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中村修二氏と日亜化学、なぜ泥沼抗争?日亜が「無価値」とした技術、ノーベル賞受賞(Business Journal)
http://www.asyura2.com/14/hasan90/msg/891.html
投稿者 赤かぶ 日時 2014 年 10 月 13 日 00:22:15: igsppGRN/E9PQ
 

                中村修二の反乱』(畠山けんじ/角川書店)


中村修二氏と日亜化学、なぜ泥沼抗争?日亜が「無価値」とした技術、ノーベル賞受賞
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141013-00010000-bjournal-bus_all
Business Journal 10月13日(月)0時10分配信


 青色発光ダイオード(LED)開発への功績が認められ、中村修二・米カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授がノーベル物理学賞を受賞し、日本中が祝福ムードに包まれる中、図らずもクローズアップされているのが、中村氏の元勤務先である日亜化学工業(徳島県阿南市)である。

 中村氏は受賞後の会見で日亜化学に対する好悪相半ばする感情を吐露した。感謝したい人物の筆頭として、中村氏が同社在籍中に青色LED研究への投資を決断した同社創業者、小川信雄氏(故人)の名前を挙げ、「私が開発したいという提案を5秒で決断し、支援してくれた。私が知る最高のベンチャー投資家だ。小川社長に500万ドル必要だというと、彼はそれもOKだと言った」と語った。

 その一方で、「研究の原動力はアンガー(怒り)だ」と日亜化学に対する憎しみを隠さなかった。発明特許を会社が独占し、中村氏へは発明の対価として「ボーナス程度」の2万円のしか支払われなかったず。中村氏は退職後も技術情報を日亜化学のライバル企業に流出させたとして同社から訴訟を起こされ、「さらに怒りを募らせた」といい、会見で中村氏は次のように語っている。

「日亜化学から企業秘密漏洩で訴えられ頭にきたので、日本で原告になって日亜化学を訴えた。裁判なんかやったらノーベル賞をもらえないと言われたが、やりたいようにやってきた。こうしてノーベル賞をもらってうれしい」

 これに対して日亜化学は、「日本人がノーベル賞を受賞し、受賞理由が中村氏を含む多くの日亜化学社員と企業努力によって実現した青色LEDであることは日亜化学としても誇らしい」とコメントしており、同社の中村氏に対する複雑な心情が読み取れる。

●中村氏の異能を買った日亜化学創業社長の決断

 中村氏は徳島大学大学院工学研究科修士課程を修了後、京セラへ就職が内定していたが、すでに結婚しており家族の養育の関係から、1979年、地元の日亜化学に入社し一貫して商品開発に携わった。中村氏は会議には出席せず電話にも出ず、社内では「変人」として知られていたが、赤色LEDの製品化などに成功。しかし、赤色LEDはすでに他の大手企業が製造していたため、売り上げにあまり貢献できず社内で「無駄飯食い」と批判された。

「会社の上司たちは、私を見るたびに、まだ辞めていないのか、と聞いてきた。私は怒りに震えた」(中村氏。受賞後の会見より)

 入社から8年過ぎた1987年。怒りが頂点に達した。辞職覚悟で当時社長を務めていた前出の小川氏に直訴し、当時不可能といわれていた青色LEDの開発許可を求めた。中村氏の「異能・異才」を日亜化学の中で唯一評価していた小川氏は、「オーケー。やっていい」と即答。「開発費はいくらかかる?」との質問に「500万ドルが必要だ」と答える中村氏に対し、「ええわ、やれ」と一言で返答したという。当時、為替レートは急激な円高が進んでおり、500万ドルは8億円に相当する。中小企業の日亜化学には大変な金額だ。これにより500万ドルの研究費支出と米国留学が認められ、青色LEDが陽の目を見ることになる。

 88年9月までの1年間、中村氏は青色LEDの技術を学ぶため米フロリダ大学工学部に留学した。留学中に米国では博士号が一番重要視されると知り、「自分のような大組織の支援のない人間には博士号の取得しかない」と決意し、帰国後、働きながら徳島大学大学院で指導を受け、94年に工学博士の学位を取得した。

 89年3月、中村氏の最大の後ろ盾である小川氏が不治の病に倒れ、娘婿の英治氏が2代目社長に就任した。英治氏は製品化の見込みがないと判断し、青色LEDの開発の中止を命じた。中村氏は青色LEDの開発がダメなら会社を辞めてもよいと腹をくくって会社の命令を無視し、上司から届けられた開発計画変更書をゴミ箱に捨て続けた。

 そして中村氏は周囲の反対に背を向けるかたちで開発を進め、92年3月、青色LEDの製造装置に関する技術を確立し、日亜化学が特許出願した。「404特許」と呼ばれるもので、その後この特許をめぐって中村氏と同社が対立することになる。日亜化学は93年11月、今世紀中は困難といわれていた青色LEDの製品化に成功したが、中村氏が手にした会社からの報奨金はわずか2万円だった。

●訴訟合戦

 中村氏は青色LEDの開発で国際的な技術賞を多数受賞するが、日亜化学は命令を無視した中村氏に社内で居場所を与えず、99年12月、中村氏は同社を退社。そして、「君はノーベル賞をとるべきだ」と評価する米カリフォルニア大学サンタバーバラ校総長の招きで同校工学部教授に就任した。

 米国に移住した中村氏に日亜化学は追い打ちをかけた。特許技術をライバル企業に流出させたとして、企業秘密漏洩の疑いで中村氏を提訴。発明の対価がわずか2万円と聞いた米国の研究者仲間から「スレイヴ(奴隷)」と呼ばれていた中村氏は、同社に反撃を開始する。404特許の特許権帰属確認と200億円の譲渡対価請求を求めて同社を提訴したのだ。

 04年1月、東京地裁は発明の対価を604億円と算定し、日亜化学に対して200億円を中村氏に支払うよう命じた。日亜化学は直ちに控訴。東京高裁は和解を勧告し、05年1月、日亜化学が遅延損害金を含めて8億4000万円を中村氏に支払うことで和解が成立した。中村氏は帰国の可能性について「それはない。仕事はこちら(米国)でと決めている。裁判も決め手になった。大勝したら日本に残ろうと思っていたが、そうならなかったので米国に移った。この選択は間違っていなかった」と語っている。

 この裁判は、実は日亜化学の作戦勝ちだったといわれている。同社は裁判で404特許は無価値だとする法廷戦術を採った。404特許に200億円の特許価値がないとすることで、職務発明の対価を減額させる作戦だ。この作戦が成功し、一審の東京地裁は日亜化学に200億円を支払うように命じたが、二審の東京高裁での和解金額はこれを大きく下回った。「和解額にはまったく納得していないが、弁護士の助言に従って勧告を受け入れることにした。職務発明の譲渡対価問題のバトンを後続のランナーに引き継ぎ、本来の研究開発の世界に戻る」(中村氏)。中村氏は最高裁まで争い200億円を勝ち取るつもりでいたが、升永英俊弁護士の説得に従い矛を収めた。当時会見で中村氏は「日本の司法は腐っている」と感情を露わにし日本を離れ、米国の市民権を得た。

 一方の日亜化学は、「当社の主張をほぼ裁判所に理解していただけた。特に青色LED発明が一人ではなく、多くの人々の努力・工夫の賜物である事を理解していただけた点は、大きな成果と考える」とするコメントを発表。同社は訴訟終了後に無価値だと主張した特許権を中村氏に譲渡することなく放棄している。

 そして今回、日亜化学が「無価値」だと主張した中村氏の発明が、ノーベル賞を受賞した。

編集部


 

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コメント
 
01. 佐助 2014年10月13日 10:58:04 : YZ1JBFFO77mpI : WBNBGXIFfM
二番煎じの日本で,よくぞやり遂げた,会社はよくぞ開発許可を与えたものである。ただスタッフや機器類・場所・カネなど提供している会社とは円満退社が望ましかった。

発明の対価として「ボーナス程度」の2万円は酷過ぎるが会社員ならそんな程度かも知れないが扱い方が悪すぎる。日本人は元々,開発に希望があるとプログラムが企画さら円滑に進むものだが,一たびつまずくと一人去り,また去りつづけ,最後は自分を含め二人程度になるものだ。

しかし成功すると,100人程度のものが,参加させて欲しいと集まってくるもので,投資してくれるものもいるものだ。失敗するとカネ返せと言うものもいる。一人で寂しく開発を続けるものもいるだろう。カネや場所や設備・機器類がないと何もできない,会社の組織があって初めて成功する場合が殆どである。それは二番煎じの国家が開発研究に投資しないからである。小泉・ケケ中氏が大企業に投資していた開発費用や社会保障費の削減が意欲を無くしていることは間違いない。安倍軍国主義者もまた同じである。

会社に対して貢献した喜びもある。だから特許は会社のものだが,成功したのならその地位や報酬はある程度大きくなければならない。2万円は酷過ぎるし,もっと誠意あるものがあってしかるべきだったと思う。

人間というものは,だれでも,人々を喜ばせたい,人々の役に立ちたいという本能を持っている。人間にとっての最大の苦痛は,何もしないことだからである。長時間の場合,なにもせずに立っていることは,歩くことよりも苦痛は大きい。さらに,寝たままでいることは,立っていることよりも,さらに辛い,だが,体力に合わせて仕事をし,周囲の人々が心から感謝することだと思う。

人は,この製品は,自分がつくったのだという喜びがあるものである,そしてその製品が,買ってくれた人の手にわたって,自分の汗を流してつくったものが,人々の役に立っているという誇りがあるものである。このように仕事の中に個性を活かせるからである。


青色発光ダイオード(LED)は医療や農業の分野に夢を与えている。
第二次産業革命が加速すると医療の分野と農業の分野で画期的な技術革新がでるだろう。しかも(LED)は人口衛星の赤外線を遮るほど虫なと近づけなかったと記憶している。暗視装置では無理だが。農業の分野で収穫を千倍にして世界の食料危機を救うことが出来る。

遺伝子組み替え作物は、害虫を殺し、人に役立つ植物の除草剤への耐性をつくるタンパク質を生産して防御するのが目的である。だが、人の、免疫と細菌の関係をみれば分かるように、細菌が細胞と結合して進入するための細胞の表面の分子を反転させて、一度的に防御できても、又、細菌側が反転して接続可能となる。だから、常に新しい免疫が必要となる。(LED)なら遺伝子組み替え作物はいらなくなる。

外気からの影響を排除できるLED植物工場だけが、世界と日本を食料危機から救うことができる。そして、食料の原価を、百分の一以下に引き下げることが可能になる。小規模でも初期の植物実験工場は。国家戦略として投資すべきだ。

太陽光は、高く伸びて尖った葉をもつ水稲を誕生させたが、LEDの赤と青の光は、低くて頑丈な茎と広い葉をもち、収穫量を十倍にでき稲を、水中を進行するベルトコンベア上で成長させ、自動的に刈り取ることも可能となる。耕作放棄にカネを出すより、LED植物工場に投資すべきである。


02. 2014年10月13日 23:53:52 : 4NPGepDmRk
司法の腐り方がこの国の科学者の流出を促進している。それにも拘わらず馬鹿が、この国を科学立国にするとほざいている。家が燃えているのに、知らん顔。馬鹿丸出しである。

03. 2014年10月14日 06:43:03 : jXbiWWJBCA
今週のキーワード 真壁昭夫
【第349回】 2014年10月14日 真壁昭夫 [信州大学教授]
ノーベル賞3人受賞の快挙に酔ってばかりでいいのか
技術で勝ってもビジネスで負ける日本の研究開発力考
日本人3人がノーベル物理学賞受賞の快挙
喜んでばかりもいられない中村発言の意味

 2014年のノーベル物理学賞を日本人研究者3人が獲得した。3人の研究者は長年にわたって地道な努力を続け、「20世紀中には無理だろう」と言われてきた青色LED(Light Emitting Diode=発光ダイオード)を見事につくり上げた。  

 今回の受賞以外にも、いくつかの分野でノーベル賞級の研究はかなりあると言われており、わが国の高レベルな研究開発力の面目躍如というところだろう。そうした研究を支える産業界にとっても、やってきたことが間違いでなかった証拠になるはずだ。

 一方、今回の受賞に関連して、あまり喜べない部分があることも忘れてはならない。受賞者の1人である中村修二氏は、すでに米国の国籍を取得しているという。また、研究の場所もカリフォルニアの大学だ。

 同氏は今回の受賞の喜びを語ると同時に、わが国の研究開発に係る問題点を指摘している。1つは、日本の研究者は組織内での自由が制限されている点だ。特に企業内の研究者は、上からの要請によって研究に制限がかかることが多いため、海外のような研究の自由が得られないという。

 もう1つは、わが国企業は新しい技術を世界に売り込むマーケティング力に欠けている点だ。以前から、「技術で勝ってもビジネスで負けている」という指摘があった。中村氏の指摘はまさに、わが国企業が抱える弱点を言い当てている。

 そうしたわが国の状況を諦めて、中村氏のような優秀な研究者が米国に行ってしまった。今回の受賞をきっかけとして、研究開発のサポート役を担う企業経営者やアカデミズム関係者は、現状打開に向けて意識を変えることが必要だ。

 企業で実際に研究開発に携わっている人たちに、研究の環境などについてヒアリングしてみた。彼らの話を総合すると、「おおむねやりたい研究をすることはできるが、中村さんが言う通り自由は縛られることが多い」というのが実感のようだった。

エビデンス主義の日本企業で
世界を席巻する研究開発はできるか?

 化学関係の研究者の1人は、会社内では“技術屋”と“事務屋”とに明確に区別されており、両者が本当の意味で共通の理解をすることが難しい状況があると指摘していた。彼の話しぶりからすると、時には“事務屋”が多数を占める中で肩身の狭い思いをしたことがあるそうだった。

 研究開発が制約を受ける背景には、わが国の企業経営における一種の“エビデンス主義”(何らかの数字などの証拠を重視する姿勢)があるようだ。確かに企業経営者から見れば、経営判断をする場合、頼りになる数字などの明確な基準があることが好ましい。

 しかし、今までなかった新しい技術や製品に関しては、過去の数字や傾向などはあまり有効ではない。新しいものをつくろうとすれば、むしろ過去の経験などが阻害要因になることすら考えられる。“エビデンス主義”は、新しいことを考える研究者には重荷になることだろう。

 そうした制約の中で彼ら研究者諸氏は、「わが国の研究開発の高レベルを維持することに貢献している」という強い自負心を持っていることがよくわかった。そうした研究者個々の強力な自負心こそが、わが国の高度な研究開発の水準を保つ原動力になっているのだろう。

 ただし、研究者を取り囲む制約を取り除くスタンスがないと、今回の中村氏のように大発明をした研究者が、海外に出て行ってしまうケースは増えるだろう。

 中村氏はノーベル賞受賞の会見の中で、「日本には開発力はあるが、マーケット力で負ける」と指摘した。米国の企業などは、開発した新しい技術や製品を最初から世界の市場に売り込んでいく意識が高く、その売り込み方も巧みということだろう。

マーケティング力のなさと“お人よし”
技術で勝ってもビジネスで負ける日本

 同氏の指摘は、「技術で勝ってもビジネスで負ける」と言われてきた、わが国企業が抱える問題点を見事に言い当てている。

 ヒアリングした技術者の1人は、「新しい技術を開発しても、それがどのように発展するかを理解してくれる人が少ない」と言っていた。わが国企業では、今あるものの延長線上にある技術を取り上げることは得意かもしれないが、その線上から外れた全く新しい技術などを上手く使うことが、あまり上手くないという。

 その傾向が顕著になると、せっかく新しい技術を開発しても、それを使って顧客が欲する製品を生み出すことが難しくなる。その結果、今ある製品に過剰とも言える機能を付けまくり、需要者の手が届かない高額商品にしてしまう懸念がある。それでは、消費者のニーズに十分応えられない。

 ニューヨーク在住のアナリストの友人は、「日本企業よりも、台湾や韓国、中国企業の方が顧客を意識するレベルが高い」と言っていた。それらの国の企業は、顧客が欲しがる製品をつくるという意識が高いと言いたいのだろう。中村氏によると、米国企業でも顧客のニーズに対する志向が強く、新技術を売り込むマーケティング力が強いという。

 2013年、わが国の国際特許申請件数は、米国に次いで世界第2位だ。それだけ、新しい技術を開発に成功しているのである。それにもかかわらず、国際市場でわが国企業の退潮が続いている。それは、新しい技術を世界に売り込む貪欲さが不足していることに起因する部分が大きい。まさに中村氏が指摘する「マーケティング力で負ける」ということに他ならない。

 友人のアナリストはもう1つ、わが国企業が劣勢を強いられる要素を上げていた。それは、わが国企業が技術に関して“お人よし”なことだ。半導体や液晶などの技術は、かつてわが国が世界で優位性を誇っていた。

 そうした高度な技術を、かつてわが国企業は気前よく韓国や台湾、中国企業に教えた。おそらくその背景には、今ある技術を他国の企業に教えても、また新しい技術を開発することによって、自分たちが優位性を維持することができると考えたのだろう。

 ところが、それら新興の企業群の学習効果は、わが国企業の想定をはるかに超えた。1980年代、日米半導体協議で仕方なく生産技術を供与した韓国などの企業は、すでにこの分野でわが国企業を凌駕するポジションを手に入れている。

 液晶についても、今や台湾企業がシャープの堺工場を買収するまでに至っている。それもある意味では、わが国企業の気前良さ(お人よし)によるところが大きいと言われている。

とはいえ日本の技術力は高い
国際競争の波に飲み込まれないために

 そうした状況はあるものの、わが国の研究開発のレベルが高水準にあることは間違いのない事実だ。問題は、研究開発から得た果実をマーケティング意識の欠如で上手く使うことができなかったことであり、またその技術を気前よく他国の企業に供与してしまったことだ。

 逆に言えば、日本はこうした課題を修正すればよい。企業全体がマーケティングの意識を高め、大切な新技術をしっかり守ることを考えることが必要だ。それはいずれも、経営の仕事だ。企業経営者が意識を変えて、研究現場がつくった果実を大切に扱う企業文化をつくるのである。

 わが国企業の国際市場での優位性が低下した現在、その企業文化の改革は待ったなしだ。それができないと、わが国企業は国際競争の中で淘汰の波を受けざるを得なくなる。
http://diamond.jp/articles/print/60415


04. 2014年10月14日 06:47:09 : jXbiWWJBCA
ノーベル賞受賞が示した技術国日本が持つべき哲学

井深大、本田宗一郎は知っていた?

2014年10月14日(火)  山村 紳一郎

 2014年のノーベル物理学賞が赤崎勇、天野浩、中村修二の3氏に授与された。これは中国や韓国の技術発展によって揺らぎつつあった我が国の技術国としての自信を復活させるだけでなく、とりわけ技術開発や基礎研究にたずさわる人々には大きな勇気を与えた。

 特にすばらしいのは、青色LEDの実用化開発で特に知られる中村氏のみならず、その基礎となった研究を行った赤崎、天野両氏にも脚光が当たったことだ。

功績は基礎研究にも等しくある

 ノーベル賞はその理念として、「人類のために最大たる貢献をした人々に」授与される。3氏によって開発・実用化された青色発光ダイオード(青色LED)は、エネルギーコストが既存の光源よりはるかに小さな照明の実現を可能にした、偉大な工業製品である。

 だがノーベル賞は青色LEDを生み出した功績が、実用開発だけでなく基礎研究の分野にも等しくあることを示したといえよう。

 我が国のモノ作り産業に、さまざまな警鐘が打ち鳴らされて久しい。中でもモノ作り企業の中での、開発のための基礎研究に対する認識の低さはしばしば話題にされてきた。

 もちろん、モノ作りを行う以上、基礎研究を“軽んじている”わけではなかろう。

 しかし、研究開発にたずさわる少なからずの人が、自分たちが感じている研究の重要性に対して、経営側の理解や認識が十分でない、という印象を抱いているのではないだろうか。そのひとつの現れが、他ならぬ受賞者の一人、中村修二氏が起こしたいわゆる「青色LED訴訟」だったと言える。

先達が示したモノ作り企業が持つべき哲学

 一方、我が国のモノ作り産業が世界最高レベルにのし上がっていった時代には、研究こそモノ作りの基礎体力であるという認識が強くあったはずだ。例えば、ソニー創業者のひとりである井深大や、本田技研工業(ホンダ)を創業した本田宗一郎は、よく言われるように根っからの技術者だった。

 初期に立ち上げた会社が、井深が「東京通信研究所」、本田は「本田技術研究所」と、いずれも「研究所」とつくあたり科学技術を強く意識していたことが伺われる。

 しかし、ソニーやホンダが世界に名だたる大企業として成長していくためには、技術力だけでなく経営面の強化が欠かせない。結果、井深は盛田昭夫、本田が藤沢武夫という、いずれも科学技術への深い理解を持ちながらも経営能力に長けた名参謀を獲得し、世界への飛躍を果たしたのである。

 井深も本田も、経営側が研究開発に対して十分な理解を持てなければ、モノ作り企業としての発展があり得ないことを知っていたのだろう。

 青色LEDはまさに、人類の未来を大きく変えうる。生活用照明に不可欠な白色光を実現するだけでなく、例えばブルーレイレコーダーなどの工業面でも、あるいは作物育成に効果的な植物工場での照明への応用など、すでに社会の各方面で青色LEDの技術が広がりつつある。

 つまりこの技術の真の「人類への貢献」は、青色LEDそのものだけでなく、開発に伴って実現されてきた技術の総体がもたらす可能性であるといえる。

基礎研究がモノ作りの基礎体力を培う

 これはすべての技術、すべてのモノ作りに共通だ。基礎研究がモノ作りの基礎体力を培うことで、新たな可能性を生み続けることができる。実用化は投資効果が明快であり支持されやすいが、それを可能にするのは基礎研究である、ということだ。

 日本のモノ作りは、実用化や応用は得意でもオリジナルのアイデアに乏しいと、しばしば言われてきた。確かに世界に覇を広げた時代には実用化や応用に猛進し、いわゆるモノマネ産業が幅をきかせた時期もあった。

 だが、その後に投下された膨大な研究開発への労力と熱意が、次代のモノ作りビジネスを創出しつつある。

 3氏の受賞を機に、基礎分野の研究が生活を変える力であり、モノ作り産業の基礎体力であるという考え方が再認識され、報酬を含む「投資」も視野に入れた企業活動の変化や、ひいては、さらに科学を重んじる社会認識の醸成につながることを願いたい。

このコラムについて
ニュースを斬る

日々、生み出される膨大なニュース。その本質と意味するところは何か。そこから何を学び取るべきなのか――。本コラムでは、日経ビジネス編集部が選んだ注目のニュースを、その道のプロフェッショナルである執筆陣が独自の視点で鋭く解説。ニュースの裏側に潜む意外な事実、一歩踏み込んだ読み筋を引き出します。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20141010/272422/?ST=print


 
中村修二氏、並外れた集中力を持つ「研究の鬼」

2014年10月14日(火)  多田 和市=日経ビッグデータ編集

 地方の中小企業の研究者がノーベル賞級の研究成果を達成した。青色発光ダイオード(LED)と紫色半導体レーザーの実用化だ。その産業界に与えるインパクトは計り知れない。大手企業の研究者を出し抜いた原動力は集中力と実証精神。大企業のエリート研究者ではなかったからこそ偉業を達成できたのだ。(この記事は、「日経ビジネス」1999年7月19日号の「フォーカスひと」を再掲載したものです。肩書などは掲載時のままです)
 「日本人には珍しいサプライズ(驚き)を与える研究者だ」
 ノーベル物理学賞受賞者の江崎玲於奈(元筑波大学学長)がこう評価する男がいる。徳島県阿南市に本社を持つ蛍光材料メーカー、日亜化学工業(小川英治社長)の主幹研究員、中村修二だ。

 日亜化学は売上高約400億円、従業員1500人の、一見どこにでもありそうな地方の中堅メーカーだ。中村も普段は作業服を着て、いかにも素朴で地味な研究者といった印象を与える。しかし、その中村は、欧米をはじめ世界中の半導体関連の研究者や物理学者が今最も注目している研究者の1人である。今年10月に発表されるノーベル物理学賞の最有力候補とも言われている。ノーベル賞は、大学関係者が受賞することが多く、企業人はなかなか取れないと言われているが、「彼の実績から考えて、ノーベル賞をもらっても不思議ではない」という声は欧米でも少なくない。

青色LEDで世界の大企業を出し抜く


中村 修二(なかむら・しゅうじ)氏
1954年5月22日愛媛県生まれ、45歳。77年徳島大学工学部電子工学科卒業。79年同大学院工学研究科修士課程電子工学専攻修了。同年、日亜化学工業に入社。88年4月から1年間、米国フロリダ大学客員研究員。93年11月、世界で初めて、実用レベルの青色LEDを開発。97年10月、世界で初めて、実用レベルの青色半導体レーザーを開発。家族は妻と3女。(写真:山田哲也)
 中村は1993年以降、「驚くべき成果」(江崎)を次々と打ち立てた。その第1弾は93年11月末に発表した高性能な青色発光ダイオード(LED)の実用化である。LEDは、電流を光に変換する半導体で、普通の電球に比べて発熱量が小さく消費電力も少ない。電球の後を継ぐものとして大いに期待されているが、その当時、光の3原色のうち赤色と緑色が実用化されているだけで、青色LEDは実用に程遠かった。

 ところが、中村がそれを実用化した。松下電器産業やソニー、シャープ、NEC、東芝といった大手企業のエリート研究者を出し抜いたのだ。

 しかも、青色LEDの実用化が産業界にもたらしたインパクトは大きかった。赤、緑、青と光の3原色がそろったことで、LEDを使ったフルカラーのディスプレーを作れるようになったのだ。さらに信号機の光源に使えば、半年に1回の電球交換が不要になる。

 94年以降、日亜化学は青色LEDの量産に入っている。すでに事業の採算が合うようになっており、主力商品である蛍光材料に次ぐ収益源に成長している。

 中村の研究成果はこれだけではない。彼は次に、まだだれも果たしていなかった青色半導体レーザーの実用化に取り組んだ。97年8月にはレーザーを照射し続けられる時間(寿命)を300時間にまで引き延ばし、それまでの記録だったソニーの101時間を大きく抜いた。さらに同年10月には寿命1万時間を達成し、実用レベルにこぎ着けた。

 98年以降、ソニーや富士通研究所などが必死に中村の後を追いかけているが、発表した半導体レーザーの寿命は数百時間がせいぜいで、今も中村の独走が続いている。「普通は半年で追いつけるはずなのに、なかなか(中村の)背中が見えない」とある大手企業の研究者はこぼす。

 さらに99年1月、中村の成果に基づいて、日亜化学は青色より波長の短い紫色半導体レーザーのサンプル出荷を始めた。「日本の1人の発明家が、世界の大企業に先行した」とは、米有力新聞のニューヨーク・タイムズの中村に対する評価である。


日亜化学工業が実用化した紫色の半導体レーザー
 紫色半導体レーザーの実用化が産業界に与えるインパクトは、青色LEDよりもはるかに大きい。紫色半導体レーザーは光の波長が短いので、高密度で情報を記録できるため、デジタル・ビデオディスク(DVD)に代表されるデジタル記憶媒体の記録容量が、これまでの数倍にも高まるのだ。同じ理由で、レーザープリンターの超高精細化や光通信の飛躍的な高速化なども期待されている。

 こうした研究成果によって、中村は、半導体や物理に関する内外の賞を数多く受賞し、いまや最も注目される研究者となった。

 96年には、物理学の優れた研究に対して表彰される仁科記念賞と、工学分野での大きな成果に対して贈られる大河内賞を受賞。98年1月には、エレクトロニクスについての世界最大の研究学会、米国電子電気技術者協会(IEEE)のジャック・A・モートン賞を、名城大学教授の赤崎勇(半導体を専攻)と連名で受賞した。この賞は、半導体分野では最も権威のある賞の1つで、日本人でこれまでに受賞したのは、中村と赤崎を除くと、元東北大学学長の西澤潤一(現岩手県立大学長)ら4人だけである。

 中村の海外での高い評価を物語るエピソードがある。96年、彼はドイツのベルリン市で開かれた半導体物理の国際学会に特別講演者として招待を受けた。中村以外の招待講演者はノーベル賞受賞者ばかりだったが、不慣れな英語で話した中村は万雷の拍手に包まれ、「ノウハウを全部しゃべってくれ」とか「サンプルを入手したい」といった質問が殺到したという。休憩時間には、中村の前にだけ長い列ができたという一幕もあった。

 中村はいま、半導体レーザーの研究開発競争では文字通り、世界の頂点に立っている。しかし、エリート研究者でも何でもないごく普通の研究者がここに来るまでの道のりは平坦ではなかった。

 中村は79年に、徳島大学大学院を卒業して日亜化学に入社した。これ以後の9年間は、「鳴かず飛ばずの下積みだった」(中村)という。上司から言われるままに、ガリウム系の化合物材料の開発など、半導体分野で3つの研究テーマに取り組んだ。それぞれ3年という非常に短い時間でモノにしたが、すでに大手企業が製品を販売していた。このため、取引先は合格点こそ出してくれたが、日亜化学の製品をなかなか納入してくれなかった。

「会社を潰す気か?」の一言に奮起

 ブラウン管で使う蛍光材料では国内で65%、海外でも35%のシェアを持つ日亜化学だが、「当時、半導体では知名度がゼロに等しかったので、半分の値段にするか、信頼性を2倍以上に上げない限り、商売にするのは難しかった」と中村は説明する。

 製品が売れなかったため、中村は会社に対して収益面では何の貢献もできなかった。いつしか「金ばっかり使って、少しも金を稼ぐ仕事をしない」と陰口をたたかれるようになり、揚げ句の果てには、中村が面倒を見た後輩が上司になって、彼から「けちょんけちょんに文句を言われるようになった」(中村)。

 そんなある日のこと。中村は同僚と酒を飲んでいて「おまえは会社を潰す気か」と言われた。このひと言が中村を奮い立たせた。「とにかく自分で決めた研究テーマに取り組んで、それで失敗したら会社をやめよう」と腹を決めたのだ。

 そのとき、研究テーマとして選んだのが「実用化は極めて難しい」と見られていた青色LEDだった。そのプランを上司に言ったところで猛反対されるのが落ちだったので、中村は会長の小川信雄と社長の小川英治(会長の娘婿)に直接掛け合う。すると、2人はあっけないほど簡単に了解してくれた。

 こうして、研究を始めた中村は、大手企業が果たせなかった青色LEDの実用化をわずか4年足らずで成し遂げ、以降、次々と困難だとされてきた課題を実現していくのだ――。

多数派につかず我が道を行く

 それにしてもなぜ、東京大学や京都大学出身者が多数を占める大手企業のエリート研究者にできなかったことが、中村にはできたのだろうか。

 前出の江崎は中村について「マーベリック(maverick)な研究者だ」と言う。マーベリックとは、焼き印の無い家畜のこと。つまり、学会の派閥や常識にとらわれない一匹狼の研究者だと言うのだ。実際、中村をよく知る研究者たちは「(中村は)常に自分のペースで研究に取り組む」と口をそろえる。既存の論文には左右されず、自分で納得できるまで何回も何回も実験を繰り返すのだという。

 こうした研究態度は青色LEDの研究にもいかんなく発揮された。青色LEDの材料として、中村はあえて窒化ガリウムを選んだのだ。

 その当時、青色LEDの材料はセレン化亜鉛系と窒化ガリウムの2つがあり、ソニーや松下電器などの大手企業の研究者は前者を選んでいた。窒化ガリウムは、もしかしたら高い性能を出せるかもしれないが、欠陥の少ない結晶膜を作るのが難しいとされていたからだ。しかし、中村はそうした“常識”にとらわれなかった。かつて、大手企業に追随して苦汁をなめた経験も、この決断の背後にあっただろう。

 さらに中村は、窒化ガリウムの結晶を生成する半導体製造装置を自分で組み立てている。半導体製造装置について学ぶため、中村は88年4月から1年間米フロリダ大学に留学したのだが、大学には実験で使える半導体製造装置の数に限りがあったので、自分で作ったのだ。この経験が青色LEDの開発に生きた。ガスの注入法などを独自に編み出すことで、既存の半導体装置では得られない研究成果を実現できたのだ。

 中村が開発した青色LEDや紫色レーザーの発光原理を解析している、筑波大学物理工学系助教授の秩父重英は言う。「日本の研究者は、知識量は豊富だが頭でっかちになってしまって独自の発想を持てなくなっている人が多い。その点、中村さんは意外に物を知らない。だからこそ独自の研究課題を独自のやり方で克服できたのではないか」。

 いまや知識偏重になってしまった大手企業の研究者にとって、青色LEDの材料として窒化ガリウムを選ぶことなど常識の埒外だった。ましてや自分で半導体製造装置をつくるなどエリート研究者は考えもしなかっただろう。

 実は、徳島大学の研究室で受けた教育も、机上の知識だけに頼らない中村の研究姿勢に影響を与えた。担当教授(当時)の多田修は、「本なんか読まんでいい。作ったり実験することが大事なんや」と日頃から学生に言っていた。文献を読めば、どうしても真似をしたくなる。自分の頭で考えるには、自分で装置を作って実験する以外はないというのだ。多田は本ばかり読んでいる学生を叱りつけ、本を取り上げることもあった。

日亜トップの信念とぴたり一致

 当時の中村は、本好き、理論好きで、どちらかというと多田の方針に反発していた。しかし、自分で装置を作るようでないと独創的な研究などできないことが、日亜化学に就職して苦労を重ねるうちに実感できるようになった。だから、青色LEDの開発にあたって、まず装置作りから入ったのだ。

 しかし、中村が世界的な研究成果を実現できたのは、彼の研究態度だけが理由でない。日亜化学の経営トップの慧眼がなければ、中村の研究は日の目を見られなかったはずだ。

 窒化ガリウムを原料に使って青色LEDの開発に取り組みたいと中村が申し出たとき、社長の小川英治は当時の売り上げの3%に当たる5億円を研究資金として計上した。この決断について、小川英治は「道楽だと思って賭けてみた」と冗談めかして言うが、実は中村の才能を高く評価しており、その独創性に社の将来を託していたのだ。

 中小企業が大手に伍して生き残っていくには、「独創的な開発に成功して大手を出し抜く以外はない」(小川英治)。そのことを身にしみて知っている日亜のトップは、「他人の真似をするな」との信念を持っている。中村の独創的な研究課題は、そうした信念にぴたりと一致したのである。

 その意味で中村は幸運だった。彼自身、「日亜化学に入らなければ、今の自分はなかった」と言う。

 しかし、中村が日亜化学に入社したいきさつは、ほんの偶然だった。中村は実は京セラの内定を得ていたのだが、「どうしても徳島の企業に就職しなければならない事情ができた」ため、日亜に就職したのだ。

 その事情とは、子育てだった。大学の学園祭で、今の奥さんと知り合った中村は、大学院の修士1年の時に結婚。2年の時には長女が生まれた。「田舎で子供を育てるため、京セラへの就職を取り下げた」中村は、担当教授の多田に頼み込み、馴染みのなかった日亜化学を紹介してもらった。

 中村が訪ねてみると、当時の日亜化学は掘っ立て小屋のような感じだったという。会長の小川信雄もビックリして、「あんたみたいな優秀な人は当社にはもったいない。考え直したらどうか」と中村を諭している。しかし、中村は半導体材料の研究を続けられるというので迷わず入社する。

 独特な研究態度、日亜化学トップのバックアップ…。しかし、中村が独創的な研究をものにできた理由はまだある。それは、彼の集中力である。

 中村は「自分の前に立ちふさがる問題は必ず解かずにはいられない」と言う。難題であればあるほど燃えるタイプで、そのために自分をどんどん追い込んでいく。朝から晩まで、月曜から日曜まで四六時中そのことしか考えず、会社に行っても会議は出ないし、電話にも出ないという。

 その集中力が中村に画期的な成果をもたらしたのだろう。「多くの実験を繰り返しながら、ちょっとした変化を見逃さず、本質かどうかを見極められるタレント(才能)が、中村君には備わっている」と江崎は言う。

これからの日本に求められる資質

 何か1つのことに没頭するのは、子供時代からの性癖だった。小学校の頃から科学者に憧れを抱き、考えることが好きなタイプの中村少年は、暗記物は大の苦手で、社会科より数学の方が得意だった。その得意の数学にしても、公式を覚えず、試験中に公式を導き出してから問題に取りかかっていたという。

 徳島大学の工学部に進んでからも、その性癖は変わらなかった。専門の勉強をしたかったのに、一般教養の授業に出なければならないのが嫌で、入学して1週間で授業に出るのをやめてしまったのだ。

 それだけではない。意図的に友人たちから孤立してもいる。高校まで仲良くやってきた友人たちに、「もうこれから下宿に来ないでほしい」と宣言したのだ。「仲間が嫌いだったわけではなく、純粋に1人になって物理の専門書を読みあさりたかったからだ」と中村は言う。

 結局、中村が徳島大学を卒業したのは、母親に泣きつかれたからだった。1年の前期試験を受けなかったので、大学から実家に連絡が入った。事情を知った母親は、「お願いだから大学だけはちゃんと行ってちょうだい」と電話で中村を諭したのだという。

 いま、中村はかつてないほどの多忙になっており、これまでのように実験室に閉じこもってばかりいられない立場になりつつある。しかし、彼は実験室から離れようとはしない。

 「徹底的に実験に打ち込む研究者はほとんどいなくなった。今は中村君ぐらいしかいない」と西澤は言う。

 日本のエリート研究者の多くは、「先人のやった研究成果をなぞるだけで、せいぜい改良を加えるだけが関の山」(江崎)と言われる。その中にあって、中村は新しい物理現象を発見し、産業界にインパクトを与える製品を作った。

 そんな独創的な研究に打ち込んできた中村は、モノ作りで勝負する日本にとって、今後、どのような人材が必要なのかを見通す象徴的な存在だと言えるだろう。

(文中敬称略)

このコラムについて
ニュースを斬る

日々、生み出される膨大なニュース。その本質と意味するところは何か。そこから何を学び取るべきなのか――。本コラムでは、日経ビジネス編集部が選んだ注目のニュースを、その道のプロフェッショナルである執筆陣が独自の視点で鋭く解説。ニュースの裏側に潜む意外な事実、一歩踏み込んだ読み筋を引き出します。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20141009/272387/?ST=print


05. 2014年10月14日 06:58:31 : jXbiWWJBCA

「河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学」
「直感に頼るのは愚か者?」 中村修二氏の怒りとオトナへの警句

人間の直感こそ常識に囚われない根源的で自由な思考

2014年10月14日(火)  河合 薫

 “夢の青い光”を創りだした3人の化学者たちが、ノーベル賞を取った。すごい! 自分がいつも使っているモノを創りだした人たちの受賞なので、なおさらそのすごさが実感できる!

 小柴先生のときには、何度説明されてもどれだけ大きな窯を見せられても、ちっともニュートリノが理解できなかったし、小林先生と益川先生のときには、素粒子というものがとにかく一番小さいってことはわかったけど、「で?」という域から脱することができなかった。ノーベル化学賞の田中耕一さんとは対談までさせていただいたのに、やっぱり最後まで何だったのかわからずじまい。なんとも情けない。

 だが、今回は、LED。アノ青い光だ! 家にあるし、胸ポケットの中にもある(私の場合はお尻のポケットですが…)! って、携帯にLEDが使われているのは今回初めて知ったのだが……。

 「幻想的な月の灯りと、青い光のコラボですね!」と興奮気味にはしゃいでいたテレビキャスターのコメントは、私にはよくわからなかったけど、青い光が都会的で近代的な感じがするのは、20世紀中には無理と言われたものを見ているからなのだろうか(嗚呼、この私のコメントもわからないですね……)。

 いずれにしても、称賛と共にメディアでは例のごとく「切り出したモノ」が飛び交っている。キャッチーな言葉やエピソード。それだけが一人歩きすると、ときにめんどくさいことになる。

「これでまた、好きな仕事を探す学生が増えるぞ」
「僕は流行りの仕事はやりたくないです! なんて部下に仕事拒否されたりして」
「やりたい仕事ができないからって辞めるヤツ増殖!」
「電話にも出ない? ただでさえ電話に出ないヤツが多いのに……」
「会議をサボる輩も増えたりして」

 そんなことを思った人も多かったかもしれない。

 ただ、私は、「流行りのものをやるのでなく、やりたいものをやりなさい」という赤崎教授の若い研究者に向けたメッセージは、若者というより、今の日本の大学やキャリア教育、日本社会に向けたメッセージだったと受け止めた。目に見える成果ばかり求めていいのか。短期的な結果ばかり追いかけすぎてはいないか、と。

 でも、おそらく当の“本人たち”はそんな風に受け止めず、「やりたいこと探しキャリア教育」「成果命社会」は、ますます過熱するに違いない。

 そして、その勘違いの刃は若者たちに向けられるのだ。

 先月から後期の講義が始まり、既に2年生たちが「やりたいこと探し」に疲れ、「自分の強み探し」に苦悩していて、なんだか可哀そうになった。必死に就活本を読み、キャリアセミナーに参加し、ネットで情報を得て……。まだ、2年生なのに、大学生活を楽しむ間もなく、就活に囚われ、自信を失い、やる気をなくしていた。大学は就職予備校か?

 しかも、「面白そう!とか、やってみたい! って思ったら、なんでもやってみなさい。就活とか関係ないことでも、就活にちっとも役に立たないことでも、やりたい!って思ったら、やりなさい。ただし、とことん一生懸命やりなさい」と私が言うと、

 「ホントにやりたいことやっていいんですか?」と聞いてくる。
 「私、ダンスが大好きでもっとやりたいんですけど、就活が始まるから止めなきゃって思ってたんです」なんて具合に。

 彼らが「探しなさい」とオトナたちから言われている、やりたいこと探しっていったい何なのだろう? 私には訳がわからない。

 「自分の強みを探す」って、一体何?
 まだ20年そこそこの人生、その半分の年月に意識すらない彼らに、強みもへったくれもあったもんじゃない。

 そもそも、必死に「やりたいこと探し」だの、「好きな仕事探し」をしたところで、そんなもの見つかるわけがないじゃないか。

 「やりたい!」とか、「好き!」という感情は、自分の意志とは関係なく、無意識に湧き立つモノ。「好きだ」と思った時に、「なぜ、好きなのか? どこが好きなのか?」を論理的に説明することほど難しいことはない。「ただなんとなく」――そんな答えしか出せない。だって、無意識に湧き立った感情で、実にフワフワしたものなのだ。

 いわゆる、直感。そう、直感。直感に、あれこれ理由などない。

 この人間の直感こそが、まさしく常識に囚われない、根源的かつ自由な思考であり、困難を乗り越えるパワーのトリガーになることを多くの人たちは忘れている。

 20世紀中には不可能と考えられていた青い光が灯ったのも、ノーベル賞を取った先生たちの直感があってこそ。

 そこで今回は、「直感」について、あれこれ考えてみようと思う。

直感で選んだ方が、最後の満足感は高い

 まず、直感が人の心理に及ぼす興味深い実験を紹介する。

 バージニア大学のティム・ウィルソンらは、「直感と満足感」に関する調査を行っている。

 この実験は、被験者たちに「自宅に飾るポスターを1枚選んでもらう」という、シンプルなもの。ポスターは5種類。モネ、ゴッホの2つの芸術作品と、動物の絵が描かれた3つの作品である。ちなみに、被験者たちは、「芸術のことなど、これっぽっちもわからない」人たちである。

 最初に、被験者をAとBの2つのグループに分ける。

 そして、Aグループの被験者には、「5つのポスターから、1枚、いいなと思ったものを選んでください」と指示を出した。つまり、直感で選んでもらうようにしたのである。

 一方、Bグループには、「5つのポスターから、1枚選んでください。その際、その絵を選んだ理由を説明してください」と指示を出した。

 その結果、Aグループでは、ほとんどの人が芸術作品を選んだのに対し、Bグループでは動物の絵を描いた絵を選んだ人が大半を占めた。

 この選択の違いについて、ウィルソンらは次のように説明している。
「モネやゴッホの作品を選んだ理由を説明するのは、素人には難しい。だが、動物であれば、『カワイイ』とか、『野性的』など、何らかの選択の理由を説明することができる。実際、ゴッホを手に取った人も、選択理由を説明する段階でゴッホの絵を戻し、動物の絵に変える人が多くいた」。

 さらに、被験者たちに、選んだ絵を自宅の壁に飾るよう指示を出した。そして、3カ月後。絵の満足度の調査を行ったのだ。すると……

 2つのグループで、満足度に明らかな違いが認められた。直感に従って絵を選んだAグループの被験者はほぼ全員が、「この絵を選んで良かった」と満足していたのに対し、論理的に選択を行ったBグループの被験者たちは、「この絵は趣味じゃないと気付いた」「毎日、この絵を見なきゃいけないことを悔やんでいる」など、絵に対する満足感が低かった。

 どちらも個人の意志で絵を選択したにもかかわらず、直感だけに頼って選んだほうが満足度が高いことがわかったのである。

日本は、勘や直感に頼るのを嫌いがちだが……

 また、新入社員を対象に行われたアメリカの調査でも、直感と満足感の興味深い関係性が示されている。

 就職活動で会社を選ぶ際に、収入、昇進の機会など、その会社に入るメリット・デメリットを徹底分析したり、キャリアカウンセラーに頻繁に相談したり、キャリア会社が発表する企業ランキングなどを参考にした学生と、そういった客観的指標に頼ることなく、「この会社に入りたい!」と思った、まさしく直感で会社選びをした学生の仕事満足度を比較した。

 その結果、後者の直感だけで決めた学生のほうが満足感が高い、という結果が得られたのである。

 前者の学生のほうが年収が2割以上高かったにも関わらず、満足感が低く、多くの学生が、「ホントに自分の選択が正しかったのだろうか?」と、自分の選択に確信が持てないでいた。客観的データを用い、専門家の意見を参考に慎重に選んだにも関わらず、だ。

 もちろんこれらの調査結果だけで、「論理的に考えるな!」などと言うつもりはない。だが、直感という人間の心理機能が、その人の内面に潜む持続する嗜好性から引き出され、腑に落ちる感覚をもたらす、極めて大切な感情であると解釈することは十分可能だ。

中村修二さんは直感に従った

 「日本では勘や直感に頼るのを、どういうわけか嫌うところがある。理論を話したり理詰めに考える人を見ると、この人は大したものだということになってしまうことが多い。
 確かに理詰めに説明されたりすると、こちらにそれを上回る理論でもない限りは納得せざるを得なくなり、この人は理論家だ、頭がいいという具合になってしまう。そういう意味では理論というのは確かにすごいものだと思うし、特に新理論を打ち立てる人は大したものだと思う。
 しかし、だからといって、勘や直感を理論より下に置いてもいいのだろうか。勘に頼るからダメだと決めつけてもいいものだろうか」

 これは中村修二さんが著作『考える力、やり抜く力 私の方法』(三笠書房)の中で綴っている文章である。

 中村さんが、「青色発光ダイオードの開発に乗り出す!」と宣言し、その材料に窒化ガリウムを選択した時、同僚や上司たちの反応は、「アホと違うか?」という感じだった。それでも、中村さんは「自分にはこれしかない」という、自分の直感を信じたという。

 そんな中村さんに、多額の研究開発費をボンと出した日亜化学工業の元小川社長(故人)は、晩年、次のように語っている。
 「私は『チャンスを与えれば、必ず期待した結果が返ってくる』という自分の信条に従っただけだ」

 そう。小川社長も直感を信じた。まだ何者でもない、一介の研究者だった中村さんに投資したのは、直感以外の何ものでもなかったのである。

 直感――。ときに、心をキラキラ輝かせ、胸を激しく鼓動させる、この感情はいったい何?

 それは長年、心理学者たちの疑問だった。ところが最近、脳科学の研究の発達に伴い、だんだんとその正体がわかり始めている。直感は、「経験してきた過去に脳が一瞬で検索をかけ、その場に適した最もよいであろう選択に脳が導き出した答え」とされているのだ。

 脳科学を研究している先生に、興味深い話を聞いたことがある。

 人間の記憶の箱は2つあって、1つは「思い出すことができる記憶」。もう1つは、「思い出すことのできない記憶」の箱だ。

 例えば、「子供のころ、父親に連れられて上野動物園のパンダを見に行き、母親が作ってくれたお弁当をおサルさん見ながら食べておいしかった」といった非日常的で、エキサイティングな経験は、「思い出すことができる記憶」の箱に記録される。

 一方、両親とは毎日、顔を合わせ、母が作った食事を毎日食べているにも関わらず、“日常の1ページ”を思い出すのは容易ではない。だが、思い出せない=記録されていない わけじゃない。思い出せない記憶は「思い出せない記憶」として、確実に記憶の箱に刻まれる。

 この思い出せない記憶こそが、人間の価値観を養うのだそうだ。

思い出せない記憶が生きる力を育む

 私はこの思い出せない記憶が、人間の生きる力(=Sense Of Coherence)を育むと解釈している。

 Sense Of Coherenceは、直訳すると首尾一貫感覚。つまり、腑に落ちるという知覚(perception)であり、感覚(sense)である。それは、自分の生活世界や人生に対する見方・向き合い方の確信。単なる思い付きや思い込みではなく、自分の生き方の土台である。

 「経験してきた過去に脳が一瞬で検索をかけ、その場に適した最もよいであろう選択」である直感は、この「思い出せない記憶の箱」が開いた瞬間なんじゃないだろうか。

 自分の中に潜む、価値観や生きる力。だからこそ、直感には漠然とした確信を持てる。

 そして、その直感が、まだ手元にない、未来に向けられたものであるとき、私たちはそれを「夢」と呼ぶ。

 中村さんは、窒素ガリウムで青い光を作る夢を見た。
 小川社長は、中村さんがきっと何かやってくれるぞ!という夢を見た。

 赤崎教授にも夢があった。「戦後の荒野をさまよう日本の産業に貢献したい」――。その夢があったからこそ、「実用化の見通しが全くない青色LEDこそ自分のやるべき仕事だ」と確信し、流行りものに流されずにやり続けることができた。

 85歳の赤崎教授は記者会見で、「今後の目標は?」と聞かれ、

 「窒化ガリウムにはまだまだポテンシャルがある。青色発光ダイオードとかレーザーダイオードはできましたけど、まだ十分可能性を生かしきれてない。だからやることいっぱいあるんです」と答えている。
今も尚、夢を追いかけている。なんてステキなんだろう。

 夢――。

 「夢」と言う言葉は、綺麗過ぎて、私自身は滅多に使うことがない。くすぐったいというか、なんというか。とにかく、私には夢と言う言葉を上手く自分に当てはめる自信がないのだ。

 だが、未来に向けた直感=夢 と解釈すれば、私にも夢がある。あまりに幼稚で、「アホか!」と笑われそうで、絶対に公言できないけど、その“夢”が、今までも、そして現在も私の原動力になっていることは紛れもない事実だ。

「夢」が見つかったら、ひたすら具体的に動く

 なぜ、もっと夢を学生たちに、見させてあげられないのだろう?

 なぜ、将来の夢を語るべき若い人たちが、閉塞感を抱くような教育ばかりになってしまうのだろう?

 彼らにも、夢を見る瞬間があるはずなのに。なぜ、「その気持ちを大切にしなさい」とオトナたちは言ってあげられないのだろう。

 アレコレやっているうちに、「夢」ができることもあるだろうし、ふとした瞬間に夢が見つかることもある。中には、ボ〜っとしているうちに、はたと夢が現れた! なんて人もいるかもしれない。

 どちらが先であっても、ちっとも構わない。大切なのはその瞬間を大切にし、「夢」が見つかったら、そのあとはひたすら具体的に動くことだ。

 努力すること。勉強すること。考え続けること。失敗を恐れないこと。冒険をすること。孤立を恐れないこと。自分の直感を信じ、ひたすら頑張る。

 それは決して楽なことではないかもしれない。しんどいことだってあるだろう。乗り越えなくちゃいけない壁に、逃げ出したくなることもあるに違いない。

 でも、その起点となった直感を信じ、そのときのワクワクした気持ち、そのときの熱い気持ちを思い出せば、再び、頑張れる。

 それでも折れそうになったときに、サッと背中を押したり、手を引っ張ってくれる他者がいれば、再び、踏ん張れることができる。

 「自分ひとりでできたわけじゃない。支えてくれる人がいたからです」――。3人の先生たちも、そう語っていた。おそらく先生たちにも、折れそうになった経験があるんだと思う。

 で、そうやって頑張っていると、直感はますます磨かれ、奇跡を起こす。“ひらめき”だ。

 天野教授は、窒化ガリウムの結晶を作る炉の調子が悪くなったときに、「低温で確かめよう」とひらめいた。

 「炉が壊れて良かったですね!」なんて、ノー天気なコメントをするキャスターがいたが、炉が壊れなくとも、何らかの出来事をきっかけに、天野教授は成功していたと思う。

 先輩研究者の、「きれいな結晶をつくるには、汚したほうがいいことがある」と言う言葉を思いだしたのも、夜も昼も研究に没頭し、「思い出される記憶」と「思い出せない記憶」の箱に、たくさんのものが蓄積されていたからこそ。炉が壊れたのは、たまたまそれが、ひらめきのスイッチとなっただけだ。

 偶然じゃなくて、必然。磨かれた直感がひらめき、奇跡を引き寄せたのである。

 「なんとなく……」。そんな説明のつかない一瞬のひらめきに、実は大きな価値があることを、私たちはもっと認めたほうがいいのかもしれません。

このコラムについて
河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学

上司と部下が、職場でいい人間関係を築けるかどうか。それは、日常のコミュニケーションにかかっている。このコラムでは、上司の立場、部下の立場をふまえて、真のリーダーとは何かについて考えてみたい。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20141010/272429/?ST=print


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