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特別ルポ レタスを作って平均年商2500万円 長野県川上村「日本一健康長寿で裕福な村」の秘密
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39691
2014年08月18日(月) 週刊現代 :現代ビジネス
コンビニも、カラオケボックスもない
レタス生産量日本一の川上村は「奇跡の村」だった。経済的にも恵まれ、高齢者が元気に農業に携わる。東京から嫁をもらい、後を継ぐ若者もいる。かつての寒村は、いかにして生まれ変わったのか。
■カネより大事なものがある
見渡す限りのレタス畑。遥か遠景には八ヶ岳の峰々が連なる。あたりは静まりかえり、鳥のさえずりだけが、時々遠くから聞こえてくる。
中央自動車道から長坂インターを経て、車を走らせること約1時間。曲がりくねった道ではあるが、舗装された道路は道幅も広く走りやすい。ぐんぐんと高度を稼ぎ、標高が約1300mに達したところに長野県南佐久郡川上村はあった。
農道に車を止め外に出る。標高が高いので6月といっても少し肌寒いが、都会に比べ空気は澄んでいる。深呼吸をすると空気がうまい。
畑を見渡すと、作業着を着て肥料をまいている男性がいたので声をかけた。川上村でレタス農家を営む由井清幸さん(69歳)だ。
「おーよく来たなあ、東京から来たのか。見ての通り、ここは『レタスの村』だ。ここの村民のほとんどはレタス農家だよ。今はまだ出荷前だけど、一つ食ってみるか」
由井さんに勧められるまま、水滴が付いたレタスを一枚剥いでかじる。
「どうだ、うまいだろ?」
正直、味の違いまでは分からなかったが、冷たくてみずみずしい。まさに新鮮そのものだ。
レタス畑に目をやると、白いビニールで覆われた細畝が辺り一面に展開されている。白色が目立つのはまだ小さい苗。出荷目前になると、鮮やかなレタスの緑一色となる。
川上村のレタスの出荷がピークを迎えるのは7月から8月にかけてだが、すでに出荷作業をしているレタス農家もあり、若い女性の姿も見えた。
千曲川の源流に位置し、高原野菜の名産地として知られる川上村が脚光を浴びたのは、藤原忠彦村長(76歳)が'09年に発表した『平均年収2500万円の農村』という本がきっかけだった。
それ以降、テレビも含めてマスコミの取材が次々と舞い込んだ。だが、藤原村長は「ワイドショーで村の本当の姿が伝わっているわけではない」と言う。
「年収2500万円というカネの話ばかりがクローズアップされるけど、厳密には年商2500万円ですし、そもそもそれより大切なのは、村民たちの心の満足度。いくらカネがあっても心が貧しければ村は衰退する。子供が元気に育って、村民全員が健康で笑顔の絶えない村を作るのが、私の使命だと思っています」
川上村は東京23区の3分の1ほどの面積に、3960人が暮らす。そのうち農業従事者は実に7割を占め、約600戸が農家である。平均年商2500万円は、「日本一裕福な村」と言ってもいいだろう。
■変わらない毎日を暮らす
かつての川上村は、島崎藤村が『千曲川のスケッチ』で「信州の中で最も不便な、白米はただ病人にいただかせるほどの貧しい、荒れた山奥の一つ」と記しているような、さびれた寒村であったという。
その川上村が、一体どうやって「日本一裕福な村」になったのか。
転機が訪れたのは戦後'50年代。アメリカの進駐軍がレタスの栽培を持ち込んだことがきっかけだった。レタス農家の林亀美夫さん(83歳)が当時のことを話してくれた。
「俺たちはあの頃、レタスのことを『特需』と呼んでいた。米兵がそれだけレタスを欲していたということだよ。朝鮮戦争が始まり、日本からアメリカ軍に軍事物資、食料を提供することになって、川上村でレタスを栽培し始めた。高冷地であることと、土壌などの環境がレタスの栽培に適していたことが大きかったな」
その後、日本は経済復興を遂げ、食の欧米化が進み、国内でのレタス需要が急増。東京まで3時間と流通の便が良かったこともあり、川上村のレタス出荷量は右肩上がりに増えて行った。去年の出荷量は年間約6万t、出荷総額は約160億円に上る。この数字はもちろん日本一である。
だが、どんなに稼ぎがよくなろうが、川上村の人々の暮らしが、根本的に変化したわけではない。
レタス農家を営む60代男性が、日々の暮らしぶりを訥々と語る。
「出荷がピークを迎える7月の農繁期なら、まだ夜が明ける前、真っ暗闇の午前2時ごろから畑に出て、トラックのヘッドライトのなかレタスを収穫するんだ。午前中に出荷を終えると、その後は二期作に備え、再び苗を植える作業が始まる。午後の5時ごろまでは畑にいるかな。それで帰宅して風呂に入り一杯飲んでから食事をすると、あとは明日の作業に備えて寝るという毎日。なにも変わったことなんかないよ」
また別の農家の70代男性はこう続ける。
「春はビニールハウスに種まきをして苗を栽培。雪が解けてきたら畑の準備をする。トラクターで耕し、肥料をやり、定植する。雨が降れば休みだし、晴れたら畑に行く。それだけだよ」
川上村を歩くと気づくことがある。元気な高齢者が多いのだ。前出の83歳の林さんは、今も現役。60歳はもちろん、70歳を過ぎても畑に出ている人をたくさん見かける。川上村の65歳以上の就業率は実に63・3%に上る。
しかも特筆すべきは、川上村の健康老人率(要介護・要支援を受けていない高齢者の割合)が85・1%ということである。74歳までに限ると96・7%になり、この数字も全国一である。つまり川上村は、日本一裕福なだけでなく、「日本一健康長寿な村」でもあるのだ。
■地域全体で子供を育てる
なぜ川上村の高齢者は元気なのか。ある村民にその理由を尋ねた。
「毎日早く寝て、昼間は畑に出ているだけで特に何かに気を付けているわけでもないけどなあ。まあ農家だから、ある程度自分で自由にやれるし、都会のようなストレス社会とは正反対の環境かもしれんな(笑)」
藤原村長は、ヘルシーパークと呼ばれる複合医療施設を作ったことも関係していると言う。
「ヘルシーパークは、村民の心身の健康増進を目的として作った施設なんです。診療所とデイサービスのほかに、大浴場やトレーニングルームがあり、24時間の訪問介護も行っています」
この施設ができて以来、川上村では家族や看護師に看取られて自宅で亡くなる人の割合が、なんと5割を超えているという。
「全国平均が約12%だから、これは驚異的な数値ですよ。最期の瞬間まで、質の高い人生が送れることも村の誇りの一つです」(藤原村長)
さらに驚くのが、元気な高齢者が多いだけではなく、若者も多いことだ。川上村は後継者となる若者が、都会から帰って来る珍しい農村である。
最新のデータによると、川上村の農業従事者は30代が10%(全国平均は3・2%)、40代が20・2%(同5・9%)と圧倒的に若い。全国の農村で過疎化、高齢化が進み、後継者問題が顕在化しているなか、これは目を見張る数字である。
県外に進学し、卒業後、川上村に戻ってきた木田裕貴さん(22歳)がその理由を語る。
「レタス産業は頑張った分だけ稼げるところが、若者にも受け入れやすいと思う。それに川上村は都会と違って地域のつながりが強いから、何かあってもすぐに助け合えるのがいいですよね。ただ村にはコンビニもカラオケボックスもないから、遊ぶといったら家で仲間と飲むか、車で1時間かけて、山梨県の甲府まで行かなくちゃいけないけど(笑)」
せっかく、木田さんのように村に戻ってきても、結婚相手がいないと定住は続かない。そこで役場は、『郷コン』と呼ばれるイベントを開催して、独身男性に対して、県外の女性を紹介する機会を作っている。その効果もあってか近年は、都会から嫁いでくる女性が増加しているという。
また、川上村には「若妻会」と呼ばれる農家の妻が集う交流会があり、都会から来て、環境に不慣れな奥さんを助ける役割を果たしている。東京から川上村の農家に嫁いだ遠藤絋子さん(34歳)はこう話す。
「嫁いで来た当初は、友達も話し相手もいなかったので寂しくて不安でした。でも『若妻会』で同年代の人と週に1回集まって、悩みや困っていることを話すうちに自然と仲良くなれて。いま2歳の息子がいるけど、地域の人が一緒になって成長を見守ってくれるのは、本当に心強いです」
川上村が子育てをしやすい村であることは出生率にも表れている。去年の出生率は、1・89と全国平均(1・43)を大きく上回り、3人、4人と子供を持つ家庭も珍しくない。
さらに川上村のレタス農家は、収穫時期に当たる6~8月は休みもないほど忙しいが、冬の農閑期は長期の休暇を取ることも可能だ。ある村民はこう言う。
「毎年、何人かの仲間と一緒に海外旅行ツアーに参加するのが楽しみですね。去年は1ヵ月ほどハワイに行ってきました。今年はタイに行く予定です」
もちろん遊んでいるばかりではなく、スキー場や都市部の工場に出稼ぎに行く人もいるし、空いた時間を子供の教育に当てる家庭も多いという。
「川上村は非常に教育熱心な家庭が多い。村内には高校がないから、中学を出たらたいていの子は下宿して高校に通う。東京や大阪の大学に行く子も多い。学費もかかるし仕送りもしなきゃならないけど、教育のために使うカネを惜しいとは思わないね」(40歳の男性村民)
藤原村長は「人づくり」を一番に掲げてきた村の方針が、実りつつあると語る。
「私は村づくりで一番大切なことは、後継者を育てること、つまり『人づくり』だと主張してきました。24時間開館の図書館や大規模な文化センターを設立したのもそのためです。いまはレタスが好調でも、いつ需要を失い、元の寒村に戻らないとも限りません。そんなとき正しい舵取りができる人間を育成することが、この村には必要なんです」
■不便だけど、幸せ
川上村の目下の問題は収穫期の人手不足だ。十数年前までは都市部から若いアルバイトが1000人規模で押し寄せていたが、現在はほとんどなく、農繁期は、中国からの農業実習生に頼らざるをえないのが現状だという。
レタス農家を営む林長一(63歳)さんは、かつては中国人実習生と農家のトラブルもあったと語る。
「野菜を盗んだり、仲間の金品を盗んだりする素行の悪い奴もいた。農協が窓口となり、中国から実習生を連れてくるんだけど、こっちは選べないから、どんな人間か働いてみるまで分からないんだよね」
毎年、700人ほどの中国人実習生が村にやってくるが、彼らは約7ヵ月の短期間労働を終えると祖国へ帰ってしまうため、翌年にはまた一から指導しなければならないことも、農家の負担となっている。
とはいえ、中国人実習生なしに収穫時期を乗り切ることはできない。そこで林さんは以前、商社に勤めていた経験を活かし、現在は独自のルートを使い中国人実習生を雇っているという。
「自分で直接中国に行って面接を行い、短期ではなく3年間の契約を結ぶんです。もちろん農閑期も彼らに給料を支払わなければならないので、コストはかかるが、それだけ信頼関係も厚くなる。3年も一緒にいれば情もわくし、まあ家族が増えるような感覚です」
都会で就職した経験を活かし、農協を通さず直接、スーパーなどと契約することで収益を上げる農家も増えているという。川上村は教育に力を入れることで、さらに発展していく好循環を生み出しているのだ。
取材で出会った村民たちに「川上村での生活は幸せですか?」と聞くと、異口同音にこんな答えが返ってきた。
「苦労もあるし、不便だと感じることもある。でも、この村で一生暮らしていきたい」
誰もが自分の住む村を愛している―。これこそが、川上村が「日本一の村」と呼ばれる本当の理由なのかもしれない。
「週刊現代」2014年6月26日号より
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