03. 2014年10月27日 07:31:40
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「ドイツ人経営学者は見た!日本のかっこいい経営」 「大は小を兼ねる」は間違い「多すぎず、少なすぎず」が仕事の質を高める 2014年10月27日(月) ウリケ・シェーデ ワビサビが効いた日本庭園、素材の味を引き出した絶妙な味付け、慎ましくも美しい生け花、閑静な明治神宮など、日本独特の美術や日常には、ミニマリズム、即ち必要最小限に美を表現するスタイルが大きく反映されていると思います。 障子や骨組みだけでなく、部屋の間取り、畳、廊下などから見られる、日本建築の特徴である長方形とミニマリズムが、西洋建築、取り分け1920年代にドイツで発展した総合的建築・造形教育機関「バウハウス」スクールに、大きな影響を与えたと、多くの人は信じています。 近代建築の巨匠である、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエもバウハウスの校長だったのですが、彼の建築したバルセロナ・パビリオンを見ると、確かに京都の二条城を参考にしたのではないかと、感じる部分があります。また、このミース先生は、「Less is more」、そのまま訳すと「より少ないことは、より豊かなこと」、という名言を残しています。より分かりやすい日本語で言えば、「大は小を兼ねない」という意味です。 バルセロナ・パビリオン 日本庭園、和食、美術、生け花、書道などから、日本のミニマリズムが有名になった半面、日本の経営は、全く正反対の性質によって苦しんでいるように見えます。欧米人からすると日本人は、プレゼンテーションのページ数、1スライドにある文字数、1つの図表に含まれる情報量、印刷された紙の量、何かを実行するための工程の数など、様々な分野で、「やり過ぎている」ように思えることがよくあります。
それに対して,アメリカ人は、「どんなに良いものでも、行き過ぎは台無しにする」と考え、ドイツ人は、「黄金に輝く中道」を通るべきだと言います。日本の会社経営においても、「大は小を兼ねない」部分があるのではないかと、私は思うのです。 建築、園芸、料理などから分かる通り、「少なくすること」は「簡単になること」とは違います。むしろ、少なくしようとすると、一層難しくなるというのが現実です。代表的な例は、作文です。同じ趣旨を少ない文字数で表現することは、大抵とても難しいです。俳句を作ったことがある人は、一層この気持ちが分かるでしょう。何かを少なくするというのは、集中させることであり、その結果、大きな見返りを得ることがあるのです。だからこそ、大は小を兼ねないというのです。 前回のコラムでは、ドイツ人が、日本人と比べ労働時間が短いことをご紹介しました。しかし、これはドイツ人の仕事量が少ない、という意味ではありません。ドイツ人は単純に、労働生産性が高いのです。つまり、日本人と比べて働く時間が少なくても、平均的に見て、その時間中に、より必死に仕事をしているのです。これもまた、大は小を兼ねない例だと思います。 「料理人が多すぎると、スープがだめになる」 労働生産性が違う理由の1つとして、昔から日本ではチームの人数が多いことが挙げられます。1980〜90年代に日米貿易摩擦があり、2カ国の政府による交渉が何度もあったことはご存じでしょう。実は、この中で1回も、アメリカ側の方が人数が多い交渉はなかった、と言われています。日本人は交渉につく人数が多いのに、何か喋ったり貢献したりする人はほとんどいなかった、とジョークを言う当時のアメリカの交渉人もいたくらいです。 企業内でも大抵、プロジェクトチームには人がたくさんいます。人が多いほど、協力するためのコストが高くなると、集団行為論は述べています。日本の社員がチームをまとめる能力が高いことは事実ですが、それでも協力するために努力が必要であることは変わりません。 たくさんの人が1つのプロジェクトを担当する場合の最大の問題点は、明確な1人の責任者がいないことです。欧米では、「料理人が多すぎると、スープがだめになる」ということわざがあります。この意味は、「船頭多くして船山に登る」に近いでしょう。たくさんの船頭がいると、最適未満の結果だけではなく、社員のモチベーション低下にも繋がります。自分が責任者でないのなら、どうして一生懸命に働かなければいけないのかと、考えるからです。 皆さんがご存じの通り、アメリカのシリコンバレー等のハイテク会社では残業や、遅くまで仕事しなければならない場合、ピザを頼むことがよくあります。その慣行に基づいて、アメリカの アマゾンでは、今は「ツー・ピザ・ルール」という基本的なチーム・ルールがあります。これは、1つのチームや勉強部屋に、2枚のピザでは賄えない人数がいてはいけない、という決まり事で、もちろん残業している人たちだけではなく全てのチームに適応されます。アメリカ人の基準で言えば、1チームに5、6人以上いてはいけない、ということです。 私は今、成功している日本企業について研究しています。とあるCEO(最高経営責任者)の方とお話ししたとき、彼がこの課題についてはっきり意識していたことを覚えています。その企業では、新しい商品開発プロジェクトを立ち上げるたび、誰が責任者なのかを明確に告知するのだそうです。 常に小さいチームを作るため、プロジェクトが成功したとき、 1人の責任者、そしてチームメンバーそれぞれがプロジェクトにどう貢献したか分かっていて、その貢献に対する表彰をしっかりもらうことができます。チームの人数においても、大は小を兼ねないのです。 ホウレンソウ 私はよく、サラリーマンはホウレンソウを食べ過ぎている、というジョークを言います。もちろん、これは野菜ではなく、報告・連絡・相談のことです。先週のスケジュールを、カレンダーで見てみてください。ミーティングは何回あったでしょうか。その内、半分の時間で終わらせられたミーティングは、いくつあったでしょうか。 ミーティングが頻繁にある理由の1つに、日本が「高文脈文化」であることが挙げられます。これは、文字としての言葉と同じくらい、その言葉の文脈や、発信される際の背景に情報が含まれている文化を指します。紙面だけでは全てのニュアンスが伝え切れないため、直接人とコミュニケーションができる、ミーティングが不可欠なのです。 ホウレンソウが多いもう1つの理由は、日本人にとって一体感と、意見の一致が大事だからです。ミーティングで話し合う内容の大半は、1人の責任者に判断を一任しても、結果は変わらないでしょう。しかしそれでは意見を聞かれていない社員も出てくるため、不親切と見なされてしまうのです。 日本が高文脈文化であることと、一体感が大事であることを踏まえると、ホウレンソウは良い手段なのかもしれません。どの組織においても、ある程度のミーティング回数は必要不可欠です。しかし、ミーティングのために割かれる時間と、ミーティングに参加している人数が多すぎれば、高いコストがかかってしまいます。これについては、絶対に全員で議論しなければならない項目だけに絞ってミーティングを行う、という解決策もあるでしょう。大きなミーティングは、小さなミーティングを兼ねないのです。 ミーティングで無駄な時間をなくす1つの方法として、過密なスケジュールを設定する、という方法もあります。最近のいくつかのアメリカ企業では、ミーティングを効率的に実行するために、椅子がない部屋で行うことがあります。言うまでもなく、全員立った状態で話し合うことになり、1時間もすれば、皆立っているのが辛くなります。そのため、皆円滑にミーティングを進め、できるだけ早く自分のデスクに戻ろうとし、結果的にミーティングが一時間以内に終わるようになるのです。 「偉い人」の指標とは 私がまだ若い学生で、初めてとても偉い先生に会った時のことを、いまだによく覚えています。その先生から名刺を頂いたことをとても誇らしく思いました。しかし、その名刺には先生の名前以外、何も情報がなかったのです。 隣に座っていた日本人に聞くと、その方は偉すぎるため、名刺に情報を載せる必要がないのだそうです。また、ある時光栄にも三木元首相から名刺を頂いたこともありました。その名刺もまた、同じようにワビサビの効いた、シンプルで力強い、最小限のものでした。名刺においても、大は小を兼ねないのでしょうね。 さて、今現在はというと、真逆の現象が起きているように見受けられます。つまり、「偉い人」の指標が、「少なさ」よりも「多さ」を基準としているということです。例えば、最近の財界のトップリーダーは、名刺を3、4種類持ち歩き、個々の名刺にホームページ、メールアドレス、そしていくつもの役職名を書いています。 また、別の「偉さ」の指標として、フェイスブックの友達の数が使われていると、最近聞いたことがあります。アメリカ人からすると、これはとても奇妙です。アメリカ人は、フェイスブックをプライベート用、「LinkedIn(リンクトイン)」をビジネス用、ツイッターをフォロー用、と使い分けています。フェイスブックの使われ方が、日本人とアメリカ人とで大きく異なっている、ということでしょう。 確かにアメリカでも、「LinkedIn」で知り合いが多い人ほど、有名な人であると思われます。これは、たくさんの人を引き連れた人ほど、偉い方だろうという、ある程度人間として自然な考え方なのかもしれません。特に、アメリカ人がこのように考えることは不思議ではありません。むしろ驚きなのは、大抵控えめで、謙虚な日本経営陣でも同じ現象が起きていることです。 勉強熱心でも、それを現実に生かせない 日本の大学生は一生懸命勉強しないと、よく聞きます。もちろん例外はありますが、海外と比較して、これが正しいかどうかは疑問であると、私は思います。日本の高校生は、週に7日間、朝から晩まで、みっちり勉強しています。彼らと比較すると、大学生は勉強していないかもしれません。しかし、欧米の学生と比べると、日本の大学生の方が、教室にいる時間が長いようです。毎学期大体5、6科目も講義を受けるだけでなく、それぞれの講義につき、多くの課題を終らせなければなりません。 そこで、勉学においても、大を小を兼ねないのではないか、と私は思うのです。受講する講義の数を減らせば、学生は1つの講義により集中でき、多くのことを学べるでしょう。これは先生にも当てはまります。 日本の大学の教授は、多数の講義を教えなければなりません。教える講義の数が減れば、一つひとつの授業準備に時間をかけることができ、そして個々の学生に深く考えさせる時間を与えることができるのではないでしょうか。また、教室にいる時間を減らすことにより、習ったことを実際に活用できる時間も増えます。自習の時間を増やす学生もいるでしょう。 わさびは多すぎても少なすぎてもダメ 東京の地下鉄、そしてドイツの労働時間についてコラムを書いたとき、多くの読者の方から、日本ではアナウンスが多すぎる、という意見を頂きました。確かに、地下鉄では常にアナウンスが流れているため、耳に入ってこないこともあります。「お忘れ物のないようにご注意ください」と、何度聞いたことがあるでしょうか。 そして実際に忘れ物をしたことは、何度あるでしょうか。それから、エレベーターでもアナウンスが流れます。1階でエレベーターに乗ると、「上に参ります」というアナウンスが流れますが、1階が最下層なら、当たり前で不必要なアナウンスのように感じるかもしれません。 しかし、これらが無駄であるとは思いません。むしろ私は、このアナウンスが大好きです。それは、日本の特長である「おもてなし」の精神にとって、とても重要であるからです。エレベーターのアナウンスは、実際に乗客を案内していたエレベーターガールの代わりとして、1980年代から導入され始めました。このため、アナウンスには、乗客にとって居心地の良い環境を提供する意図があるのです。地下鉄のアナウンスにも、駅員が一人ひとりの乗客を気にかけている、という想いが含まれています。個人的には、これらのアナウンスをなくしてしまうのは、寂しいです。 そうなると、何が多すぎて、なにが足りないのか、という疑問が浮かんできます。しかし、極端な結果を避ける必要があるなら、つまり「大は小を兼ねない」というのは、「黄金の中道」を探すことと同じではないでしょうか。素晴らしい寿司の大将は、必要なわさびの量を正確に把握しています。多すぎてもだめ、少なすぎてもだめなのです。 どの地下鉄のアナウンスも、少ないと思われるよりは、多く流した方がいいでしょう。ミーティングやホウレンソウが全くなかったら、社内のコミュニケーションだけでなく、顧客との関係においても不利益です。パワーポイントのスライドの情報量が少なすぎたら、伝えたいメッセージが伝わりにくくなるでしょう。 学生によく言うアドバイスがあります。それは、クラスで出されたどの課題においても、伝えたい内容を変えずに、簡単に10%、少し努力すれば20%、文章を削ることができるということです。そうやって必要最小限にまとめた文章ほど、よりよい評価を得ることができます。 大は小を兼ねないのです。 このコラムについて ドイツ人経営学者は見た!日本のかっこいい経営 アベノミクスの中で、復活の兆しが取沙汰される日本経済。「失われた20年」と言われ続けたけれどもさにあらず。国外から見ると、日本の経営にはたくさん素晴らしいところがある。ドイツ人経営学者が見た、「ニッポン型経営」の新しい魅力。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20141024/273010/?ST=print |