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ホンダジェット(画像提供:ホンダ)
「離陸」間近のホンダジェット、開発宣言から50年の舞台裏 “車屋”の発想による奇跡
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140704-00010002-bjournal-bus_all
Business Journal 7月4日(金)3時0分配信
ホンダは、じつに不思議な会社である。
ホンダは、小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」の開発を進めてきた。当初、「“二輪屋”のホンダに、飛行機をつくれるはずがない」というのが、世間の見方だった。それはそうだろう。富士重工業やロールスロイスなど、母体が航空機エンジンメーカーの企業が自動車をつくった例はあっても、自動車メーカーが航空機をつくった例はかつてない。
また、航空機産業では、機体とエンジンの開発・生産のすみ分けが進んでいる。ボーイングのような航空機メーカーは、航空機エンジンを生産していない。ホンダのように、両方の開発・生産を手掛ける民間企業は、世界に例がない。この事実からしても、ホンダはじつに不思議な会社である。
しかも、不思議なことに、「ホンダなら、本当にやるかもしれない」という期待を抱かせる何かを持っている。なぜだろうか。それは、ホンダのDNAともいうべき「夢」への挑戦にあるだろう。
ホンダの不思議についていえば、普通、ジェット機のエンジンは、左右の主翼の下、ないしは胴体後部左右に搭載されている。ところが、ホンダジェットは左右主翼の上にエンジンが搭載されているのだ。主翼上にセットすれば、乱気流が生じ、非効率とされる。にもかかわらず、ホンダは業界の常識を覆した。不思議なスタイルである。
しかしその結果、ホンダジェットは、ライバル機に比較して最大巡航速度は約10%向上の時速778km、実用上昇限度は約5%向上の約1万3100m、燃費性能も数値こそ発表されていないが約20%の向上を実現。客室の広さも、約18%向上の高さ1.46m、幅1.52m、長さ5.43mであり、パイロットを含めて7人乗りである。そのホンダジェットは今、離陸に向けた秒読み段階に入っているのだ。
●技術革新を見据えた長期的経営視点
ジェット機の開発は、そもそもホンダ創業者である本田宗一郎の「夢」だった。1917年、当時10歳だった宗一郎は、米飛行士アート・スミスの曲芸飛行を見ようと、自宅から20km以上離れた浜松練兵場へ自転車で向かった。手持ち金不足で入場できなかったために、木に登ってそれを鑑賞した。以来、飛行機に憧れ続けたというのは、あまりにも有名な話だ。
それから45年を経た62年、二輪レースの世界最高峰マン島TTレース(イギリス)で前年に初優勝するなど勢いに乗るホンダは、朝日新聞が掲載した「国産軽飛行機 設計を募集」の広告に協賛した。そして同年、宗一郎は社内報で「いよいよ私どもの会社でも軽飛行機を開発しようと思っております」と発言している。
ただ、宗一郎の決意があったとしても、航空機の開発はそんなに簡単なことではない。ホンダが航空機の開発に正式に取り組むのは、それから24年後の86年である。
ホンダは同年、「和光基礎技術研究センター(基礎研)」を極密に開設した。その2〜3年前からテーマの模索が行われていたが、その際、シェア一番になることより、技術の新規性、進歩性においてトップになることこそホンダが追求すべき道だ――と考えられた。つまり、10から20年先の技術革新を見据えていた。長期的経営視点である。
選ばれたテーマは、航空機エンジン、航空機体、ロボット、バイオエタノールやソーラーを使う次世代エネルギーの4つで、いずれも極秘開発プロジェクトとしてスタートした。二足歩行ロボット「ASIMO」の開発も、そのときに始まったのだ。
航空機エンジンの開発のため、若手技術者数名が集められた。極秘研究というので、開発者たちは10年以上にわたって家族にすら研究内容を話すことが許されなかった。これも、不思議を通り越してクレイジーな話といわなければならない。エンジンに必要な材料チタンにしろ、専用ベアリング1つにしろ、業者に用途を伝えられなかったり、しかるべきメーカーに発注ができなかった。秘密保持の苦労は続いた。
●ゼロからの設計にトライ
ホンダが秘密保持を解き、正式にホンダジェットのプロジェクトを始動したのは、97年のことである。
私は、正式発表の翌98年、当時基礎研のエグゼクティブチーフエンジニアとして航空機エンジンの開発の先頭に立っていた故窪田理氏を取材した。大学で航空原動機を専攻した窪田氏は、86年の基礎研設置当時から航空機エンジンを担当しており、初期の開発ストーリーを聞くことができた。窪田氏らは、文字通り何もないところから、航空機エンジンの開発を始めた。ゼロからの出発だ。
「普通、まったく新しいことをやろうとするときには、よそでつくったものを買ってきてバラしてみることから始めるのが常道なのでしょう。しかし、われわれは、基本的には自分たちでゼロから設計することにトライしました」(窪田氏)
いくら自動車のエンジンをつくっていても、航空機エンジンは技術的に格段の差がある。「他人のマネはしないこった」という宗一郎の考え方は、今もってホンダの理念といっていいのだが、それにしても無謀な話といえる。
実際、最初の3〜4年は、ひたすら回せば壊れるエンジンをつくり続けることになった。開発が軌道に乗り始めても、無鉄砲というか勇ましいエピソードは数知れない。秘密プロジェクトだというので、与えられた研究室は窓のない部屋だった。和光研究所内にある車用ガスタービンのための施設で、開発中の航空機エンジンを回したところ、衝撃のあまり建物の壁が吹き飛びそうになった。北海道鷹栖にあるテストコースに櫓を組み、航空機エンジンを吊るして回したら、爆音に驚いた旭川の自衛隊基地から、ヘリコプターが慌てて偵察にきた――。
95年、米ロサンゼルスでボーイング727の古い機体に、開発エンジンを乗せて飛行テストをした。といっても、開発エンジンが727を飛ばしたのではなく、あくまで機体の一部分にくっつけて性能を調べたにすぎない。しかし、窪田氏ら開発者たちの喜びは大きかった。そして、前述したように97年に公式発表し、秘密のベールを脱いだのだ。
●“車屋”の発想
一方、機体の開発を担当したのは、エンジン設計者の窪田氏とともに、開発開始当初から携わってきた藤野道格氏(ホンダの航空機事業子会社、HACI<ホンダ エアクラフト カンパニー>現社長)である。藤野氏は、東京大学工学部航空学科出身で、専門は空力である。クルマをつくりたくてホンダに入社したが、ジェット機開発に回されたのだ。
藤野氏は、冒頭で述べたように、従来のビジネスジェットのほとんどが胴体後部に配置するエンジンを、主翼上面に配置する独特のデザインを考案した。機内空間を広くしたいけれど、エンジンを胴体後部につけると、胴体の内側にしっかりした支柱を通さないといけない。すると、客室が狭くなる。「エンジンが邪魔だな」と考えるうち、エンジンを主翼上部に配置することを思い付いた。彼は風洞試験を繰り返し、最適な配置、すなわちスイートスポットを見つけ出したのだ。これによって、空力性能が高まって燃費が格段に向上したほか、胴体後部のエンジン支持構造が不要になり、キャビンや荷室を広くできた。
独創性はまた、機体デザインにも発揮された。従来、航空機のエクステリアデザインは空力設計者が担うため、多くのジェット機は円柱がすぼんだような似た顔になる。藤野氏は、空気の摩擦抵抗が少ない「自然層流ノーズ」の独自開発と同時に、デザインにもこだわった。デザイン重視は、“車屋”の発想といっていい。
デザインに迷っているとき藤野氏は、サルヴァトーレ・フェラガモのハイヒールを見て、「これだ!」と、インスピレーションがわいた。尖ったつま先からかかとにかけての鋭く流れるラインから、現在の尖鋭的なデザインが生まれたのだ。ホンダジェットがビジネスジェット機というより、ノーズが尖った戦闘機を連想させるような鋭い顔をもっている理由である。藤野氏は2012年、日本人としては初めて、米国航空宇宙学会の航空機設計賞を受賞した。
●“大”が“小”にひれ伏した瞬間
ホンダジェットが約20分間の初フライトに成功したのは、03年のことである。開発開始から17年の歳月が流れていた。
ホンダの航空機エンジンに目をつけたのは、GEだ。GEは大型航空機エンジンは得意としていたが、小型の航空機エンジンは不得意だった。実はホンダは、世界一のエンジンメーカーである。二輪、四輪、汎用のエンジンを生産しており、その生産台数は間違いなく世界トップだ。しかも、いずれのエンジンも小型であるのが特徴だ。新しく開発した航空機エンジンもまた、小型である。GEのエンジニアは、ホンダのエンジンを見て、「こんなに小型でシンプルなエンジンに、これほどの性能が出せるのか」と舌を巻いたという。いわば、“大”が“小”にひれ伏したのだ。
あろうことかGEは、04年に出資比率50%ずつの合弁会社、エアロ エンジンズ(GEホンダ)を立ち上げた。合弁発表の記者会見の席上、GEの航空機エンジン製造部門だったGE トランスポーテーション社長(当時)のデビッドL・カルフーン氏は、記者の質問に答えて、次のように答えた。
「われわれにはノウハウがあるが、ホンダには自前開発のジェットエンジンがある。これは“ベスト・マリッジ”だ」
GEホンダ設立によって、ホンダは、エンジンの量産化やFAA(米連邦航空局)認定取得、販売チャネル確保への道筋をつけた。
そして、ホンダがホンダジェットの実験機を初公開したのは、05年のことである。翌06年には、事業化を発表した。ホンダジェットはマイアミのビジネス機ショーに出品され、3日間で100機以上を受注するという快挙を成し遂げた。奇跡といっていいだろう。
ホンダの航空機事業子会社、HACIの本社は、米ノースカロライナ州グリーンズボロ市にある。現在、現地社員は約900人で、そのうち日本人スタッフは立ち上げ当初30人ほどだったが、現在は10数人にすぎない。
ホンダジェットは、13年12月、FAAから型式検査承認(TIA)を取得した。書類審査通過を受け、現在はほぼ毎日、本社に隣接した滑走路からホンダジェットが大空に飛び立つ。FAAのパイロットが搭乗し、最終的な認定飛行試験が繰り返されている。
GEホンダ製のエンジン「HF120」に続き、15年前半にもホンダジェットの型式証明が正式に下りれば、その日から購入者への引き渡しが開始される。価格は一機450万ドル(約4億6000万円)だ。
●“ライト級”で市場を切り開く
ホンダは“ライト級”が得意な企業である。二輪にルーツをもち、現在のグローバル市場における競争優位は、二輪、四輪とも小型エンジンにある。「カブ」であり、「シビック」だ。
ホンダがホンダジェットで狙うのも、ビジネスジェットの中で最も小型の「ベリー・ライト・ジェット」と呼ばれるボリュームゾーンだ。もとより、搭載されるのも小型の航空機エンジンである。いってみれば、“ライト級”はホンダの得意のフィールドだ。それだけに、ホンダに十分チャンスがあるといえる。
小型ジェット機の市場は現在急拡大中で、ホンダは北米、ヨーロッパで受注活動を行っているが、今後、ロシア、ブラジル、中国、アジアなどへも進出を計画している。また、GEホンダは、航空機エンジン「HF120」を、機体メーカー向けにも販売する。ホンダがかつて手掛けたことのない、B2B(事業者向け)ビジネスへのチャレンジである。
宗一郎が、飛行機に魅せられてから97年。ホンダジェットが空を舞う日は目前だ。開発者や歴代社長らが今、誰よりホンダジェットに乗ってほしいのは、「夢」をくれた宗一郎に違いない。
片山修/経済ジャーナリスト・経営評論家
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