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過去に中国政府のメンツを潰したトヨタは大きな代償を払った(NEWS ポストセブン)
http://www.asyura2.com/14/hasan89/msg/528.html
投稿者 赤かぶ 日時 2014 年 8 月 02 日 07:12:45: igsppGRN/E9PQ
 

過去に中国政府のメンツを潰したトヨタは大きな代償を払った
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140802-00000010-pseven-bus_all#!btgBCA
NEWS ポストセブン 8月2日(土)7時6分配信


 自動車販売台数世界首位に君臨するトヨタだが、中国では各国メーカーの後塵を拝している。世界で強いトヨタなのになぜ中国ではそんな状態にあるのか? 過去に発生したとある事情について経済ジャーナリスト・永井隆氏が解説する。
 
 * * *

 トヨタと中国の関係は、半世紀以上前に遡る。

 戦前、トヨタは天津と上海にトラックの生産工場、部品工場を持っていた。終戦によって、中国に接収されたという。本格的な交流は戦後始まった。1964年、トヨタはクラウンの輸出を開始する。1971年9月にはトヨタグループ代表団が訪中を果たす。戦後、西側諸国の自動車メーカーによる訪中は、これが初めてだった。

 翌1972年、日中国交回復の直前のタイミングで、中国政府の自動車工業視察団が来日してトヨタを訪ねた。「将来、中国は巨大な自動車市場になるという、当時の豊田英二社長の読みが背景にあった」(トヨタ関係者)という。

 1978年末、実権を握ったトウ小平によって中国は改革開放へと舵が切られる。巨大なフロンティアが突如として隣国に現われた。自動車に限らず日本の製造業各社は、乗り遅れまいと市場調査を始める。

 しかし、トヨタは動じることはなかった。既に中国とは浅からぬ関係にあったからだ。中国の古い言葉にこうある。

 井戸を掘った人間のことを忘れない。

 事実、この2か月前、トウ小平は来日し、トヨタをはじめとする製造業を視察していた。1978年には中国の大手メーカー・第一汽車(一汽)の幹部がトヨタを訪問し、前後してトヨタも中国に調査団を送り込んでいた。1981年にはトヨタ生産方式の生みの親の大野耐一相談役(当時)が一汽を訪れている。

 機は熟しつつあった。自動車産業を国家の基幹産業に据えようと動き出した中国政府の念頭にあったのは、トヨタだったに違いない。中国政府はトヨタに対し、合弁企業設立による進出を要請した。
 
 しかし──。
 
 トヨタは三顧の礼を尽くす中国政府の要望を断わったとされる。時を同じくして、米国への本格進出が予定されていたからである。

 70年代、日本車の対米輸出が急増し、日米の貿易摩擦は過熱化する一方だった。その解決のため84年、トヨタはGMとの合弁企業「NUMMI」を設立し、初の米国生産に踏み切った。そんな折、いくら日本のトップ企業とはいえ、中国に注ぎ込むヒトもカネもモノも残っていなかった。
 
 より現実的にいえば、「モータリゼーションがいつ起こるのか予想もできない中国よりも、北米を優先させた結果だった」(経済誌記者)。トヨタOBで同社上海主席代表も務めた東和男氏はこう話す。
 
「中国市場はまだ100万台もいかないような市場だったから、正しい判断でした」
 
 東氏は2011年トヨタを退職し、中小企業を受け入れる工業団地を運営する「東龍日聯(丹陽)企業管理有限公司」を設立している。中国に駐在し、勃興する中国ビジネスに精通している東氏は、当時のトヨタ幹部の決断を尊重しながらもこう言う。
 
「中国政府のメンツをつぶした代償は大きかった」
 
 トヨタの代わりに進出を果たしたのが、現在中国首位のVWだ。1984年に上海汽車との合弁「上海VW」を設立し、後に中国の国民車とも呼ばれたサンタナを1985年から生産していく。中国のモータリゼーション拡大とともに、VWのシェアは拡大していった。
 
「最初に来てくれたことで、中国政府からVWへの信用は厚い。中国政府の要求にもたえず応えている」(同前)

 ちなみに中国よりも優先させた格好になるNUMMIは、米国市場の飽和とともに2010年、その役目を終え、閉鎖している。

※SAPIO2014年8月号


 

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コメント
 
01. 2014年8月02日 22:08:16 : AQLSPLIkCw
1970年代後半から1980年代前半にかけての日米通商摩擦問題は、日本から大量に輸出される自動車、半導体が焦点になった。特に自動車は、第二次石油危機に伴うガソリン価格の高騰により、自動車需要が燃費の悪い大型車中心のアメリカ車から燃費のよい日本車に急激にシフトし、アメリカの自動車メーカーは次々と経営危機に転落。特に業界三位のクライスラーは、倒産寸前の状況に追い込まれたのである。

日本の自動車産業は、アメリカやカナダと言った北米向け輸出の増加で成長してきたから、この貿易摩擦問題が何らかの形で決着しないと業界全体の存続に関わる問題になりかねなかった。それくらい当時の状況はピリピリしていたのである。

アメリカの自動車メーカーは販売不振に陥り、大幅な生産削減に踏み切らざるを得ず、レイオフされた労働者が各地で「パールハーバーだ ! 」と日本車の叩き潰しパフォーマンスで抗議した。1980年の大統領選挙は、自由貿易を掲げる共和党レーガン候補と、労働者を支持基盤とする民主党カーター現職候補との一騎打ちになった。

日本側はアメリカ側からの圧力を受け、通産省が自動車輸出を「自主規制」する形で決着がついた。事実上のアメリカによる対日制裁なのであるが、これを日本側から言い出した形にして、これ以上の政治問題化することを避けたのである。

日本政府が動いたのだから、次はメーカーの方に解決手段の提示が求められるようになった。真っ先に動いたのがホンダで、オートバイの現地生産に成功したのを受け、乗用車の現地生産を発表。これに日産自動車も続いた。トヨタは、このアメリカ現地生産への取り組みが遅いと批判を受けた。

GMが1982年に閉鎖したカリフォルニア州の自動車工場の施設を利用して、トヨタとGMが合弁会社を設立し、1984年12月より生産を開始した。これがNUMMIである。

NUMMI
http://ja.wikipedia.org/wiki/NUMMI

●ここに至る道は平坦なものではなく、茨の道であった。トヨタは、このGMとの合弁事業に全精力を傾注する必要があり、とても中国大陸にかまっていられる状況ではなかったのである。これとは別に、進出したばかりのオーストラリアの現地生産工場の運営を軌道に乗せる必要があり、特に自動車部品の現地調達比率を何が何でも85%に乗せる必要があった。これを下回ると、オーストラリア現地生産していても、57.5%の輸入関税を課せられるためである。

当方の個人的見解だが、トヨタはアメリカ以上にオーストラリア現地生産に持てる力の全てを傾注する必要があり、とてもじゃないが中国大陸にかまっていられる状況ではなかった。現在、中国大陸で最大手にのし上がったドイツのフォルクスワーゲンだが、1978年にオーストラリアの現地生産から撤退して、工場を日産自動車に売却していた。アメリカ現地生産についても、確かこの頃に一旦撤退していたね。つまり、中国大陸に進出する余力があったのである。

まあ、これが当時の状況だが、SAPIOは次の自動車特集の際に、当方の今回の投稿を参考にするのではなかろうかw


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