としなければ、その時にあなたの世界は途端に終わることになる。なぜなら、サラフィー・ジハード主義者たちは、いかなる対話を重ねたとしても、あなたの自由な思想も、民主的な立場も決して認めることはないからだ。この点において、イスラム過激派との戦いは、本質的にナチズムに対する世界の戦いと同じなのである。 「人と人は対話を通じて分かり合える」と考えることは、実に立派な立場だ。しかし、この世の中には悪が存在することも真実なのである。悪との間では対話は決して成り立たない。世界が悪のために崖っぷちにある時、対話が不可能な相手との間でも、対話が可能であると夢想したり、さらには、それを他人に勧めることは、責任のある大人のすることでは決してない。 この点で、今年のノーベル平和賞が与えられた17歳のパキスタン人の少女、マラーラ・ユースフザイが、次のように述べていることを、私たちはどれほどの真剣さで考えることができるだろうか。 「私には2つの選択肢しかありませんでした。1つは、声を上げずに殺されること。もう1つは、声を上げて殺されること。私は後者を選びました。」 マラーラの住んでいたパキスタン北西部のスワート渓谷は、まさにイスラム過激派のパキスタン・タリバン運動が本拠地としている場所であり、そこでは女子の教育の自由も否定されている環境である。 イスラム過激派との戦いの中で、過酷な状況に置かれているパキスタンの子供の未来は、まさにこのような断固とした立場を貫けるか否かにかかっている。マラーラの置かれた過酷な環境を、日本の相対主義的な思想の下で理解しようとするのは大きな間違いなのだ。 悪に対峙しつつ悪にならないこと 同時に私たちは、この悪に対峙する上で、自らが決して悪にならないことを改めて誓う必要がある。どんな正戦にも正しい戦い方が必要なのだ。悪魔の土俵で悪魔の相撲をとれば、戦う前に負けていると言ってもよい。 世界が混沌とすればするほど、次のニーチェの言葉こそ、私たちは改めて肝に銘じておく必要がある。 “Anyone who fights with monsters should take care that he does not in the process become a monster. And if you gaze for long into an abyss, the abyss gazes also into you.” (怪物と戦う者は誰も自らが怪物にならないように気を配るべきだ。もし深淵を長く覗き込めば、深淵があなた自身を覗きこむことになろう)── Friedrich Nietzsche, “Beyond Good and Evil” イスラム国家に対峙するとしても、それは国際的な規範に合致した形で行われるべきなのである。もしそれが著しく困難であるのならば、その政治的な判断の根拠をとことんまで突き詰める必要がある。少数民族の大虐殺が迫っている中での究極の政治判断を誰が責めることができようか。これは、言うは易く、行い難いことだ。 混乱が増大する中で、世界の指導者たちには、そのようなまさに法を超えるか超えないかという次元において、極限の政治的判断が一層求められることになろう。 世界は「細い線」の上にある そんな想いを抱いていた旅の途次、英国航空の機内で英国の歌手ヘザー・ピース(Heather Peace)が歌う、パワフルな歌声が聞こえてきた。”We are on the thin line in this passing of time”(今、私たちは細い線の上にいる)というリフレインがじんわりと響いてくる。 In God’s name what is wrong with us ? Hiding the fire inside of us Ignoring and blaming, denying there’s anything wrong How ashamed are we ? These images we don’t see And we don’t hear We don’t care Cause we’re not there We are on the thin line in this passing of time We are walking the thin line 世界の秩序が崩壊するかしないかという瀬戸際で、私たちはどれほどの忍耐力と叡智をもって、このひどくか細い線の上を歩き続けることができるだろうか。 (本稿は筆者個人の見解である) http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42059 |