01. 2014年10月21日 07:32:37
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金融市場異論百出 【第154回】 2014年10月21日 加藤 出 [東短リサーチ代表取締役社長] 日銀の異次元緩和策に衝撃 資金供給策の限界間近を示唆 10月3日に日本銀行が実施した、日本国債の一種、国庫短期証券(Tビル)の3.5兆円買い入れオペは衝撃だった。この時期に日銀がこれほど大量にTビルを買うということは、今の資金供給策が限界に近づいていることを意味するからだ。 欧州の情勢次第では、異次元金融緩和の目標達成が危ぶまれる日本銀行 Photo by Ryosuke Shimizu 日銀は昨年4月に量的質的緩和策(異次元緩和策)を導入した際、ある補足資料を提示した。それが「マネタリーベースの目標とバランスシートの見通し」だ。その中で、2014年にマネタリーベース(現金+日銀当座預金)を70兆円増加させ、年末に残高を270兆円にすると説明していた。
その主要手段は長期国債の買い入れで、このオペで年間50兆円が供給される。それは来年も実施可能だろうが、問題は残りの20兆円の増加部分だ。その大部分は貸出支援基金とTビル買い入れオペで埋めなければならない。 ところが、9月以降、そのTビルは市場で大幅に不足し、日銀の買い入れ金利はたびたびマイナスとなった(債券の価格と金利は逆に動くため)。市場でのTビル発行量は、9月末時点で127.5兆円と依然として巨額だが、三つの理由から不足感が強まった。 第一に、日銀の買い入れ額が累増してきた。今後も、多少の上下動は伴うが基本的に増加する。 第二に、四半期末は金融機関がバランスシートの見栄えを整えるため、Tビルを買い増す傾向が強まる。この要因は10〜11月には消えるが、12月に再び現れるだろう。 第三に、海外勢のTビルへの需要が一時強まった。この動きは、グローバルな市場環境次第では12月に再び強まるかもしれない。 欧州中央銀行(ECB)は、追加の金融緩和策をパッケージで打ち出しており、これらで年末までにユーロ圏への資金供給を大幅に増加させたら、なおさらだ。マイナス金利政策が行われているため、まともな運用先がないのだ。 欧州の機関投資家や企業は、ユーロのMMF(マネー・マネジメント・ファンド。公社債投資信託の一種)の利回りがマイナスになることや、銀行が預金金利にマイナス金利を課すことを恐れている。もしそうなったら、いよいよ行き場を失った短期の余剰資金は、相対的にマイナス金利の幅が小さい日本のTビルに向かうだろう。 となると、12月はTビルを日銀と日本の金融機関、海外の投資家の三者が、奪い合う恐れが出てくる。12月に買い難くなるリスクを考慮すると、日銀は今のうちから年末越えのTビルを大量購入して、マネタリーベースの年末目標達成の確率を上げておきたいようだ。 こう見ると、今のやり方で日銀が来年マネタリーベースを70兆円増やすのは、極めて困難といえる。 実は、昨年4月に日銀が出した声明文の「本文」には、マネタリーベース年間増加額は「60兆〜70兆円」と書いてあった。本当は10兆円の幅が設けられているのだ。来年の供給予定額を60兆円とするなら、それは技術的に実現可能だ。 しかし、その場合、資金供給額がテーパリング(減額)されたような印象を与えないように、市場にうまく説明しなければならない難しさがある。 なお、確率は当面低いと思うが、もし政府が急激な円安の進行を嫌がって円買い・ドル売り介入を実施したら、Tビルの発行額は減少する(Tビルの大部分は、過去に実施した円売り介入の資金調達のための発行)。その場合、日銀の資金供給可能額も減少し得るので、異次元緩和策にとっては厄介な展開になるだろう。 (東短リサーチ取締役 加藤 出) http://diamond.jp/articles/-/60788 “事件”でよむ現代金融入門 【第2回】 2014年10月21日 倉都康行 [RPテック(リサーチアンドプライシングテクノロジー)株式会社代表取締役] 日本にとってのニクソン・ショックは 金融問題にとどまらぬ実体経済の問題だった ニクソン・ショックの衝撃 アメリカが世界に向けて「ドルと金の交換を停止する」と宣言した「ニクソン・ショック」の背景には、どのような問題があったのでしょうか。また、日本では、どのように受け止められていたのでしょうか。そして、その後の変動相場制は本当に理想的なのでしょうか。資本市場の本格的なグローバル化が始まった、1971年の“ニクソン・ショック”を検証します。
1971年8月15日 ドルと金の交換はなぜ停止されたのか? 8月15日は、日本人にとって今も特別な日と言えるでしょう。欧米の人びとのなかでは第2次世界大戦が終了したのは必ずしもその日ではなく、日本がポツダムで降伏文書に署名した9月2日とみなすことが多いようです。しかし、日本人が玉音放送の流れた8月15日を強く意識していることはご存知のとおりです。 その1945年から26年たった8月15日、アメリカは世界に向けて「ドルと金の兌換を停止する」と電撃的に発表しました。いわゆる「ニクソン声明」です。日本時間ではすでに8月16日の月曜日に日付が変わっていましたが、中高年層には、この衝撃的な日と敗戦記念日とは無関係だと分かっていても、何か因縁めいたものととらえてしまうようです。 長い歴史を通じて、通貨とは金に変換できるもの、という考えが定着していた中で、世界で唯一、金と自国通貨ドルとの交換を約束していたアメリカが突然、金との交換を停止すると宣言したこの「ニクソン声明」とその後の市場の混乱を「ニクソン・ショック」と呼びます。現在でも「オイルショック」や「リーマン・ショック」など、経済における想定外の出来事は「ショック」と表現されますが、この「ニクソン・ショック」こそ、その先駆けです。そしてこの声明は、後述する1944年以来の「ブレトン・ウッズ体制」の終焉を意味する、重要なものでもでした。 1971年8月16日の夕刊を見ると、朝日新聞では「米、ドル防衛に非常措置」というヘッドラインに続く「10%の輸入課徴金」という大きな見出しが目に付きます。また、日本経済新聞にも「米、金交換を停止」「輸入課徴金10%」という見出しが躍っています。日本にとって最大の輸出先であるアメリカが、輸入品への課徴金を導入することが相当の衝撃であったことがうかがえます。 つまり、当時の日本経済にとっての「ニクソン・ショック」は、金融システムの大問題というよりも、輸出が減少するのではないかという、いっそう現実的で差し迫った実体経済の問題だったわけです。 実際にニクソン大統領が打ち出した「新経済対策」と呼ばれる政策には、景気刺激対策として種々の項目が盛り込まれていましたが、なかでも世界が目を見張ったのは、やはり「ドルと金の交換停止」でした。 この声明の直後、欧州諸国は混乱を回避するために為替市場を閉鎖します。それまで金との交換性を保っていた唯一の通貨であるドルが、もはや金と交換できないとあっては、ドルへの信頼が揺らぐのは当然でしょう。市場を開ければドル売りが殺到するのは目に見えていたことから、欧州各国は市場閉鎖を決断したのでした。 その一方で、日本は市場を開いたままにしました。東京市場は予想通りドル売りの嵐が吹き荒れました。この措置は、当時の大蔵省が輸出業者を救うために、できる限り1ドル360円でドルを売れるように配慮したためだった、とも言われています。猛烈なドル売りの嵐に応えた結果、日本の外貨準備は前年の43億ドルから一気に146億ドルへと3倍以上増えました。そして8月28日には、ついに日本政府も固定相場の維持を断念し、1949年から続いてきた1ドル360円の時代は、ここで幕を閉じることになったのです。 ドルが主役になった ブレトン・ウッズ体制を振り返る ドルと金の交換が停止されたということは、アメリカにせっぱつまった何らかの理由があった、ということです。それを知るため、もう少し時代をさかのぼってみましょう。 時計の針を第2次世界大戦が終焉に迫っていた1944年7月にまで巻き戻し、視線の先をアメリカ・ニューハンプシャー州北部にあるリゾート地ブレトン・ウッズの舞台に転じてみます。 すでに日本は敗色濃厚で、本土防衛のためにマリアナ沖やサイパン島での死闘を繰り広げていたころ、勝利を確信するイギリス、アメリカなど連合国側は、先行して戦後の国際経済体制の構築を始めていました。その協議の場となったのがブレトン・ウッズであり、連合国45か国から約730名が参加していいました。 同地で議論された主なテーマは、1930年代の大恐慌を招いたブロック経済など保護主義的な経済体制への反省に基づく、世界経済の安定化を目指す制度設計でした。大きくいえば、世銀(国際復興開発銀行)とIMF(国際通貨基金)という2つの組織設立です。前者は戦後の経済復興に向けて長期的資金を援助するための機関として、後者は為替相場の安定化を図るために短期的資金を供与する機関として、それぞれ設立されました。こうした体制は、「ブレトン・ウッズ協定」として1945年に発効されます。 ニクソン・ショックに関わるのは、このうちのIMFです。IMF協定は1947年3月に発効されましたが、その国際通貨制度の設計を巡る議論の中で、イギリスとアメリカが正面衝突することになったのは、よく知られています。 世界中央銀行のような性格を持つ組織の下で「バンコール」という新たなバスケット通貨制度の導入を主張するケインズ(イギリス)と、ドルを中心とする基金という新たな通貨秩序を作り出そうとするホワイト(アメリカ)が真っ向から激論を交わした末、その軍配は経済的な勢いで圧倒するアメリカに上がりました。 ここに、従来の金を絶対的な国際通貨とする体制から金とドルを両軸とする通貨制度への移行が、正式に決定されることになったのです。その具体的内容は、金1オンスを35ドルに設定し、ドルを唯一金と交換可能な通貨とするものでした。いわば、金とドルとが東西の横綱に並ぶ「金・ドル本位制」です。それは、経済力の飛躍的拡大に比例するように金がアメリカに集中した現実を、追認する制度でもありました。 ほかの通貨は、ドルとの交換比率が固定化され、変動率は上下1%未満とすることが定められました。たとえば日本円は1ドル360円という平価に固定され、変動率は上下0.5%の設定でした。いわゆる「固定相場制度」です。 この制度の下、戦後の不景気にあえいでいた各国は経常赤字をIMFによるファイナンスで支援されるとともに、各国が保有するドルはいつでもアメリカが金との交換に応じることで、為替相場の安定化が図られるものと期待しました。もっともアメリカによるドルの金兌換は、1934年の金準備法に「財務長官の判断でいつでも停止できる」と付されていたのですから、世界を揺るがせたニクソン声明は、単にその例外措置の発動に過ぎなかったのです。 ベトナム戦争で アメリカが受けた本当の痛手 ブレトン・ウッズ体制の構築は、ほぼアメリカの狙い通りに進んだといえるでしょう。19世紀から世界の基軸通貨として貿易決済の大半に使用されていた英ポンドは、徐々にドルにその座を脅かされ、1950年代には、ついに準備通貨トップのシェアを奪われました。 ただし、アメリカの目算が大きく狂ったのは、ベトナム戦争介入の泥沼化です。 1954年のジュネーブ協定でフランスからの独立を果たしたベトナムは、北緯17度で暫定的に分断された南北を、2年以内に選挙を通じて統一することになっていました。ですが、その協定に参加しなかったアメリカは、意向の通じる傀儡(かいらい)政権だった南ベトナムを「固定化」する方針へと傾いていったのです。 その外交戦略は、南ベトナムにおける反米闘争に火をつけ、1960年の南ベトナム民族解放戦線の設立と同時に、本格的な内戦突入へ背中を押してしまいます。それが、南を支援するアメリカと北を援護するロシアの代理戦争へと発展していったのは、冷戦構造の必然でもありました。 アメリカはジョンソン大統領の時代に北爆開始など積極的な介入方針を採っていましたが、その後戦争が長期化し、かつ泥沼化したために、結果的に巨額の財政支出を強いられることになりました。それは、米軍の増強状況を見れば一目瞭然です。1961年には1000人に満たなかったベトナム戦争向けの兵力数は、1966年には30万人以上にも膨れ上がっていました。 その結果、第2次世界大戦後に急減し、朝鮮戦争で再び増加に転じていたアメリカの軍事支出は、このベトナム戦争でさらに増加して、GDP比約10%規模にまで達することになりました。ベトナム作戦への支出額も1967年には年間200億ドルを超え、国防費のほぼ半分を占めるようになっていたのです。最終的にアメリカがこの戦争から手を引いたのは、約15年を経た1975年のサイゴン陥落の日でした。 ブレトン・ウッズ体制が崩れた理由として、ベトナム戦争でアメリカ経済が疲弊したからという説明もよく聞かれます。でも実際には、この軍事支出増は短期的には経済活動を活発させる結果をもたらしてもいたのです。1960年代は景気対策として、減税や設備投資への税控除、減価償却期間短縮などの政策が打ち出されてはいましたが、軍事支出の増加もまた間違いなくアメリカ経済の拡大に追い風となっていました。 ただしそれは必然的に、輸入増を通じた貿易黒字の縮小と、国債発行増によるインフレ率上昇をもたらします。それが、健全だったアメリカ経済の姿を急速に変えていきます。 一方で、着実に経済回復を果たしたのが欧州経済でした。 第2次世界大戦の主戦場となってすっかり疲弊していた欧州は、アメリカによる支援や戦後経済の復調の中で徐々に経済の安定性を取り戻し、1958年にはイギリス、ドイツ、フランスなど15ヵ国が通貨の交換性を回復します。それはブレトン・ウッズ体制の大きな成果でした。 アメリカが底なし沼のようなベトナム戦争に引き込まれていく中で、欧州諸国は生産性を回復して競争力を高め、金や外貨準備を増やしはじめていきました。それが世界の経済構造の変質を促し、各国の金準備にも顕著な変化が見られるようになります。端的に言えば、アメリカから欧州諸国へと金が流出しはじめたのです。 ドル不安はどのように 高まっていったのか 1940年代には、世界の6割以上の金がアメリカにありました。前述の通り、ブレトン・ウッズ体制は、そのアメリカに集中する金準備を土台にして設計された制度です。しかしアメリカで中央銀行の役割を担う、FRB(連邦準備制度理事会)の統計によれば、1950年代には200億ドル相当以上あったアメリカの金準備は1958年以降次第に減り始め、1963年には150億ドルにまで減少してしまいました。 唯一金と交換可能な通貨を持つアメリカの金準備は、国内通貨に対する準備と、外国通貨に対する自由準備の2つに大別されます。仮に、金準備が100億ドルあっても、国内準備として80億ドル必要であれば、海外保有のドルを金に交換する要求に対して応じられるのは20億ドルというわけです。 たとえば、ブレトン・ウッズ会議の5年後に当たる1949年時点のアメリカの金保有高245億ドルのうち、国内準備が105億ドル、つまり海外の要求に応じられる自由準備は140億ドルでした。当時、外国通貨当局が保有するドル資産は29億ドルに過ぎなかったことから、アメリカはいつでも金交換に応じられる余裕があったのです。 しかし、そうした横綱相撲も、長くは続きませんでした。軍事支出や経済援助など政府部門の赤字増加によってドルが海外に流出し、金保有高は急速に減少していったからです。それに伴い自由準備が減少する一方で、海外諸国のドル保有高が増えていきました。ついに1959年には、アメリカの自由準備75億ドルに対して海外当局のドル資産が91億ドルと、逆転してしまったのです。 もちろん、欧州諸国がすべてのドルを金に交換しようとするわけではないので、このシステムが一気に崩れることはありません。ですが1960年代にいわば「マイナスの金準備」が100億ドルを越えるようになると、欧州諸国はドルに対する不安を抱きはじめました。 工業製品の競争力を強める欧州は、1951年の欧州石炭鉄鋼共同体の発足以来、1957年の経済共同体や原子力共同体などの組織化を通じて、アメリカ経済の強力なライバルと化していきました。金のフロー変化は、そんな欧米経済力の相対性を反映していたのです。 こうしてアメリカ国外で「ドルの過剰」が認識されるのにともなって、ますます「ドル不安」は高まっていきました。ベルギー生まれの経済学者ロバート・トリフィンは1960年の著書『金とドルの危機』の中で、特定国の通貨に依存する金本位制(すなわち金ドル本位制)の下で、基軸通貨の供給とその信用の維持は両立し得ない点を論じています。いわゆる「トリフィンのジレンマ」です。 つまり、アメリカが経常赤字でドルを垂れ流さない限り国際的な流動性は保てない一方、そうした状況が続けばドルの信認は低下してしまう、という矛盾を指摘していたのです。その構造的な不安の中で、特にフランスのドゴール大統領がアメリカに対して執拗に、保有するドルを金へ交換するように迫ったことはよく知られています。最終的にニクソン大統領が1971年8月15日に決断を下した直接のきっかけは、盟友であるイギリスが20億ドル程度の金兌換を要求してきたことだった、といわれています。 察知していた欧州と 蚊帳(かや)の外だった日本 叡智を集めて構築されたブレトン・ウッズ体制により、通貨システムがひとまず安定化していたことで、各国はその制度の永続性を過大に評価し信じすぎてしまったのかもしれません。しかし、1960年代にはドル不安が高まり、システムの脆弱性は日増しに強くなっていきました。ドル不安を通じた金価格の上昇という現象も観測されはじめていました。 そんな状況で、アメリカの金兌換停止という決断が、本当に世界にとって「寝耳に水」だったかは疑わしいところです。特に欧州諸国が、ドル交換要請に対するアメリカの消極的対応に不信感を募らせていたことは間違いありません。 たとえば、1961年に設立された「金プール制」という制度があります。これは欧米7カ国が手持ちの金をプールして、ロンドンの金市場の操作を通じて金価格の安定を図ろうとしたものです。これは、明らかにブレトン・ウッズ体制の脆弱化をサポートする仕組みでした。 おそらく欧州勢は、この金プール制を通じて、金ドル本位制という通貨制度の崩壊は時間の問題ととらえていたと考えられます。残念ながら、極東の敗戦国であった日本にこうした制度への参加機会すらなく、金融情報戦で大きく遅れを取っていたようです。 スミソニアン協定後の 変動相場制は理想的か さて、ニクソン・ショックの後、新たな水準での固定相場制への復帰が議論されました。その回答が、1971年12月にアメリカワシントンDCにあるスミソニアン博物館で合意された「スミソニアン協定」です。そこでは、金兌換停止のまま各国通貨をドルと交換する場合の新たなレートが確認され、円は16.88%切り上げられて1ドル=308円となりました。ドイツ・マルクやフランス・フラン、オランダ・ギルダーなど欧州通貨も、切り上げた水準でドルとの為替レートが決められました。なかでも切り上げ幅が最大だったのが円でした。 それぞれ通貨の変動幅は上下2.25%に設定され、金価格も1オンス=38ドルに切り上げられました。これで新たな固定相場制度に戻れると期待されましたが、アメリカが金とドルの交換を復活させない状況下では、不安定な相場推移が続くことになります。最初の投機のターゲットになったのは英ポンドでした。 スミソニアン協定で8.57%切り上げられたポンドには、当初から過大評価が指摘されていました。ポンドへの売り圧力が増すと、介入に耐えられなくなったイギリスは1972年6月に変動相場制に移行しました。そして投機の矛先は、ポンドから米ドルへと向かい始めたのです。こうなると、スミソニアン体制の維持は難しくなるばかりです。 1973年にはイタリアの二重相場制への移行を契機に、スイスが介入を停止、円も変動幅に収まらなくなって変動相場制へと移行するなど、通貨体制の綻びが拡大しました。最終的には同年3月に、ドイツなど主要国も変動相場制への移行に踏み切ったのでした。その結果、スミソニアン体制は1年半ももたずに幕を下ろすことになりました。 当時、変動相場制をあくまで暫定的措置と位置づけ「いずれは固定相場制に戻るべき」という考え方が根強かったのに対し、現実には21世紀以降も変動相場制が継続されています。それは、“国際金融のトリレンマ”としても知られているように、「固定相場制、自由な資本移動、独自の金融政策」をすべて成立させることはできないからです。 日米英などは、自由な資本移動と独自の金融政策を確保するために、固定相場制を放棄しています。これに対しユーロ圏は、共通通貨ユーロの導入という固定相場の導入と自由な資本移動を選択して、各国は独自の金融政策を放棄しました。また中国は、従来の固定相場と独自の金融政策の下での資本規制から、変動相場制への移行による資本の自由化へとモデル・チェンジしようとしています。 ニクソン・ショックは、固定相場の仕切り直し(スミソニアン協定)を経て、変動相場制を生みだしました。その制度は現代にまで受け継がれていますが、決して理想的なシステムとして認知されているわけではありません。たとえば、ブラジルやインド、中国などの新興国は、急激な資本の流出入を回避しようとして、一時的に資本規制による為替変動抑制策を採ることが少なくありません。また先進国においても、輸出競争力を高めるために為替介入や金融政策を通じた自国通貨安誘導を行う例が、今なお見られます。 金との交換性を断ち切り、固定相場を断念したことは、当時として大きな決断であったことは間違いありません。結果的にその英断が、1970年代以降の世界経済の成長に貢献したことも事実でしょう。しかし、40年以上が経過した今なお、為替相場に関する各国の不平・不満は収まらないのです。通貨制度や為替レートに関わる問題が、新たな金融危機のタネにもなり得ることは次回以降でも論じていきます。 http://diamond.jp/articles/-/60814 |