02. 2014年10月23日 07:48:56
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“事件”でよむ現代金融入門 【第4回】 2014年10月23日 倉都康行 [RPテック(リサーチアンドプライシングテクノロジー)株式会社代表取締役] 日本のバブルとその崩壊の裏で 邦銀が海外業務を定着・拡大できなかった要因 不動産バブル崩壊の痛手 邦銀の凋落がはじまった 1989年末の大納会で日経平均株価が3万8915円87銭を記録し、国内はすっかり浮き足立ち、空前の好景気に沸いていました。しかし、株価はそれをピークに下落が続き、さらには1991年以降の地価下落を経て急激に景気は後退。邦銀は巨額の不良債権処理に苦しむこととなりました。バブル時、一斉に海外へ進出した邦銀でしたが市場感覚に乏しく、ほとんど成功しませんでした。海外戦略は今なお課題となっています。1989年12月29日 日本株の絶頂が転落の始まり 証券取引所の年初の取引日は「大発会」、年末最終取引日は「大納会」と呼ばれます。土日に重ならなければ、1月4日が大発会で、12月30日が大納会というのが、日本の証券界の慣習です。1989年の大納会は、12月30日が土曜日だったために、前日の29日でした。その日、日経平均株価は3万8915円87銭という年初来高値で取引を終えました。 年末年始のメディアは、1990年以降どこまで株価は上昇するかという話題であふれ、日経平均4万円で飽き足らない楽観論者は、4万5000円、5万円といった予想を繰り出すなど、青天井の強気見通しが市場を闊歩していました。ある大手証券会社は「長期的な目標は8万円台」という見通しを投資家に示していた、とも聞きます。 しかし、日経平均はこの日を絶頂として翌年の大発会以降は下落を続けることになりました。その後25年間経過したいまも、当時の水準を大幅に下回ったままです。どんなに強気の人でも、当時の最高値を破る日が近々やって来るとは言わないでしょう。日本のバブル崩壊は、まさに歴史に残る出来事でした。 株式市場のユーフォリア(熱狂的陶酔)の終焉は、正月早々に突然訪れました。それは、証券会社や機関投資家、個人投資家だけでなく、銀行にも大きな衝撃を与えることとなりました。前述のとおり当時の銀行は、政策投資といわれる企業の持ち合い株だけでなく、相場観に基づく積極的な株式投資にも乗り出していたからです。 当時日本の銀行が利用していたのは、前章で述べた「特金」と呼ばれる信託銀行の「特定金銭信託」でした。これは、銀行が委託者として金銭を受託者である信託銀行に預け、運用指図人がその金銭を運用する仕組みですが、当然ながらこの場合の運用を指図するのは委託者でもある銀行です。 このスキームをとる目的は、銀行本体で保有する低い簿価の株式と分離して株式投資を行うことにありました。たとえば戦後に1株100円で購入していた株式が1万円に上昇していた場合、本体で新たに1株購入すると簿価が5050円に上昇し、仮に1万1000円で1株売却したとすれば、売買益は1000円ではなく5950円となります。これでは余計な税金を払うことになるうえ、含み益も減少してしまいます。 こうした不都合を避けるために利用された「特金」は、金融業界でバブルの代名詞にもなりました。もちろん、銀行や機関投資家だけでなく、事業法人も余剰資金や借入れ資金で、この「特金」や信託銀行に運用を委託する「ファントラ(ファンド・トラスト)」と呼ばれた指定金外信託を利用した財テクに走るところが多くありました。 日本全土に株価上昇ムードが蔓延する中で、銀行は「特金」における株式投資で収益を伸ばし、さらに本業でも企業への不動産担保融資を拡大していったのです。株価とともに不動産の価値も永遠に上がり続けるという神話が形成され、特に横並び意識の強い銀行業界は、不動産を担保にした貸出競争の渦の中に巻き込まれていきました。 1990年以降に株価が下落に転じたことで、銀行では株式投資による損失が目立ちはじめます。事業法人でも、ヤクルトや阪和興業など、バブル崩壊後に巨額損失を発表した例は数多く、また最近になって当時の財テク失敗が露呈したオリンパスのような例もありました。 もっとも、株価は1989年12月29日にピークをつけたのに対し、不動産市場では1990年に入ってもまだ上昇機運が廃れていませんでした。株価はいずれ落ち着いて持ち直すという期待感も残っていたため、不動産への期待値は根強く残っていたのです。銀行の営業部門はまだまだ強気でした。 1980年代の栄光と、1990年代の挫折 前回、プラザ合意を採り上げた際に、急激な円高の下で日銀による緩和政策が資産バブルに火を着けたことに触れました。1989年末の株価のピークは、ついにその最終局面がきたことを知らせる日暮れの鐘でした。しかし、緩和局面において融資や利ザヤが拡大する順風を受けて収益性を伸ばしてきた銀行にとっては、まだバブルの余韻が残っていたのです。 1980年代は、銀行貸出が大きく伸びた時期です。金融緩和を背景として、1970年代に高度成長から安定成長へシフトする際に縮小していた企業の借り入れが増加に転じたことや、金融の自由化が加速しはじめたためでした。 それまで金利規制、業際規制、為替実需原則、国際資本規制など規制色の強かった銀行業に対し、新型定期預金など新商品の導入や国債の窓口販売などの新業務が解禁され、金利の自由化が進展したほか、公共債のディーリングも開始されました。銀行も市場競争の時代に入ったのです。 また“円の国際化”という看板が掲げられ、ユーロ円取引の自由化や東京オフショア市場の創設などが進んだのもこの時期です。企業の海外進出が活発化し、銀行もその後を追いかけるようにニューヨークへロンドンへと、相次いで海外拠点を構えることになり、豊富な資金力をベースに海外での融資も積極化させていきました。 こうした変化は、当時流行った「2つのコクサイ化」(国債流通市場の拡大と、国際取引の増加)というキャッチフレーズに代表されるように、邦銀が「市場」と「海外」という新たな両輪のもとで、新たな収益源を模索する契機となりました。この時期が、海外での邦銀の存在感が高まった全盛期でした。 1980年代後半以降のアメリカの大手銀行は、3つのLと言われる不動産関連融資(Land)、発展途上国(Least Developed Country)、レバレッジド・ローン(Leveraged Buyout)という融資問題の処理に追われ、体力を失っていきました。その隙間を埋めるように、外為専門銀行として海外業務に特化していた東京銀行だけでなく、他の都市銀行や長信銀、信託銀行そして大手地方銀行までもが、海外に積極的に進出するようになったのです。 余談ですが、このように海外市場で邦銀の貸出増加があまりに目立つようになったことは、その後、イギリスとアメリカの当局が主導するバーゼル委員会が、銀行の自己資本比率規制を導入するひとつの契機になりました。 しかし、銀行経営の本流といえば、やはり国内の企業向け貸出です。企業サイドでも、本業の設備投資だけでなく、値上がりを続ける不動産や株などの財テク用に銀行借入れを積極化するようになり、バブルが進行していく中で銀行と企業の皮相的な「ウィン・ウィン」の関係が築かれていきました。 特に急増したのは、中小企業やノンバンク、不動産、建設、そして個人といったセクターへの貸出です。その後、不動産市況の急速な悪化の下で銀行が処理に頭を抱えることになる不良債権の種は、こうして撒かれていったのです。 そうした国内事情を抱え、巨額の不良債権処理に全エネルギーを注力せざるを得なくなった邦銀は、一斉に海外から撤退をはじめ、国際金融市場を席巻したその短い全盛時代をあえなく終えました。 金融破綻のドミノ現象が始まった 1990年代の日本における金融破綻として最初に挙げられるのは、最後の相互銀行となった愛媛県の東邦相互銀行であり、1992年に伊予銀行によって吸収された際に行われた資金援助が、日本における預金保険制度の適用第1号となりました。 その後、大阪に本店を置く東洋信金の破綻などが続き、1994年には東京協和信金や安全信組が、1995年には木津信用組合やコスモ信組、そして兵庫銀行と、金融破綻は規模の大きな金融機関へと拡大していきます。 ただし、日本の金融破綻を概観する上で見逃せないのは住宅金融専門会社、いわゆる「住専」です。そもそも個人向け住宅ローン専門銀行としてスタートした住専は、銀行や信販そして公的機関である住宅金融公庫にシェアを奪われて苦戦し、次第に企業の不動産事業に対する融資を拡大するようになっていきました。 株価とともに上昇ペースを加速しはじめた不動産市況は、住専にとって願ってもないビジネス環境となりました。さらに、1990年に不動産向け融資抑制のための行政指導として銀行に発動された総量規制は住専を対象外としていため、銀行や農林系金融機関が競って住専に融資を行うようになったのです。 ただし、金利の上昇とともに、不動産価格はすでにピークに近付いていました。1991年頃から大都市圏を中心に地価が下落しはじめて1992年1月の全国公示価格は前年比4.6%低下となり、その後も下落幅を拡大しながら不動産市況は悪化の一途をたどっていきます。 銀行や農林系金融からの借入れをもとに急増していた住専の不動産担保融資の焦げつきが発覚するのは、もはや時間の問題でした。そして時間をおかず、1995年8月の当局検査によって、総資産の約半分の6兆円超という巨額の損失が判明したのです。その結果、大手住専7社は消滅することになり、最終的な損失処理には公的資金も投入されることになりました。 この住専問題は海外メディアでも「Jusen」として大きく報じられ、市場の注目を集めました。ただし、それは日本の金融機関の凋落の最終段階ではなく、始まりに過ぎなかったのです。 1997年11月には、豪華なディーリングルーム建設に象徴される過剰投資や、子会社による多額の不動産関連投資が問題視されていた三洋証券が破綻して、無担保コール資金がデフォルトするという前代未聞の事件が起きました。直後には「飛ばし」と呼ばれた巨額の簿外債務が発覚した山一證券が自主廃業を発表。そして都市銀行の一角であった北海道拓殖銀行が不良債権処理を行う体力が尽きて経営破綻するなど、日本経済に激震が走ったのです。 特に、北海道拓殖銀行の破綻は、ほかの都市銀行や長信銀に対する不安を募らせることになりました。どの銀行も、程度の差こそあれ、相当額の不良債権を抱えていることは明らかだったからです。 日本発の金融システム不安が起きるのではないか、という不安すら高まる中で金融監督庁が発足し、大手銀行に対する厳しい集中検査が行われました。そして結果として、日本長期信用銀行と日本債券信用銀行の2行が大幅な債務超過とみなされ、国有化されるという衝撃的な結末を迎えたのです。 日本政府はパニックを収束させるため、生き残った大手行すべてに公的資金を投入する方針を固め、21世紀に入ってようやく金融システムは落ち着きを見せはじめます。最終的に、2003年にりそな銀行への2兆円規模の公的資金投入で、日本の金融問題は一応の決着をみました。株価がピークを打ってから15年という、実に長いトンネルでした。 市場感覚の欠如が招いた不幸 銀行というのは、家計などから預金を集めて企業にカネを貸す業態です。実際には、企業が必要としている資金を家計などから集める、という逆の説明の方が現実的ですが、いずれにしてもその間の金利差、つまり利ザヤで稼ぐのが銀行であり、そこに一定の規制が働いていれば、貸出先がつぶれない限り収益性は確保できるはずです。 日本の場合、戦後の経済復興を支えるための安全な金融システムを構築しようと、政府は「護送船団方式」と呼ばれる銀行政策を採りました。預金金利の上限を定めて無用な預金獲得競争が起きることを回避し、1年未満の貸出金利に関しては臨時金利調整法によって規制が敷かれてきたのです。こうした中で、弱小の金融機関も落伍することなく、銀行は安定的な収益構造が確保されていました。 また預金調達ルートが債券に限定される長期信用銀行には、主要調達手段である金融債の金利に一定のスプレッドを乗せた貸出金利を長期プライムレートとして設定し、利ザヤを確定するシステムを導入しました。すなわち、銀行は潰さないというのが、日本の金融行政の鉄則だったのです。 1970年代に入ると、徐々に金融の自由化の波が押し寄せてきます。企業は余裕資金を現先市場で運用するようになり、銀行預金よりも有利なリターンを得るようになりました。一方で社債市場の自由化によって、優良企業は銀行借入れよりも低いコストで資金調達を行えるようになったのです。 1984年には、外為市場における実需原則が撤廃されて為替取引の自由度が増すと、企業は外債を発行して円ヘッジを行う新たな円資金調達方法に注力するようになりました。特に、株高を背景として転換社債やワラント債を使った実質的なゼロコスト(場合によってはマイナスコスト)の資金調達は日本企業に大人気となり、ロンドンやスイスなどの欧州市場では連日のように、日本企業の債券が発行されました。 バブル景気に乗った内部留保の蓄積や新株発行による資金調達なども、企業の手元流動性を厚くすることになり、1980年代には一気に「銀行離れ」が加速しました。銀行経営は、海外進出や証券取引、あるいは不動産関連融資といった、新たな拡大戦略を検討せざるを得なくなっていたのです。 しかし、海外市場における業務拡大や証券会社と競う形での国債取引などは、市場知識や市場経験がモノを言う戦場であり、規制に守られて生きてきた邦銀にとっては不得意な分野でした。 かろうじて大手邦銀には、外国為替取引において市場ビジネスに関わるノウハウが蓄積されていましたが、それをほかの業務分野にまで応用する経営力や人材は、決定的に不足していたのです。海外投資銀行への出資や買収は結果を出せず、有価証券取引も証券会社に太刀打ちできないまま、銀行は自分自身の専門分野である「融資」に光を見出すしかありませんでした。不動産価格の上昇は、銀行にとって願ってもない、そして残された唯一の救世主だったのです。 ただしその不動産も、本来は市場需給や景気動向などよって価格が決まるものです。融資の際に判断される担保価値は、その不動産が今後どれだけの収益を生むかという点で推測されるべきものでしょう。ところが、株価と同様に上昇を続ける不動産市場を眺め、銀行経営の管理意識から「不動産価値の下落リスク」はすっぽりと抜け落ちていきました。銀行が不良債権の山に埋もれていったのは、時代の不運な巡りあわせという見方もありますが、市場ビジネス感覚の欠乏から来る必然でもありました。 海外業務は引き潮のように撤退へ 1990年代半ば以降、国内で不良債権問題が深刻化すると、海外業務に対しても本部からの強力なコミットメントは消え、銀行系現地法人が欧米勢と戦い続けるための戦力は次第に失せてしまいました。銀行の大型合併によって、海外の支店や現地法人も再編やリストラの対象となり、優秀な人材も続々と去っていきました。 当時の邦銀による海外金融関連会社への出資や買収の例として、住友銀行によるゴールドマン・サックスへの出資、長銀によるグリニッジ・キャピタルの買収、富士銀行によるヘラー・フィナンシャル買収、第一勧業銀行によるCIT買収といった案件が挙げられますが、いずれのケースも大成功には至りませんでした。 当時の邦銀海外戦略を振り返れば、融資や為替、資金だけでなく証券など新規分野に関しても、経営は日本人が行うのが一般的でした。ですが、市場という刻々と変動する座標軸で動いている国際金融の世界を、市場感覚の乏しい経営者が指揮することは明らかに競争力の面で劣後していたのです。 当時の邦銀経営者の市場感覚の欠乏は、国内だけでなく海外でも致命傷になりました。海外金融を買収しても、その実質的経営に入り込めない、というもどかしさも打破できないままでした。それは、21世紀にまで積み残された大きな課題として、いまなお邦銀経営を悩ませています。 http://diamond.jp/articles/print/60946 |