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塩見孝也様、「ダンダリン 労働基準監督官」を見ました。 
http://www.asyura2.com/14/hasan90/msg/118.html
投稿者 shn 日時 2014 年 8 月 26 日 22:58:29: EW7wpe.Zqh2lo
 

これは、塩見孝也さんが「9条改憲阻止の会 メーリングリスト」に投稿された「日本テレビ・「ダンダリン・労働基準監督官」について。」に応えようとして同リストに投稿したものです。ご参照いただければ幸いに存じます。

塩見様
日々、職場でご苦労されているようですね、新自由主義者たちを論破出来ていないのですか、言い負かされてしまっていませんか、釈迦に説法を解くわけではないのですが、近代経済学の三つのインチキについてまとめてみました。

新自由主義とはこのようなものです。

―(ここから引用)

『なぜ貧しい国はなくならないのか』  大塚啓次郎

第3章 なぜ貧困を撲滅できないのか?
p76
自発的な取引は、買い手にも売り手にも利益をもたらす。だから、できるだけ自由に取引をさせるべきだというのが、自由主義経済の根幹をなす考え方である。これは市場原理のコア部分であり、「見えざる手」の原理とも呼ばれる。これは極めて重要な考え方であるので、(略)少し説明を加えたい。

 (略)「見えざる手」の原理は理解してほしい
 経済学の基本中の基本は、Adam Smithが提唱した「見えざる手」の原理である。この点を丁寧に説明していないミクロ経済学の教科書が多いが、私はそれを実に嘆かわしいことだと思っている。なぜならば、これこそが自由主義経済の基本原理だからである。
 ある消費者が、自発的にある商品をある価格で買ったとしよう。なぜか。それは、この消費者は支払った価格以上の喜びを得る、と考えたからである。つまり、そこにある種の「余剰」(支払った分以上の満足感)が生まれたはずである。
 他方、企業が自発的にある商品をある価格で売ったとしよう。なぜか。それは、売った価格のほうが生産の費用よりも高いので、儲かるからである。つまり、そこに「余剰」(利潤)が生まれている。
 それでは消費者にも企業にも、自発的な取引を自由にしたいだけさせたらどうなるか。消費者と企業の双方が得をするような取引がなくなるまで、徹底的に取引が行なわれるはずである。その状態では、生産者と消費者がともに喜ぶような「うまい」取引はもう残っておらず、それ以上の取引は行われない(厳密には、各取引の量が少なくて、おのおのの取引が他の取引の条件に影響しないという仮定が必要である)。それは、一種の理想状態である。(経済学ではこれをパレート最適と呼ぶ)なおこの例では、企業が売り手で消費者が買い手であったが、買い手や売り手がどのような経済主体であるかは問題ではない。例えば労働者が労働というサービスを企業に売る場合にも、「見えざる手の原理」は成立する。
 興味深いことに、この例で登場した消費者や企業は、自分の利益しか考えない利己主義者たちである。利己主義的な経済主体が自分の利益を追求すると、あたかも「神の見えざる手」に導かれるかのように、社会的に最適な状態が実現される。これが、Adam Smithの偉大な洞察であった。

― 引用ここまで。

1.利潤とは何か

 ご存知のように、近代経済学では「利潤とは何か」に答えられていません。

私の持っている古い版のサミュエルソンの「経済学」の「利潤」の章を開くと、
「利潤がなぜ可能かという問いにはいろいろな説がある」という意味のことが数行書いてあって、以下が空白になっている。次のページをめくると次の章が始まっている。サミュエルソンには、利潤とは何か、が答えられなかったのです。
 このあいだ図書館で覗いたスティグリッツの教科書には目次にさえ「利潤」という項がありませんでした。

 買った値段より高く売り、その差額が利潤だ、とするとどういうことが起こるか。

1コの地球の上に60億の人間がいるとして、60億回も暗算はできないので、60人の小学生が遠足に行った話にしましょう。バスで出かけたことにすると、運転手はどうなる、ということになるので、ゆりかもめで海水浴に行った、ということにします。実際の人間の持っているお金の額はそれぞれバラバラに異なりますが、それも単純化して、全員一律1万円とします。財としてはとりあえずおにぎりが1コだけ、で話をすすめます。

60人の小学生がユリカモメに乗って海水浴に行った。小学生Aが朝食べるつもりでおにぎりを1コもってきた。けれどおなかがすいていなかったのでそれをBに100円で売った。
 おなかのすいていないAからおなかのすこしすいているBにおにぎりが1コ移動したことによって車内は(世界は)少しhappyになった。しかしお金は増えていない。
 Aの所持金は10100円に増えたが、Bのお金は9900円に減った。お金は移動しただけだ。車内の(世界の)お金は60万円、増えてはいない。

ここで、Bがおにぎりを食べようとしたら、もっとおなかをすかしたCがぜひ売ってくれというので200円で売ったとする。世界はもっとhappyになるがお金は増えない。DやEを登場させて300円、400円にしたとしても、いくらやっても同じで、かつ、セリにかけて一番高い値を付けた例えばFに売ったとしてもhappy感覚は極大になるがお金は増えない。

AがFに直接おにぎりをやったとしても世界は同じだけhappyになるがそれでは資本主義的利潤ではない。利潤はどこからどこへモノを動かしたらよいかを知るための目印になるが、利潤の分だけ世界のお金が増えた、というわけではない。

ここでさらにGが登場して、このおにぎりが100円ずつ値上がりしているのに目をつけて、転売目的で1000円で買い込み、食べないでしまいこんだとしたら1000円の「資産」になる、世界の富が60万円+1000円になるかというと、資産価値の額というのは「思惑」「見込み」であって、実際に売れて決算した額ではない。GがHに、このおにぎりは将来1万円になるのだけれど、特に君に5000円で売ってやるよ、などといえばGは5000円儲けるかもしれないがその5000円はHが出している。お金は増えない。

1000人の人が1万円ずつ持って競馬場に来た。お金の合計総額は1千万円。それぞれ馬券を買って、これは○○倍になると思惑をめぐらせると、××式馬券価値総額(略してバカ総額)なるものは何億円にも、何兆円にもなるが、レースが終わってみんなが持って帰るお金の総額は1千万円。これは株式投機で株価総額が上がった下がったと騒いでも、決算すればだれかが損をした分がだれかの得になっているだけ。お金は増えない。株で儲けを増やすためには、損する人を増やさなければならない。

1億円の利潤が出たとするとその1億円は移動してきただけ、増えたわけではない。
お金には利息がつく、などという人がいるが、小学生AがBから1000円を借り、1100円を返したら、Aの持っているお金は9900円、Bの持っているお金は10100円。ふえない。

(昔の私の同僚、向かいの席のP君、都立大経済学部卒は「利潤」の話を吹っかけるとだんだんいやーな顔をしだし、最後は「この宇宙にはお金が利子を生むという性質があるのだ」と宣言するのでした。)

利潤は悪だといっているのではない。利潤は増えたのではないから、利潤を溜め込んでしまうと消費不足が発生するからまずい。

利潤は増えたのだと思う勘違いはローザ・ルクセンブルクも(水野和夫も?)やっていて、例えばある国に資本家と原料提供者と労働者がいるとして、資本家はお金を、例えば100億ドル(この国の全資本)もっている。労働者はお金をもっていない、利潤率20パーセント、という場合を考えると、
 資本家が70億ドルを払って原料を買い、30億ドルで労働者を雇って120億ドルの商品を生産する。

「100億ドルの資本」→70億ドルの原料+30億ドルの労働→「120億ドルの商品」

その商品を原料提供者と労働者が買うが、この国には100億ドルしかお金はない。利潤の20億ドルはどこからやってくるか、それは外部からやってくるしかない、資本主義は外部の世界(植民地)を必要とする。植民地がなくなって世界がすべて資本主義になった時点で資本主義は崩壊する、という理論を唱えたけれど、これも利潤は増えたのだと勘違いしたことによる単なる誤解。

「利潤」分の生産物が増えたのだとすると、その「利潤」分に対する購買力が存在しない。

(この部分の詳しい説明は「資本論」か、置塩信雄「蓄積論」に書いてある。)

「マルクス主義者」たちは流通・交換過程では価値の増殖は起こらない、価値増殖が起きるのは生産過程だけだ、としている。

では、本当に生産過程で増殖がおこるだろうか。

マルクスは単純再生産をする世界から話を始める。生産サイクルが一回で終わってしまったら社会を維持できないのだから、生産サイクルの終わりにはもう一回生産サイクルを始められるだけの条件が、言い換えれば当初の自己自身が、回復されていなければならない。まず単純再生産を考えて、その後で利潤を再投資する拡大再生産を考える。

 単純化のため、資本家(企業)は土地を含め資本財をすべて所有しているとする。利潤率は20パーセント。労働者は一年に1俵の米を食べ、1.2俵の米を作る。1俵は1ドルとする。

資本家が100ドルを出して100人の労働者を雇い、1年で120俵の米を生産した。そのうちの100俵を労働者が100ドルで買う。資本家の手には還流した100ドルと20俵の米があるが、それは現金にならない。利潤は実現しない。これでは前の例と同じだ…

 ところで、

100人の労働者が資本家の土地を耕して(労働+資本)1年で120俵の米を作っている間、かれらは100俵の米を消費する。ではその米はどこにあったかというと、前年度に生産された米を100ドルで買ったのだ。彼らは1年を生き延びなければならない。と、同じように資本家も、この1年を生き延びなければならない。彼らは利潤によって自己を維持する。彼らの利潤はいくらだったか。20ドルだ。それは彼らの前年度の利潤だ。

つまりこのはなしは100ドルから始めたからおかしいのだ。
この世界はもともと120俵の米を作っている総産出額120ドルの世界だったのだ。

(GDP=GDIなのだから、といってしまうと少し意味が違ってくるだろうが)
商品の総額=収入の総額なのだから、
そして総収入は当然利潤の収入も含むのだから、(収入=賃金+利潤(+地代))
総収入がすべて支出されれば総商品が売り切れ、そのとき利潤も実現する。

(小田原のカマボコ業界が100億円で魚を買い、100億円で労働者を雇い、利潤を10パーセントと計算して、220億円のカマボコを売りに出した。220億円のカマボコがすべて売り切れるためには220億円の収入がすべて支出されなければならない。)

このとき、「利潤」が増えたのだと思って溜め込んでしまうと、同じ額だけ商品が売れ残り、大変だ、儲けが出ない、といって外国に輸出し、ああこれで利潤が出た、などと思っているときには、相手国でその分の購買力が失われ、その国も輸出攻勢をかけ、海外市場獲得をめぐって帝国主義戦争が起こる。また、その増えたと思った利潤を外国のほうが利益率が高い、などと考えて海外投資するとそれは資本流失であり、国内に失業が発生する。

(ここは重要。利潤を得るためには輸出を増やして貿易収支を黒字にしなければならない、などということはない。利潤は国内市場だけで実現できるのであり、その利潤を国内に再投資すれば国内市場だけで経済成長もできる。もしそれができないのなら、世界資本主義も経済成長はできないことになる。)

資本家は初め120ドル持っていた。そのうち100ドルで労働者を雇い、20ドルで前年度の産出120から自分のための消費財を購入する。(このとき、今の話では、産出は米しかないという前提だから米を買うけれど、資本財の補填に当てる、という話に組み替えることもできる。)労働者が賃金の100ドルで残りの100を買う。資本家は120の貨幣を回収し、労働者は一年分の労働力を回復する。これで生産のサイクルはつながり、経済は回転し続ける。

利潤は外部からもたらされるのではなく、内部から出てくるのだ。利潤は足し算・掛け算ではなく、(全体が増えたのではなく)、引き算・割り算なのであって、(全体1の中の、資本の分け前なのだから)利潤を増やしたらパイの大きさ全体が大きくなるのではなく、利潤以外の収入=賃金が減るだけだ。地代を引き上げても米の生産量が増えるわけではない。


100が120になるのは資本の側から見た見かけの運動であって、120の生産物と120ドルのカネが回転しているだけだ。マルクス経済学で労働者の立場から見て、生産手段を労働者が自己所有していれば120はすべて労働者のものになるはずだ、と考えれば20は不払い労働、剰余、搾取、ということになる。
 マルクスの場合、このままでは総生産の金額は増えないが、総量が増えた時は、彼の時代は金貨だったから、金価格が上昇し、金の採掘量が増やされ、金で量った総額も増える、と説明していたと思うが、今なら日銀が物価安定をすればGDPの数字も増える。
(いきなり数字をいじっても意味がない。Aが100円のパンを1個、Bが100円のリンゴを1個持っていたとする。AがBに110円でパンを売り、BがAに110円でりんごを売り…とやっていくと数字はいくらでも増える。)

(一般国民の間ではトピックにならなかったけれど、1960年ころ、置塩信雄と森嶋通夫によってほぼ同時に「労働の搾取が存在することが、利潤が存在することの必要にして十分な条件である」という「マルクスの基本定理」が証明されたのだそうだ。その後いろいろな異論反論が出たがほとんどクリアされ、もう決まりといっていいらしい。
 記憶で引用すると、森嶋は、労働者が自分の労働によって生産したものをすべて自分で消費すると、利潤が0になる、ということを証明した、ということだったと思う。)

――サミュエルソン 経済学13版では利潤を「残差」としている。

第6章 国民産出と所得の計測
「いったい利潤とはなんであろうか。利潤とは、(オレンジとかりんご、パンとか理髪など)製品の売り上げの中から、他の要素費用――賃金、利子およびレント――を支払ったのちに残ったものである。
 したがって利潤は、下半部の費用または稼得額を上半部の財貨価値とちょうど等しくなるよう自動的に調整する残差である。」

これなら森嶋と、無矛盾である。――

利潤を増やすと全体が増えるのではなく、利潤以外の収入(賃金)が減る。その時利潤を投資すれば資源が労働者の生活用品から資本にシフトし、産出が増えて、そこで初めて世界が豊かになる。利潤が投資にまわらなければ金持ちがスーパーリッチになるだけ。

ここで気をつけなければならないのは、搾取は悪だ、といってはいけないということだ。

搾取のない理想の社会、などといういんちきを信用して生産物をすべて消費してしまったら、来年蒔く種子もない、壊れた農機具も補充できないことになる。マルクスはそんなことは言っていない。剰余はゼロにならない。松尾匡は「剰余」という価値中立的な言葉を使わないで、ちゃんと「搾取」と言うべきだというけれど、社会主義の世界でも剰余は必要なのだから、そうすると、「資本主義的搾取」と「社会主義的搾取」とがあることになる。

「資本主義的搾取(剰余)」と「社会主義的剰余(搾取)」はどこが違うか。

かつてトロツキーは、(革命に勝利して)権力を握り、新しい社会主義の建設を始めようとしてみたら、今のロシアの生産力では社会主義建設には不足していることがわかった、といって「社会主義的原始蓄積」という概念を提示し、われわれはその期間を全速力で駆け抜けなければならない、としたが、それはつまり資本主義的搾取・蓄積が足りない分、社会主義的搾取・蓄積が必要になる(しかもさらに過酷かもしれない)と言う意味だ。

「搾取」とか「社会主義」という言葉にアレルギーのある人は、森嶋通夫が「資本主義社会の変動理論」の第五章 成長率による経済変動分析 5,8 長期的完全雇用政策 の中で考察している「労働主義」を思い浮かべればよい。
 森嶋はそこで、
「経済を二つの型に分かち、前者を『人口不足型経済』後者を『人口過剰型経済』と呼ぶことにしよう。」
とし、前者をアメリカ、後者を当時の日本を含むアジア諸国として考察している。

「労働主義は少なくとも次の三つの要求をもっているであろう。(i)完全雇用の長期的維持、(ii)大なる所得分配係数、(iii)豊かなる消費生活すなわち高い消費性向。ところで前述したように、労働者階級への所得分配係数を大きくすることおよび消費性向を引き上げることは適正成長率の低下を意味し、したがってそれは人口不足国においては完全雇用の長期的維持に資することになる。すなわち人口不足国においては労働主義の三つの要求の中に矛盾はない。しかしながら人口過剰国において労働主義の第二、第三の要求を貫くときには、完全雇用の長期的維持はますます困難となる。すなわち他の強力な手がうたれない限り、人口過剰国において労働主義の三つの要求は矛盾するとみられる。」

「アメリカに見られるごとき労働主義と資本主義の楽天的な調和はアジアには存在せず、アジアの労働主義はその二律背反のゆえに資本主義を敵とするに至るであろう。」

(ここで森嶋が書いている
「労働者階級への所得分配係数を大きくすることおよび消費性向を引き上げることは…人口不足国においては完全雇用の長期的維持に資することになる。」という指摘は、現在の人口不足国である日本にとってとてつもなく重要!!)

トロツキーと森嶋は同じ情況にある国の同じ課題について考えている。

今、まだまだ貧しい国で社会主義権力が成立したら彼らは何をなすべきか考えてみる。

                                  つづく
塩見孝也様 2    7.23


いま、まだまだ貧しい国で社会主義権力が成立したらその国は何をなすべきだろうか。

・地主株主は社会の寄生虫なのだから彼らの取り分は極限まで減らす。
・資本主義ではないのだから労働者を使い捨てにしてはいけない。といって労働分配率を上げれば蓄積が遅れる。とりあえずある程度の賃金を保証し、しかし労働者には最大限度の貯蓄を呼びかけ、実質的な国民の総消費を押さえ蓄積(貯蓄・投資)に回す。
・経営から地主株主を排除し、実権を経営労働者がにぎる。
・政府は総投資をコントロールする。
                              ……


ここから、一部でトンデモとする人もいるが、ヴェルナーの「円の支配者」をかなり長く引用する。

彼は「日本型」経済システムについての描写しているのだけれど、実はこれはマルクスの考えた資本主義より、マルクスの考えた社会主義(資本主義の完成としての社会主義)に近いのではないのか、と思うからだ。

円の支配者  リチャード・A・ヴェルナー 

第2章 戦時経済

未来は過去にある
 1945年の敗戦が新生日本の始まりを告げる分水嶺だった、とよく言われる。……
 そこで、日本に関する多くの本は1945年から分析が始まっているし、日本史はふつう戦前と戦後に整然と分けられる。だが、いくら見慣れていても、このやり方はやはり間違いだ。日本史を戦前と戦後に分けると、今世紀で最も重要な時代がすっぽりと抜け落ちてしまう。戦後日本の社会、経済、さらには政治のシステムまで、「いかにも日本的」といわれる性格のすべてが形成されたのは実は戦時中だからである。……

この自由市場経済はどこのもの
 以下の事実を読んで、どこの国の話かあててみていただきたい。この国はまじりけのない資本主義が特徴だ。この国では、企業が外部資金を調達する主たる場は株式市場である。株主は非常に強力で、高い配当を要求する。そのために経営者は短期的利益を追い求める傾向がある。経営役員の多くは社内から選ばれず、外部のものが任命される。熾烈な企業買収合戦のおかげで、経営者はいつ企業買収の攻撃を受けるかとおちおちしていられない。おまけに業績を上げられなければ、即刻地位を追われる可能性がある。

 この国の労働市場では採用、解雇が頻繁に行われるし、従業員の転職率も高い。所得と富の格差は巨大だ。豊かな資本家階級の家族たちは配当収入で暮らしている。貯蓄率は低く、消費が80パーセントと国内総生産の最大部分を占めている。政府の規制は少ないし、官僚が経済に直接的な影響力を行使することも少ない。それどころか、官僚は政治家に言われた通りに行動しなければならない。政策課題については激しい論争があり、国民は政治に高い関心を持っている。

 これは現在のアメリカだと考えるのは当然だろう。確かに、アメリカにもよくあてはまる。ところが、実はこの国とは日本なのだ。戦後の日本ではなく、1920年代の日本である。多くの専門家は、典型的な「日本型」経済体制は前世紀からあって日本の古い文化に根ざしていると考えている。ところが、今我々が知っている「日本型」経済体制は1920年代には存在しなかったと知ったら、きっと驚くにちがいない。

(以下、小見出し列挙)

1920年代の日本――純粋な自由市場資本主義の国
市場シェアではなく、手っ取り早い儲けが目標
1920年代の日本はアメリカよりも資本主義的
日本を変えた危機 ……国民所得が縮小し、全世界に貧困が広がった。この貧窮の度合いは、今となっては想像しにくい。飢餓が蔓延し、子供を売春婦として売り飛ばすという事態がアメリカ、ドイツ、日本で起こった。1930年代初めに日本の軍部が行った全国調査では、栄養不良や病気、労災による障害などで軍務に適さない青年の割合が大きかった。いっぽう、資本家という太ったネコはぬくぬくと暮らしていた。日本のエリートは、何とか手を打たなければ軍事力にも労働力にも深刻な支障が出ると感じた。大恐慌の原因を十分に理解したとは言えなくても、どうも資本主義システムそのものに欠陥があると考える思想家や為政者が増えた。……

内外の脅威
自給自足経済を求めて
革新官僚が新システムを追求
日本の軍国化
成長最大化のシステム
 支那事変下の1940年、日本の官僚はこうした法的権限を握り、新金融体制、新財政政策、新労働体制からなる新経済体制を宣言した。全体の調整権限は1937年に設立された企画院が握ることになった。企画院はいわば軍事経済の参謀本部であり、その任務は可能な限りの高度成長を実現する新経済体制を樹立し、資源を最優先産業に振り向けることだった。

 この構造変革の目的は、可能な限りの高度成長という目標に向かって誰もが邁進するよう、インセンティブを与える制度的枠組みを作り上げることだった。経済成長は資源の一部が蓄えられ再投資されて実現する。投資が増えれば増えるほど経済成長は高まるし、国民所得は増大する。初めに一袋のモミをもっている農民は、これを蓄えるか消費するかの選択を迫られる。現在目いっぱい消費してしまえば、今年はたらふく食えるが、来年は飢えるだろう。蓄えて種まきに、(再投資に)まわす量が多ければ、将来の収穫も増える、一本のイネから百粒以上の米がとれるのだ。消費量が増えれば、種まきにまわる量は少なくなる。

 企業は農民のようなものだ。利潤を貯蓄に回して再投資するか、あるいは株主に配当として支払うかを決断しなければならない。配当が少ないほど再投資額は増えるし、企業の成長は速まる。高い経済成長を達成するには、個人が貯蓄し、企業が利益を再投資する経済機構を作り上げなければならない。

企業所有と支配の分離
株主は成長の邪魔
 株主の目標は利潤の最大化だ。彼らがいちばん関心を持つのが高い配当であれば、企業が再投資する資金は枯渇し、成長は遅れる。つまりは、少数の富裕な所有者が生産的な投資ではなく、つまらない目的のために余剰資金を使ってしまうということが起こりやすい。所得の不平等は拡大し、投機や無駄な消費物資の生産が増加して、経済成長率は低下する。所得と富の格差が大きければ、平等な分配が行われる経済に比べて消費は低迷するだろう。スーパーリッチは総所得や富のごく一部しか消費しない。

 勤勉に働こうというモチベーションが従業員になく、高賃金と労働時間の短縮を強硬に企業に求めれば、これも利潤を低下させ、それが経済全体に波及すれば経済成長率そのものが低下する。そこで革新官僚は株主と従業員にあまり力をもたせると成長を阻害するという結論に達した。

 だが経営者は違うと彼らは考えた。経営者は企業内部で出世すれば高い報酬を受け取れるだけでなく、威信が高まり、企業の(経費支出を含めた)資源に大きな権限をふるうことができる。企業の階級はピラミッド型だから、底辺は数が多くて上に行けばいくほど数が少なくなるが、企業が大きくなればそれだけ多くの経営者がトップランクに上ることができる。したがって、株主と労働者の目的は経済成長全体の促進という目的と直接には結びつかないが、経営者の目的はこれと一致する。

資本家なしの資本主義がいちばんうまくいく
 株主と労働者の力を剥奪し、経営者の力を強めてやれば、経済成長を加速できる。1930年代の為政者はそう考えた。大企業の経営者は彼らにとって同盟者で、株主と統制のきかない組織労働者は敵だった。だが労働者は上手に扱えば仲間に引き入れることができる。(註11 1938年のある内務官僚の言葉を借りれば、「株主が取締役会の所管事項や経営方針の決定に口を出し、会社の利潤をもっていってしまうなら、株式会社制度に重大な欠陥があることは疑いない」。そこで彼は、利潤を経営者や従業員、再投資に厚く、株主には薄く分配する企業構想を述べたという。)……

 しかし、株主をなだめて高度成長という全体目標に合わせるよう仕向けるのは難しい。関係者三グループの中で成長にいちばん役立たないのが株主だ。革新派は、大企業が優勢な現代経済においては、資本主義は資本家なしで、代わりに強力な経営者がいたほうがよろしいと判断した。

経営者資本主義と家族としての企業
 ……1938年にすべての企業で「産業報国会」が結成されて、正式に実行された。経営者と従業員の共同委員会がつくられ、労働者はここで自分たちの関心事を表明するとともに、経営判断に参加できることになった。同時に労働組合は解体され、すべての組合活動は企業レベルに振り分けられた。これで、労働者に譲歩しすぎて企業の成長を危うくするような事態は確実ら避けられる。

 いっぽう、株主の役割は縮小された。1940年に発表された新労働体制では、企業は株主の所有ではなく、そこで働く者の共同体だということになった。……

新労働体制――われわれが知っている日本の誕生
 ……経営者と従業員のための画期的な福祉制度が導入された。1938年の国民健康保険法と翌年の職員健康保険法によって、事実上、被雇用者の健康保険制度が整った。……

メインバンク制度の創出
日本の高貯蓄率のルーツ
 ……こうして消費が抑制され、家計部門の富は企業部門へと移されていった。

新生日本
 1937年から45年までの変革で、企業の機能は様変わりした。「滅私奉公」というスローガンの下、新経済体制は企業を利益追求の民間事業から、利益ではなく成長を目標とする半官の事業に見事に変容させた。……労働力は根こそぎ動員され、農業部門から工業への労働者の移動によって、日本は工業国へ不可逆的な変身を遂げた。失業は一掃された。戦時経済の計画者たちは、利用可能な資源による生産高を最大にするという目標を達成した。

一党支配体制の導入
日本型のシステム――戦時経済
 1945年に日本が降伏するころには、戦後経済構造に不可欠な要素のすべてが確立されており、日本は20年代の自由市場資本主義から、統制された戦後の「日本型」資本主義へと移行していた。……戦時の総動員によって、それまではほぼ農業社会だったものが、軍隊式の労働スケジュールに従順に従うよう訓練された工業労働者の集団へと変わった。

 1937年から45年までという短期間に突然戦時経済システムができあがったことは、エコノミストや歴史家を驚嘆させるはずだ。第一に、このシステムは驚くほど一貫していて論理的に整合性があり、きわめて効率的だった。このシステムは単独では機能しなかっただろう。全体がまとまって実行されたからこそ、諸外国の自由市場システムを徹底的に打ち負かし、戦時中の急成長だけでなく、戦後日本の「奇跡の経済成長」まで実現することができたのだ。……

第15章 もう一つの奇跡

(略)このような信用政策によって、日本の経済システムの重点はたちまち変化するだろう。資本家なしの資本主義と、収益ではなく規模の競争に基盤を置く奇跡的な経済構造は維持できる。重要なコントロールのツールである信用創造が民主的な監視のもとにある限り、日本経済は高度成長を実現しつつ、同時に国民の生活水準も生活の質も向上させることができる。戦時経済体制は、日本が自由市場方式の資本主義につきものの欠点と膨大な人的コスト、つまり所得と富の不平等と高失業率、高い犯罪発生率などさまざまな社会的不公正を回避するのに役立ってきた。システムを維持しつつ、時代に合わせて調整すれば、これらの利点も存続させることができる。……

 戦争直後の指導者たちは自分たちが戦時経済を運営していることを知っていたが、政治的な理由から事実を口にしなかった。冷戦のプロパガンダによれば、戦後日本はアメリカ流の政治・経済システムを取り入れたはずだった。真実を話したがらなかった指導者たちは、昭和天皇を含め、日本経済がなぜ奇跡を成し遂げたかという秘密を墓場にもっていってしまった。1980年代、90年代に君臨した官僚や政治家たちには、日本経済の性格に対する理解すらなかった。同じくアメリカの指導的な指揮者たちも、日本の戦時経済の性格についてほとんど知らず、その利点も可能性もわかってはいなかった。皮肉なことに、戦後日本の第一世代のエリートたちはアメリカに派遣され、アメリカ流の経済学を勉強して博士号だの経営学士号だのを取ってきた。彼らは自由市場理論を学んで帰国した。だが、自国の経済の原則について正式な教育を受けたことは一度もなかった。日本のどこを探しても、日本の戦時経済体制がどう機能しているか、どこにその根拠があり、どんな利点をもっているかを詳しく解明する理論はなかった。

 新古典派経済学では一種類の経済システムしか想定されていない。純然たる自由市場経済で、株主とセントラルバンカーが最高の支配者である経済システムだ。日本の若いエリートたちは、アメリカのエコノミストの理論をすぐにそっくりそのまま繰り返した。アメリカの指揮者が日本はシステムを変革すべきだと主張すると、日本ではエコノミストも産業界の指導者も官僚、政治家も、誰も反論することができなかった。年長の指導者の多くは直感的に、日本のシステムは国民に役立っているのだから、あわてて捨ててはならないと感じた。だが、彼らには他人を説得できる合理的な根拠がなかった。アメリカの指導者は自由市場システムを何十年も研究してきた成果を踏まえて、容易に議論に勝つことができた。結局は、日本の生産性を引き上げるために古いシステムを改革すべきか、それとも捨てるべきかという議論は一度も行われなかった。

――――――――――――――――――――――――引用ここまで

これを単に軍事を最優先した戦争経済システムだ、と切り捨ててはいけない。ツキディデスの「歴史」の中に、アテネの民主制をたたえたペリクレスの演説が残されているが、あれはスパルタとの決戦を前に、アテネの民衆を鼓舞するための演説だ。極限の戦争は極限の民主主義を要求する。武装した国民によって守られずに民主主義は存在しうるか、武装した労働者の隊列によって守られない社会主義権力は存続できるか…

 蓄積に次ぐ蓄積、自己目的化された蓄積、が資本主義の本質だとマルクスは言ったけれど、資本主義においては蓄積は資本家(株主)の私的所有という項を通さなければならない。(もしかしたらしないかもしれない。)純粋に蓄積を実現しようとした「日本型経営システム」は資本主義の完成としての社会主義と言っていいのではないか。資本の社会化も実現していたわけだし。

ではその日本型経営システムはなぜ壊れたのか。

「システムが行き詰ったから」ではない、というのがヴェルナーの意見だ。
円の支配者たちが信用創造の方法を駆使して意図的にバブルとデフレを発生させ、日本を壊そうとしたというのだ。(2で検討する。)

では日本の社会主義を望まなかったのは誰か、経済大国日本を日米冷戦の敵とみなしたアメリカであり、昭和維新運動は偽装された共産主義だと(正しく)見抜いていた昭和天皇と旧エリートたちだ。

「戦争を内乱に転化せよ」はレーニンのテーゼだが、昭和のファシストたちは戦争を利用して国内改造を遂行した。革命を怖れた昭和天皇は戦争の早期終結を図って反革命の保証をアメリカに求めた。聖戦完遂を叫ぶ徹底抗戦派の蜂起が成功していれば、アメリカの軍事援助を受け昭和天皇に指揮された政府軍と蜂起の軍の間に、日本のパリ・コミューンが出現しえたかもしれなかった。しかし日本国民はその歴史を選ばなかった…。

バブル崩壊以後の新自由主義の跳梁を僕は小さなゆり戻しと思っていたけれど、そうではないらしい。旧エリートの末裔がアメリカの意を受けて大日本帝国という古いシステム・大地主と大財閥の世界に戻そうとしているのではないか、ヴェルナーはドイツの例も挙げているが、アメリカは世界的規模の反革命を目指しているのではないか。(阿部首相のやっていることは「右」と見せかけて、実は出来レースではないのか。それとも単に支離滅裂なだけ?)

革命家たちは皆死んでしまったが、ファシズムの遺産は残った。その遺産を日本人は守りきれなかった、ということではないのか。

僕らはその国を現実に見た。その国は単なる理論的予想ではなかった。
その国の経営の方法も手に入れた。投資と貯蓄をコントロールすればよいのだ。
その国への行き方もわかった。世界戦争の炎の中で寄生虫を払い落とせばいいのだ。
けれど・だが・しかし・それでも、それは世界革命の課題だ…。

                             つづく
塩見孝也様 3  

2 信用創造について

銀行はいんちきをしているのだ(ロスチャイルドの陰謀等)という話が流れているが、いくつかの内容が錯綜している。
もっとも単純なものはこういうストーリーだ。

A氏が1ドル金貨を金細工師に預けた。金細工師はその1ドル金貨をB氏に貸し出した。B氏はその1ドルでC氏に支払いを済ませた。C氏はその1ドルを金細工師に預けた。金細工師はまたその1ドルをD氏に貸し出した。D氏はその1ドルでE氏に支払いを済ませた。E氏はその1ドルを金細工師に預けた。金細工師はまたまたその1ドルをF氏に貸し出した…

金細工師が預かったのは本来1ドルだったはずだが、貸し出しは3ドルに増えている。このいんちきが銀行の始まりだ、というのだが、これはおかしいというほうがおかしい。
貸し出したのは確かに3ドルだが(B.D.F.)、預かったのも3ドル(A.C.E)。同じ1ドル金貨が3回転しただけだ。お金を増やしたわけではない。1ドル金貨は使用されても形を変えない。何回でも使える。ある日受け取ったお金を次の日に使う、1日で1回転するとすれば1ドル金貨1枚だけで100日で100ドル、1000日で1000ドルの買い物を実現できる。

(ある日A氏がやってきて1ドルを請け出そうとすると、金細工師はB氏から貸付を引き上げなければならない。B氏が1ドルを工面できなければ金細工師本人が1ドルをどこかから調達しなければならない。お金は増えていない。)

この100ドルとか1000ドルというのは使用された延べ回数を集計しただけであって、お金が増えたのではない。

ところがヴェルナーがしているストーリーはこれとは違う。

金細工師は金を預かると預り証を発行する。預け手はその預り証が紙幣として使えることに気がつく。次に金細工師は預かった金を寝かせておかないで、返してくれといわれるまで貸し出すことができることに気がつく。これは第一のストーリーとは違う。第一のストーリーでは1ドル金貨は1ドルの購買力としてただ回転しているだけだが、第二のストーリーでは1ドル金貨は2ドルの購買力になっている。さらに、金細工師は貸し出しをするときに、金自体を貸し出すのではなく、預り証をもう一枚発行すればよいことに、さらにさらに預り証は何枚でも印刷できることに気がつく。1ドルの金貨が何倍もの購買力を生み出す。これは贋金そのものだ。お金が無から創造された…。

ここから引用―――――――
円の支配者  リチャード・A・ヴェルナー
第4章 銀行業という錬金術

金細工師の錬金術
……金細工師は金(きん)を預かると、預かり証を発行する。預けたほうは、預かり証の便利さに気づいた。……預かり証が通貨になったのである。
 こうして13世紀ごろには、ヨーロッパでも紙幣が登場した。ただし、中国の紙幣とくらべるとかたち、機能、意味に決定的な違いがあった。政府によって発行されるのではなく、民間のビジネスマンのグループによって発行されたのだ。

歴史上最大のトリック
 中世のほとんどの職業にはギルドが形成されていた。金細工師にもギルドがあった。彼らは定期適に開く会議で、預かり証が通貨として利用されるようになって大量の金が金庫に眠っている状況について話し合ったに違いない。その金を一時、貸し出せば、余分の儲けが得られると気づいたのだろう。金がなくなっているのを発見される危険は少なかった。預かっている金を思いがけなく要求されたときには、お互いが助け合えばいい。
 金細工師が預かった金を貸し出して、余分の金利を取るようになった時、二つのことが起こった。ひとつは、金細工師が詐欺を働いたということだ。彼らの預かり証は、金がきちんと保管されているという保証だ、顧客は金がそこにあると信じている。ところが、金はない。貸し出されてしまっている。……
 第二に、新しい購買力が創造された。金の預かり証が商品の購入に使われ、その一方で金そのものが貸し出されれば、誰かがそれまでは存在しなかった追加の購買力を手にする。経済全体の購買力は増大する。金細工師は通貨の供給量を増やしたのだ。だが、政府が購買力の創造と分配の決定権を握っていた中国と違って、ヨーロッパではだれが通貨を受け取るかを決めるのは金細工師だった。一般民衆は知らなかったが、金細工師の行動はすべての人に影響を及ぼした。彼らが新しい通貨を創造すれば、希少な資源に対する要求は増大する。
金細工師は笑いがとまらなかった。貸し金に対する需要は常にあったのだ。金のほとんどを貸し出した後でも、さらに金利を得る機会を逃すのは惜しかった。そこで彼らは金の代わりに預かり証を借り手に渡して、融資を拡大することを思い付いた。簡単に言ってしまえば、金細工師は通貨を「印刷」できたのだ! それによって、好きなように購買力を与えることができた。このときは、三つのことが起こった。まず、資源に対する要求、つまり通貨供給量がさらに増大した。これは好景気を産むか、消費者物価あるいは資産価格のインフレにつながる可能性がある。第二に、金庫に残っている金よりもずっと多くの預かり証を発行したのだから、詐欺はさらに大がかりになった。預け手が金を返せと言い出せば、危機が発生する。第三に、銀行業が誕生した。

引用ここまで―――――――――

サミュエルソンの「経済学」13版にも金細工師が出てくる

第3節  銀行業と貨幣供給

「イギリスにおける商用銀行は、人々の金や貴重品を安全保管するようになった金細工師から始まった。最初はこの種の仕事場は、今日で言う手荷物預かり所か倉庫のようなものに過ぎなかった。預ける人は、自分の金を安全保管のためにおいてゆき、受け取りをもらい、後日、その受け取りを提出するとともにわずかの料金を保管代として払った上で、自分の金を受け戻した。」

「われわれはここで、最初の金細工師銀行は金の延べ棒を細工することはもはややっておらず、人々の貨幣を安全保管する業務に専念していると前提する。このときまでに100万ドルが預けられて金庫の中に入っており、その全額が現金資産(貸借対照表の中の「現金準備」の項目)として保有されている。そして、この資産とつりあう形で同額の要求払預金があるので、現金準備は預金の100パーセントということになる。

 銀行貨幣が、銀行の金庫内にあって現実の流通過程から引き上げられた通常の貨幣(金または通貨)の数量をちょうど相殺する形となるので、貨幣創造はそこにぜんぜん発生していない。…われわれは、100パーセントの準備を持つ銀行制度は、Mの総額を増やしもせず減らしもせず、貨幣やスペンディングや物価に対して中立的な効果を持つという言い方をするのである。

さて、先の金細工師=銀行家の例に帰って、近代の銀行がどのようにして徐々に進化してきたかを調べてみよう。金細工師=銀行家は機敏な利潤追求家であればまもなく気がついたであろうが、彼のところに預けられている預金は要求払い預金であるけれど、いっぺんにその全部が引き出されるわけではない。突然すべての預金者に全額を同時に払い戻さなければならないようなことがあれば、100パーセントの準備金が必要であろうが、そのようなことはほとんど起こらないことが、彼にもまもなくわかる。所与の日に一部の人たちは預金を引き出しに来るだろうが、同時にほかの人たちが預けに来るのでこの両者は大体において釣り合うこととなる。預金と引き出しがほぼ同額となる結果として、大部分の銀行は、現金払底を避けるため預金の1パーセント程度の現金を用意しておくだけで足りるだろう。

くだんの銀行家はまた、準備金として保有されている資金は、金庫内の現金か金の形であって利子を稼がないから、いわば不毛であるということに注目する。現代の連邦準備制度に寄託される準備金も同様に利子を稼がない、しかし銀行家は、彼らの資金を稼働させたいのである。したがって、初期の銀行も、自分のところに預託されている貨幣を使って債券なりその他の利益を生む資産なりを購入するという考えを思い付いた。彼らはまもなく、その預かっている預金を投資に回すことは、預金者は依然として要求に応じた支払いを受けるのだから、自分たちにとって利益のあることだということを発見したのであって、事実、銀行はなにがしかの余分の収益を上げたのである。

最初の金細工師=銀行が、預金に対しては100パーセントではなく部分的な準備金で用が足りると決めたことは革命的であった。いまや預金の総額は金準備の総額を超えることになる。すなわち、銀行は貨幣を創出しうるのだ。以下のところで、この過程がどのようになされるかを明らかにしよう。

銀行は、文字通り貨幣を創出しうるのである。すなわち銀行は、1ドルの金準備(または今日の中央銀行の準備金)を数ドルの貨幣に転化させる。


銀行は貨幣を作り出すことができるか
われわれはここで、「銀行預金の倍数拡張」として知られている…問題をとりあげる。この問題は、銀行が1ドルの準備金を多数ドルの貨幣に転形するといわれることから、時には不可解なことと考えられている。実際には、この過程に奇妙なことは何もないのであって、単に、近代銀行制度の部分準備的性質をその背後にもっているのでしかない。」

サミュエルソンはここでミズ・ボンドフォルダーを登場させる。

Ms.Bは銀行1に1000ドルを預金する。

計算を簡単にするため、準備金所要額を10パーセントとすると、銀行1は900ドル余計の準備金があるのでこれを別の人に貸し出す。するとその人は900ドルを(現金か小切手で)受け取って別の銀行に預け入れる。

「銀行1について終える前に、一つ重要な事実を指摘しておきたい: すなわち、銀行1が貨幣を創出したという点である。それは、どのようにしてであろうか。明らかに、…もともとの預金1000ドルがある。しかし、それに加えて、誰か別の人の勘定として900ドルの要求払い預金(すなわち、900ドルを得た人の小切手勘定)がある。だから、Mの総額は今や1900ドルである。銀行1の活動により900ドルの新しい貨幣が生み出されたのだ。」

ミズ・ボンドフォルダーは1000ドルの小切手を使って買い物ができる。別の人も900ドルの買い物ができる。これは同じお金が同時に二箇所で使われることになる。(二回転しているのではない。)

ヴェルナーの言っているのも同じことだ。
「金細工師が預かった金を貸し出して、余分の金利を取るようになった時、二つのことが起こった。ひとつは、金細工師が詐欺を働いたということだ。彼らの預かり証は、金(きん)がきちんと保管されているという保証だ、顧客は金がそこにあると信じている。ところが、金はない。貸し出されてしまっている。……
 第二に、新しい購買力が創造された。金の預かり証が商品の購入に使われ、その一方で金そのものが貸し出されれば、誰かがそれまでは存在しなかった追加の購買力を手にする。経済全体の購買力は増大する。金細工師は通貨の供給量を増やしたのだ」
                  リチャード・ヴェルナー 「円の支配者」

人は収入を得たいと思ったら、ある額の商品かサービスを市場に提供して、同額の収入を得る。ここではタダでお金だけが増えている。これは贋金そのものだ。

サミュエルソンの話は続く。

銀行1から900ドルを借りた人たちは、その受け入れ金を(別の)銀行に預金する。もしくはほかの誰かに支払いをし、その人が預金する。それらの銀行を一括して第二段階の銀行と呼ぶとすれば、第二段階の銀行は10パーセントの90ドルを準備金とし、810ドルの貸し付けを行う。このような過程で第三段階、第四段階、…と進行していくと、(792+656.1+590.49+…)貸し出しの総計は最終的には9000ドルになる。初めに1000ドルあったから、合計で1万ドル。10倍になった。

ところで、日本でされている信用創造の説明は次のようなものだ。

金融大学 > 金融用語辞典 > 信用創造

「銀行が、預金者から100円を預かったとします。法定準備率を10%とすると、10円だけを現金で銀行に残し、残りの90円(元本の90%)をA企業に貸付けることができます。A企業は、銀行から借りたお金で、取引先であるB企業に支払いをします。B企業はそのお金を銀行に預け、銀行にはB企業の預金90円が新たに作られます。銀行は、90円の90%である81円をC企業に貸付けます。そしてC企業よりD企業に渡り、再び銀行に預金されます。銀行では81円の90%をE企業に貸付けることになります。
 このように、お金が銀行と企業の間を循環することによって、銀行の預金通貨はどんどん増えていきます。これが信用創造です。現金通貨が、数倍の預金通貨に生まれ変わります。

たとえば、最初の預金100円、法定準備率10%なら、90円が銀行から貸し出されます。その場合、預金通貨は10倍に膨らみます。

最初の銀行に100円を預金し、次の銀行に90円、その次の銀行に81円…。これをずっと合計していくと、預金は、100+90+81+72.9+65.61+59.049…=1000円になるのです。」


預金者本人が100円を払い出し、また預金し、またまた払い出し…と10回繰り返すと、預金の延べ総額は1000円、貸出総額も1000円になるが、それとどこが違うかというと、預金者本人とBD…とが同時に預金・購買力を持つ、というところだ。


金融大学の説明は、準備率10パーセントのときは100円のお金は回転の度に目減りしていくが、最終的には1000円分回転する。最初のお金が10回転したのと同じだ、ということを言っている。その時、本人が払い出したのではないから預金の額は1000円に積み重なっている。

 実際に銀行がやっているのは、100円の預金を受け入れると、結局同じことだからといって、その100円を準備金として、1000円を貸し出すのだという。

900円分の購買力が無から生み出されてしまった。

ところで、預金されるお金というのはさしあたり使う予定のないお金であると考えられる。それに対して借り出されるお金というのは支払いに必要だからこそ借り出されるのだと考えられる。すると、必要とされるお金は、90→81→72.9…と減ってしまっている。いっぽうではさしあたり使われないお金が増えている。

ここで整理をしてみる。

「乗数」について。

ケインズ政策で有名な投資乗数の説明がおかしい。
新たに100円が投資されたとき、
収入のすべてが貯蓄されてしまうと、(限界貯蓄性向・1)消費は100円だけ増加する。乗数は1。

 収入の半分が貯蓄されると、(限界貯蓄性向0.5)  50円が貯蓄され、50円だけが2回目の回転に入る。2回転した50円のうち、さらにその半分の25円が3回点目に入り… とずっと続けていくと、回転したお金は、50+25+12.5+…=100 
貯蓄も、50+25+12.5+…=100
最初に100円が消費に入っているのだから、最終的な消費の増加は200円。(100÷0.5=200)乗数は2。

収入の十分の一が貯蓄されると、(限界貯蓄性向0.1) 90円が2回目の回転に入り、81円が3回点目に入り… とずっと続けていくと、最終的な消費の増加は
100+90+81+72.9…=1000  (100÷0.1=1000)乗数は10。
貯蓄は、10+9+8.1+7.29…=100

では収入が全部支出され、貯蓄のない世界では、(限界貯蓄性向0)…
消費の増加100+100+100+…= …
乗数は100÷0= …
貯蓄は0+0+0+…=0

ウィキペディア「乗数効果」ではこういう説明がされている。

―――――――――
貯蓄のパラドックス[編集]
投資乗数をある国の単年度における国民経済フローの簡単なモデルで考える。

限界消費性向(可処分所得が1単位増加したとき、消費が増加する量)=0.9 限界貯蓄性向(可処分所得が1単位増加したとき、貯蓄が増加する量)=0.1 限界消費性向+限界貯蓄性向=1 国民所得:Y=C+I 総消費:C=0.9Y 総投資:I=10 この式を解くと、Y=100となる。(I=0.1Y)

ここで、企業が先行きへの期待を基にこの年の投資量を2増やし、総投資が12になったとしよう。このはじめの段階では国民所得は同量の2しか増えない。

しかし、この2はやがて家計の所得となり、消費は所得の関数であるため、その所得の90%(C=0.9Y より)の1.8が消費される。その消費1.8は同量の国民所得1.8を増加させ、さらにその90%の消費1.62を拡大させる。

こうして、貯蓄と消費への振り分けが十分に早いペースで最終段階まで進むと仮定した場合、この年における消費量は18増える(=2×0.9+2×0.9^2+2×0.9^3…)。はじめの投資の増加2と合算して所得(総消費)の増加分は20(兀=X/(1-β)、ここでは=2/(1-0.9))であり、これが追加的な投資に対して最終的に得られる所得の増分(兀=僂+G+僮)となる。一方で所得のうち消費されなかった分である貯蓄は2(所得に対する限界貯蓄性向は1-βであり総貯蓄の増分儡=兀×(1-β)、ここではS=20×(1-0.9)=2))となる。

このことは、当初の投資によって増加した所得のうち、貯蓄されずに消費された分だけが、それと同量の新たな所得を実現することを示している。つまり、限界貯蓄性向を高めれば高めるほど、それだけ乗数効果が弱まるということになる。たとえば限界貯蓄性向が1であったとすると増加した所得を全く消費せず、全額を貯蓄に回すことを意味している。このとき、新たな所得はまったく生まれないことになる。

この投資乗数の例では、当初の投資の増加分2は、最終的に生じた貯蓄2と一致している。また、かりに限界貯蓄性向の値を高めたとしても、それまで以前よりも乗数が下がって消費と所得が減少するだけであり、最終的な貯蓄は2のままで変化することはない。これは、貯蓄がマクロ的には投資と一致することを意味している。すなわち総投資が変化しない限り、総貯蓄が変化することはない。日常的な感覚(ミクロ)によれば、投資ができる分量は貯蓄された分量に制約されており、貯蓄をすればするほど大きな投資も可能になるように見えるが、マクロ経済では単年度の追加的な投資量によりその年の追加的な貯蓄量が決定されており、このことを貯蓄のパラドックスという。マクロ経済で単年度の貯蓄量を増やそうと当年度の投資量を減らしたとしても、当年度の貯蓄量は減ることになる(参照:合成の誤謬)。

貯蓄と投資[編集]
モデルでもあらわされるように、総貯蓄の増加分と総投資の増加分は同額になる。これは、現実の経済からすると一見誤りであるように思われる。例えば100円の貯金をしたとしてもタンスにしまえば、銀行へ預金する場合と違って融資もされず、投資に向かわないはずである。

マクロ経済学においては、この貯蓄と投資の因果関係がほぼ逆になる。総投資が存在する場合は、総貯蓄は0にはならない。仮にある年の総貯蓄を0にしようとして所得の全てを消費するような社会(その年の限界貯蓄性向=0)を考えてみた場合、新規に追加的投資をおこなえば乗数過程により無限に所得と消費を生み出すことになる。

現実にはこのような社会はありえず、これは前提とした条件(限界貯蓄性向=0)になんらかの論証上の矛盾が含まれていることを意味している。また国民経済フロー式に物価(P)を考慮したより高度な分析によれば、これはその年の名目での国民所得だけが無限に増大しハイパーインフレーションが発生していることとなる。このようにマクロ経済で見た場合はある年の総投資の存在が、その年の総貯蓄の発生理由となる。
―――――――――

ここで、投資が貯蓄を産むのであって貯蓄を増やせば投資も増えるのではないということが説明されているけれどこの理解はおかしい。

まず、「投資が貯蓄を産む」という理解がおかしい。

新たに投資された、例えば100ドルは、貯蓄のある世界では流通、回転の間に少しずつ貯蓄され、結局は全額が貯蓄に移行してしまう。この貯蓄と投資は本来同じものなのだ。そして全額が貯蓄に移動してしまうまでの間にどれだけ流通過程で取引を媒介したのか、というのが乗数によってあらわされる。

 ある一日で得た収入を次の日に全額支出するという(一日で一回転、限界貯蓄性向=0)世界では、ある1ドル金貨は、日曜祭日は商店は休みで一年の稼働日数300日とすると、1年で300ドルの収入を産み、100年では3万ドル、1億年では300億ドルの収入を生む。ここには矛盾もパラドックスも存在しない。ごく普通の僕らの現実の世界だ。

乗数が10のとき、10倍に収入が増えたのではない、10倍にしかならなかった、10倍で打ち止めになった、と理解すべきなのだ。

 また、初めに100ドルが投資された時、その投資が可能であるためにはその100ドルで買えるものが存在しなければならない。ないものは買えない。その世界では少なくとも100ドルの商品が売れ残っていなければならない。ではなぜ100ドルの商品が売れ残っていたかといえば、(商品の総額と収入の総額は等しいのだから、)収入のうち100ドルがどこかに貯蓄されてしまっていたからだ。

ここで貨幣の話に戻ると、それぞれ100ドルずつの商品をもっている人が無数にいたとして、ある100ドルが貯蓄されずに回転を続けるときには、100番目の人は100日目に、1000番目の人は1000日目に、商品を売ることができる。

ところが銀行を通すと、準備率10パーセントでは
100+90+81+72.9+…=1000
1000ドルの商品しか売れない。10日目に10番目の人まででお金の流れが止まってしまうことになる。銀行を通すことでお金に10回しか回転しないプロテクトがかけられたといえるのではないか。

いっぽうでは、預金の額だけは、潜在的な購買力だけは増えている。

ヴェルナーは窓口指導を重視しているが、一方でお金の流れをせき止め、他方では購買力を創造しているのなら、資源の配分を自在にコントロールできる。

「貸出――経済統制の重要な道具
 戦時の経済評論家や革新官僚の一部は、経済について異なる信条をもっていた。彼らは、お金と銀行についての真実を理解していた。信用を創造し配分する銀行と中央銀行の力が経済を支配し、資源を分配する操縦桿になっていることに気付いたのだ(註10)。そこで彼らは中国の皇帝のように、国の支配権を獲得するために通貨をコントロールしたがった。
 戦時経済体制の制度的青写真は、最大経済成長のために資源を分配する枠組みを創出した。だが、資源の分配と生産を実行するために使われたのは通貨システムだった。1930年台から経済戦争を開始した日本の成功を理解する鍵は、マネーである。」

                                「円の支配者」  


・信用創造の過程は、逆にも進行させることができる。

「預金創出の過程は逆の方向にも働きうるのであって、それは、準備金の流出が銀行貨幣を縮小させる時においてである。」

「法定準備金所要額の主な機能は、預金に安全性または流動性をもたせるとか預金の要求払いを可能にするとかいうのではない。そのとくに重要な機能は、銀行が作り出しうる小切手預金の大いさを連邦準備制度が統御できるようにするということである。一定の高率の法定準備金所要額を課すことにより、Fedは一層有効に貨幣供給を統御できるのである。」
                               サミュエルソン

日銀は通貨をコントロールすることで、意図的に日本経済システムを壊そうとした、というヴェルナーの指摘には説得力がある。


現在の日本の課題は蓄積を進行させることではない。生産能力に消費が追い付かないから不況、失業、貧困が発生しているのだ。それは現在の経済運営能力で解決可能な課題だ。


(補・贋金つくりはもうかるがその儲けはどこから出てくるか。

100人の人がそれぞれ1万円ずつ持っている総購買力100万円の世界を考える。一人の人は世界全体の財の100分の1を買うことができる。いま、20万円の贋金がつくられ、世界の総購買力が120万円になると、1万円持っている人が買うことのできる財は1.2分の1に減る。その減った分を贋金づくりが手に入れることになる。これを政府がやって、うすく広く世界から集めた富を特定の産業に投資する、というなら意味がある。しかし私的利益を目的とする私企業にやらせるのはまずいのではないか。)

(補2・貯蓄=投資 は恒等式だから貯蓄は必ず投資されることになっている、と理解している人がいたけれど、恒等式というのはそういう意味ではない。)
 

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コメント
 
01. 2014年8月27日 04:25:16 : bfiJIUelwU
利潤、利益は確かに存在する。資本が増加し、生産が増え、生活水準が良くなるの現象は実質の利潤と呼べる。

しかし、経済活動につきものの金銭の収支は物理的に差額の利潤をもたらさない。

経済は金銭的に必ず、勝者と敗者を生む。短期的に見ればは敗者ばかりのときも、勝者ばかりのときもある。

ゼロサムゲームはマクロの金銭的な収支計算で見る限り、長期的にはゼロサムの原理が働く。これ誰かの収入と誰かの支出は同時に成立して同じだからで、物理の法則が当てはまるからだ。

これを理解していないとみんなが勝者になれると信じ込んで、金融の大盤振る舞いが発生してバブルが起こる。

物理の法則から見れば、バブルは時間差のトリックを使うゼロサムゲームと定義できる。

他の産業の利益のおこぼれにあずかる金融業こそ金銭的な勝利が保証されていないのだから、バブル発生の研究とバブル予防を疎かにしてはいけない。

無学の金融業の成れの果ての姿が、今の極悪日本中央銀行だ。米英もそうだ。

米国は間もなく夏から極寒へと先陣を切って景気後退する。


02. 2014年8月27日 07:00:57 : bfiJIUelwU
訂正

現実の経済はマクロの金銭的な収支計算で見る限り、長期的にはゼロサムの原理が働く。これは誰かの収入と誰かの支出は同時に成立して金額が同じだからで、この物理の現象は価値を生む交換に現実のマネーは空気のように中立を保っていることを意味する。


03. 2014年8月27日 09:12:44 : nJF6kGWndY

>新自由主義者たちを論破出来ていない

それは貧困をなくすには経済成長が必要不可欠だからだよ

>なぜ貧しい国はなくならないのか

逆に考えればいい

なぜスイス、シンガポール、そして北欧諸国などは世界でトップレベルの生活水準なのか

日本、韓国、中国、ポーランドは急成長でき、

かっての貧困から脱却できたのか

科学技術による生産性の上昇、

自由貿易と高度資本主義による投資と消費の拡大がなくて実現したのか

考えれば明らか


結論を言えば、自由競争による成長と国家による再分配という修正資本主義が答えということだ


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