07. 2014年10月10日 08:04:35
: jXbiWWJBCA
今年のノーベル物理学賞で最も重要なこと 20年後同じように日本の基礎研究は輝いているか 2014年10月10日(Fri) 伊東 乾 前回ベルリンからノーベル医学・生理学賞の業績について、思うところを静かにお送りしたのですが、翌日になって「日本人の」ノーベル物理学賞、国内は打って変わってお祭り騒ぎの様子です。化学賞まで出揃い、今年のサイエンス3賞の全貌が見えました。 日本の報道の「日本人受賞」「日本人は受賞を逸す」といった無内容な報道、正直、何とかならないかと思います。知的発展途上国と自ら宣言しているようなもので、率直に恥ずかしい代物です。 が、それで世間が反応し、受けるからとメディアもそれを続け、いつまでもそういうレベルにとどまる悪循環、そろそろ何とかしてもいいのではないかと思います。 本年度のノーベル物理学賞は、すでに周知のように赤崎勇、天野浩、中村修二の3氏が受賞しました。メディアは(前日「期待」が外れた?医学生理学賞のときとは打って変わって)「日本人への受賞」とお祭り騒ぎモードに一転している様子です。 が、そもそも中村修二さんはすでに日本人ではなく「日系アメリカ人」としてノーベル委員会も名を挙げているし、国際世論もそのように、つまり今年はアメリカ人と日本人が物理学賞を分け合った、と見ている。 小さなお国自慢ではなく、ここではもう少し違う観点から本年度ノーベル物理学賞を授与された業績関連で少しお話してみたいと思います。 評価の焦点は何か? まず第1に、ノーベル委員会が評価している「受賞理由」と、日本国内でお祭り騒ぎしているポイントとは、少しずれているような気がします。 国内の報道を見るに「青い光を点した」とか「LED(発行ダイオード)で三原色が揃い、応用に圧倒的な可能性が開かれた、圧倒的な市場シェアといった「美点」が強調されたものも見ました。 が、ノーべル委員会は決してそんなことを受賞理由に挙げていません。 委員会が評価しているのは「低消費電力の灯り」の開発による、地球全体規模での省電力への貢献です。 普通の白熱灯であれば40日程度しか持たなかったものが、蛍光灯の発明は電球の寿命を400日ほどに延ばした。それがLEDによって4000日まで伸びた。 今までたかだか1年前後の寿命であった蛍光灯の灯りが10年規模まで延長され、かつ消費電力は激減した。この低消費電力であれば、発展途上国の再生可能電力源も十分に支えることができる。 かたや日本の産業界は「原発をフル稼働させないと我が国の産業界は危うい」と言い、あまり思考能力がついているとは思えない陣笠がそれに追随したりしていますが、ノーベル委員会は同じ光量を得ながら消費電力は著しく少なくてすむ発光ダイオードの発明を、グローバルな省エネルギーの観点から高く評価している。 こういう、品位ある「技術の見立て」を、社会全体ができるようになってこそ、成熟した先進国、国際社会をリードする見識というべきでしょう。 「世界一の製品を作った」から、ノーベル賞が出るわけではない。仮に市場の圧倒的なシェアが取れれば、すでにそれで社会経済的には十分報われているわけですから、今さらノーベル賞を与える意味も理由も動機も存在しない。 何だか分からないけど先端技術の「ものすごい賞」みたいな、情けない捉え方をメディアまでがするというのは、どうかご勘弁いただきたいというのが正直なところです。 今日のノーベル賞はバブル期の遺産 赤碕先生が青色発光ダイオードの発振に成功したのは1989年のことでした。松下電器産業の研究所から名古屋大学に移られ、1980年代に取り組んだ窒化ガリウムの結晶化と最初のLED発光。赤崎さんはこの時点ですでに60歳、積年の仕事の総決算という意味合いもあったのではないでしょうか。 この初期から学生、助手、講師、助教授そして現在は後継者の教授として、常に若い力を奮ってこられたのが、当初は20代、現在50代の天野さんという形かと思います。 中村さんの仕事は商品化可能な高輝度青色発光の発振(1993)が喧伝されますが、単に「青が光りました」というだけでなく、赤青緑の三原色が揃うことで白色光の発光ダイオードが商品化される経緯、また並行するレーザー発振技術の進展にも大きく貢献しておられると思います。 こうした周辺については他の解説がより細かく裏を取って報じられると思いますので、別の話を記しましょう。 1980年代、天野さんは学生、大学院生として、50代の赤崎教授指導のもと、この研究に手を染めたのだと思います。実は私もこの当時、理学部物理学科の学生でしたので、新デバイスの動向は日常的に耳にしており、大学4年時の卒業研究では商品化されたばかりの新しいレーザーダイオードを使って仕事をしました。 私が与えられたテーマは、素粒子実験で用いる「光電子増倍管」日本語では「フォトマル」と呼ばれていますが、これが正常に動作しているかを確認、調整する「較正システム」作りでした。 指導教官の山本祐靖教授(東京大学・上智大学名誉教授)は赤崎先生と同世代、実際に指導していただいた岸田一隆さん(現・理化学研究所)はその助手で天野さんと同世代で、等身大の開発の空気が思い浮かぶ気がします。 LEDやレーザーと、白熱灯や蛍光灯の光の最大の違いは「素性の良さ」にあります。分子レベルで波長が厳密に決まった、単色性の良い光。レーザーはさらに位相が揃った光が大出力で発振可能なので「破壊力」を持ち得、私が子供の頃はウルトラマンなどが「レーザー光線」的な兵器を駆使して活躍していましたが、現実にも「レーザーメス」などが実用化されています。 私自身が担当した仕事は、素粒子実験で検出器として用いられる「フォトマル」に、素性のよく分かったレーザーの光を入れることで、きちっと動いているかを確認する装置の試作と動作確認というもので、非常に地味なテーマでもありましたが、流行ものにも目を配ってのテーマ設定でもありました。 おりしも青色発光ダイオードの発光成功が報じられ、新しいデバイスがあれば、何でもフルに使い倒そうというのは物理屋の発想ですから、ある意味ミーハーに、貪欲に、新技術の動向について研究室の「お茶の時間」に雑談を交わしたものでした。 が、こうした自由闊達な仕事が可能だったのは1980〜90年代前半あたりまで、バブル期ならではのことだったようにも思います。 実際「平成構造不況」などと言われるようになって以降、日本の大学がどれくらい、オーソドックスな基礎研究誕生の舞台として充実しているか、定かではありません。さらにはSTAP詐欺で露呈したように、おかしな「基礎研究利権」などもとぐろを巻くようになってしまった。 今出ているノーベル賞は多くが20〜30年前の成果が評価されているもの。逆に言えば2030年、2040年代に「日本発」(あえて日本人とかつまらないことは言いません、日本を舞台にインド人、エジプト人が仕事しても業績は業績です)の基礎業績がどれくらいあるか、未来に責任を持っているのは、現在の私たち自身にほかなりません。 オーソドックスな問題設定 さて、この種の話題では毎回同じことを記しますが、不易流行の骨法なのでここでも再び焦点を当ててみたいと思います。「業績」というのは「ターゲット」と「方法」の2つがきちんとしているとき、初めて大きな果実を生み出します。 例えば素粒子実験でも、これが確認できれば大業績、というテ−マ、ターゲットは山のようにあります。が、それをどうすれば確実に実現できるか、という方法については、現実的技術的な問題がうずたかく積み上がっている。 これ、科学でも技術でも、いろいろ言えることですよね。 「タイムマシン」とか「不老長寿の薬」みたいなごちゃ混ぜの「ターゲット」では、そもそも原理的に実現不可能なものも多いわけですが、「電球や蛍光灯ではなく半導体素子を用いて発光、ないしレーザー発振ができれば、様々な利点がある」という問題設定は、「真空管ではなくダイオードやトランジスタを用いて回路を組めば、様々な利点がある」という問題設定の光量子エレクトロニクス版で、古くは1900年代初頭から、少なくとも第2次世界大戦中には十分に現実的な開発課題になっていたものにほかなりません。 特に第2次世界大戦末期、コンピューターの実用化にめどが立つと、スイッチング阻止の固体化は至上命題になってきます。 と言うのは「電気の球は切れる」から。 例えば航続時間8時間の爆撃機や巡航ミサイルをコンピューター制御したいのに、その電子頭脳であるコンピューターが真空管でできていて、30分に1個は球が切れる、では兵器として使い物にはなりません。 第2次世界大戦直後、AT&Tベル研究所でトランジスタが実用化される背景には軍事的必然性がありました。事実、固体素子を用い長時間安定した電子制御が可能になって、急速に大陸間巡航ミサイル網は充実、いわゆる「冷戦」期を確実に準備した基盤技術の1つがダイオードなどの「固体スイッチング素子」にほかなりません。 これとほぼ同様のことを、私たちはつい最近、日本の交通信号機で経験しています。ほんの少し前まで、信号の灯りは電球が取りつけられていました。それが現在ではLEDに改められた。ちなみにこの原稿はアムステルダムで書いていますが、欧州ではまだ電球の信号機を目にします。 最初に書いた通り、電球の寿命はLEDとは比較にならないほど短い。と言うことは、かつては信号の電気の球も、頻繁に交換していたに違いないのですが、そういう風景をあまり多く目にした記憶がありません。 ともあれ、信号燈にLEDを用いれば「灯りの交換頻度」は100分の1程度で済み、経費も安く、また交換のたびごとに交通を遮断する必要などもなくなります。単に素子の寿命という以上の大きな意味がある。 真空管コンピューターで大陸間弾道弾が制御できなかったように、部品の寿命やスペック1つでシステム全体の成否が分かれることは珍しい現象ではありません。 そういう大本の問題意識に端を発した、基礎的な研究としても「発光LED」の業績は深く斟酌すべきものと思います。 白色LEDを用いた海中集魚灯 2005年の夏、私は中村修二さんの在籍する米カリフォルニア大学サンタバーバラ校に2週間ほど滞在したことがありました。地球持続性=グローバル・サステナビリティに関する国際プログラムに大学の派遣で参加したものでしたが、そこで中村さんのプロジェクトの1つをつぶさに見る機会がありました。その話を最後に記したいと思います。 知った当初は意外に思ったのですが、そのプロジェクトは「海洋技術開発」の部署が担当していました。 グローバル・サステナビリティつまり地球環境維持の問題で海洋技術開発、はよく分かるのですが、そこに中村修二氏と発光ダイオードとはなぜでしょうか。このとき中村氏は不在でお目にかかることはありませんでしたが、担当者の話を聞き、即座に納得がいきました。 彼らが開発していたのは「白色発光ダイオードを用いた海中集魚灯」の開発と、実際の漁労での試験応用などの実験だったのです。 海の中というのは過酷な状況です。そもそも周りは塩水だらけ。水圧もかかります。そういう環境化、長寿命で高品位な発光ダイオードを開発できれば、それ自体が地上での使用に当たって高スペック商品として競争力を持つ。 海中集魚灯は大規模な網を使った漁業で、毎回多数の集魚灯を使うそうですが、その電球と電池の交換頻度はそのまま人件費に跳ね返ってくる。また逆に海中集魚灯市場は小さなものでなく、すべてがLED商品になれば大きな売り上げも立つ・・・といったビジネスライクな話とともに、UCSBの担当者は「海中廃熱」について言及しました。 「白熱灯を用いた海中集魚灯とLEDとで、率直にいって漁獲率に違いはない。コストは大幅に安くなる。しかしそれ以上に重要なのは環境への影響だ。白熱灯は膨大な廃熱を海中に捨てているので、それがたび重なった時、海中の生態系にどういう変化があるか、その影響を私たちはまだ知らない。がLEDに置き換えれば、廃熱は無視できるほど小さくなるので、直接的な漁労以上に生態系に与える影響はミニマムに押さえられる。このエコロジーの観点こそが、私たちが白色LED集魚灯を重視するゆえんなのです・・・」 ざっとこんな話をされ、その精緻な理論構成に感心したものでした。印象深かったのは、こうしたイノベーションの推進をUCSBつまりカリフォルニア大学サンタバーバラ校自体が率先して行っていたことです。 私は東京大学の代表者としてこれに参加していましたが、日本の大学でこうしたことがきちっと取り組まれるには、根本的な体質改善が必須不可欠と思わざるを得なかった。 それは、約10年を経た2014年の日本でも、あまり変わりがないのではないか?とも思うのです。 この話をJBpressに書くつもり、とツイッターに記したところ、徳島県がLED集魚灯について調査していると情報を寄せてくださる方がありました。ありがたく使わせていただきたく思います。 2010年の日付ですので私がサンタバーバラに行った5年後、徳島県ということから日亜化学工業の地元で中村さんと点と線でつながるように思いますが、ここでは「省エネ」とか経費が安いとか電球の交換頻度といったことに一通り触れるとともに、サンタバーバラで最も誇らしげに語られていた、 「白熱灯で懸念される海洋環境に与える負荷:廃熱が少ない」 という点には全く触れられていません。この欠如と、今現在メディアに出ている「日本人がノーベル物理学賞」で報道される内容(で抜け落ちている「環境への配慮」)、あつらえたように一致しているわけですが、まさにそここそが、ノーベル委員会が今回の受賞理由として明記している最大のポイントになっていることに、気づかない人が多いことを懸念しています。 当然評価されるべき仕事がノーベル賞を得た。関係者には心からお祝いをお伝えするとともに、何が評価され、また特に若い世代の人、日本社会はここから何を学ぶべきか、については、十分考える余地があると思う次第です。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41934 |