05. 2014年6月16日 09:17:16
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それに学歴が高くても使えない人間は多いhttp://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20140611/266701/?ST=print なぜ、高学歴の人物が、深い知性を感じさせないのか? 2014年6月16日(月) 田坂 広志 なぜか「知性」を感じさせない「高学歴」の人物 田坂教授は、5月に、新著『知性を磨く「スーパージェネラリスト」の時代』(光文社新書)を上梓されました。この連載『知性を磨く スーパージェネラリストへの成長戦略』では、ビジネスパーソンは、いかにして、日々の仕事を通じて「知性」を磨いていくべきか、そして、「七つのレベルの知性」を垂直統合した「スーパージェネラリスト」へと成長していくことができるかについて、伺いたいと思います。 まず、この連載第1回のテーマは、「なぜ、高学歴の人物が、深い知性を感じさせないのか?」です。 最初から、随分、刺激的なテーマですね? 田坂:そうですね。正確に言えば、「なぜ、高学歴の人物が、必ずしも、深い知性を感じさせないのか?」と言うべきですが、実際、高学歴を誇る人物を見ていて、たしかに「頭は良い」とは思うのですが、あまり「賢い」とは思えない人物がいるのではないでしょうか? 「頭は良い」が、「思考に深みが無い」人物です。 深みの無い「新事業企画」 例えば、どのような人物でしょうか? 田坂:例えば、ビジネスの現場で、次のような場面を見かけたことがないでしょうか? ある若手社員が、社内会議で、新事業企画について見事なプレゼンテーションをする。弁舌は爽やか。立て板に水。頭の回転は速い。話も論理的。プレゼンのスライドも見やすく、選び抜いた言葉を使う。さすが、偏差値の高い大学を、優秀な成績で卒業しただけある。本人も、このプレゼンで、自分の提案する新事業企画が、十分な説得力をもって説明できたと思っている。 しかし、なぜか、その会議に出席した中堅のマネジャー諸氏からコメントが出ない。皆、悩ましく思いながら、言葉を選んでいる。そして、ようやく、一人のマネジャーが、全員の気持ちを代弁するように言う。 「理屈では、たしかに、そうなのだけれど……」 経験豊かなマネジャーは、誰もが感じている。新事業開発というものは、この若手社員が語るほど、簡単に理屈で割り切れるものではない。市場規模の数字や事業戦略の論理の向こうに、顧客の生の声や思いというものがある。そのことは、一度でも新事業開発に真剣に取り組んだ人間ならば、誰もが分かっていること。ただ、そのことを説明しても、まだ経験の浅いこの若手社員には、おそらく理解できないだろう。熟練のマネジャーは、皆、そう思っている。 思わず、この若手社員が聞く。「何が、問題なのでしょうか?」 その質問に対して、マネジャーの一人が、言葉を選びながら答える。 「何と言うか、この企画は、少し深みが足りないんだね……。 新事業企画には、数字などのデータには現れない要素が沢山ある。 もう少し、そうした『目に見えないもの』を 考えてみたらどうかな……」 ビジネスの現場で、こうした場面を見たことがないでしょうか? 思い当たるシーンが、心に浮かびますね……(笑)。 職場にいる「不思議な人物」 田坂:この連載の読者の中にも、こうしたシーンに遭遇した方は、少なくないのではないでしょうか? そして、職場に、このような若手社員がいるのではないでしょうか? 学歴は一流。偏差値の高い有名大学の卒業。頭脳明晰で、論理思考に優れている。頭の回転は速く、弁も立つ。データにも強く、本もよく読む。 しかし、残念ながら、思考に、深みが無い。 いや、それは若手社員だけではありません。実は、こうした「頭は良いが、思考に深みが無い」と評すべき人物は、年齢に関係なく存在します。 そして、「思考に深みが無い」ため、これらの人物からは、「知性的」な雰囲気が伝わってこない。端的に言えば、「高学歴」であるにもかかわらず、深い「知性」を感じさせない人物。そうした不思議な人物が、職場にいるのではないでしょうか? 「知性」と似て非なる言葉 そうした人物は、たしかにいますね……(笑)。では、なぜ、そうした人物がいるのでしょうか? 田坂:もし、その理由を知りたければ、「知性」という言葉と似て非なる、もう一つの言葉の意味を理解する必要があります。 それは、「知能」という言葉です。 では、「知性」と「知能」は、何が違うのか? 実は、この二つは、全く逆の意味の言葉なのです。 端的に、この二つの言葉の定義を述べましょう。 まず、「知能」とは、「答えの有る問い」に対して、早く正しい答えを見出す能力のことです。 例えば、世の中には「知能検査」というものがありますが、この検査は、正解の有る問題を数多く解かせ、いかに迅速に、正解に到達できるかを測るものです。 すなわち、「知能」とは、まさに、「答えの有る問い」に対して、速く、正しい答えを見出す能力に他ならないのです。 そして、言うまでもありませんが、現在の中学、高校、大学などの入学試験で測られるのは、この意味における「知能」であり、現在の「学歴社会」において受験競争を勝ち抜いてきた「高学歴」の人間とは、この意味での「知能」が高い人間のことに他なりません。 なるほど、では「知性」とは? 田坂:これに対して、「知性」とは、この「知能」とは全く逆の言葉です。 二つ並べて述べましょう。 「知能」とは、「答えの有る問い」に対して、早く正しい答えを見出す能力。 「知性」とは、「答えの無い問い」に対して、その問いを、問い続ける能力。 すなわち、「知性」とは、容易に答えの見つからぬ問いに対して、決して諦めず、その問いを問い続ける能力のことです。ときに、生涯を賭けて問うても、答えなど得られぬと分かっていて、それでも、その問いを問い続ける能力のことです。 知性とは「哲学的思索」のことか? 「答えの無い問い」を問う力ですか……。それが「知性」だと……。 田坂:そうです。例えば、1977年に「散逸構造論」の業績でノーベル化学賞を受賞したイリア・プリゴジン博士は、若き日に、「なぜ、時間は、過去から未来へと一方向にしか流れないのか?」との問いを抱き、その問いを数十年の歳月を超えて問い続け、この「散逸構造論」という理論を生み出すに至ったわけです。 これは、見事な「知性」の営みと呼べるものでしょう。 同様に、 「なぜ、この宇宙は生まれたのか?」 「なぜ、生命は進化していくのか?」 「心とは何か?」 「人類は、どこに向かっていくのか?」 「私とは何か?」 といった問いは、いずれも「答えの無い問い」です。 一人の人間が生涯を賭けて問うても、その答えを得ることができない問い。 人類がこれから百年の歳月を賭けて問うても、容易に答えの得られぬ問い。 そうした問いを問い続ける力が、「知性」と呼ばれるものです。 なるほど、そういった深遠な哲学的思索をする力が、「知性」なのですね? 田坂:いえ、そうではありません。「答えの無い問い」は、決して、深遠な哲学的領域の中にだけあるわけではない。我々の日々の生活の中にも、日々の仕事の中にも、無数に、この「答えの無い問い」があるのです。 部下に転属を命じるか否か? 例えば、マネジメントにおいて、部下に転属を命じるとき、我々は、「答えの無い問い」に直面します。 例えば、ある会社の企画部長が、営業部長から、ある若手の部下が欲しいと言われる。そのとき、この部下を、自分の下で、もう少し企画の修業をさせてあげるべきか、営業で、新たなスキルを磨かせてあげるべきか、悩みます。心の中で、次のような問いが、交互に浮かびます。 「営業が欲しいと言っているときだからこそ、彼が新天地で活躍できるチャンスではないか?」 「いや、企画部でいま担当しているプロジェクトを軌道に乗せることが、彼の今後の大きな自信になるのではないか?」 実は、こうした問いは、もし真剣に考え始めたならば、まさに、「答えの無い問い」なのです。 しかし、この問いに対して、多くのマネジャーは、あまり深く考えることなく、結論を出していきます。そして、そのことは、必ずしも批判されることではありません。様々な意思決定事項が山積しているマネジャーの多忙な業務のなかで、こうした一つの案件に、多くの時間と精神のエネルギーをかけて結論を出す余裕は無い。それが現実だからです。 しかし、仮に、短時間で判断を下していくとしても、我々マネジャーが、理解しておくべきことがあります。 一人の部下に転属を命じるか否かということ一つでも、本当は、深く考えるならば「答えの無い問い」であるという事実。 その事実を知って判断に向かうマネジャーと、その事実に気がつかず判断に向かうマネジャーは、その「知性」の在り方において、大きな違いが生まれてくるのです。 「答えの無い問い」に直面する「知能」 たしかに、部下に転属を命じるか否かだけでも、良く考えれば、実は、「答えの無い問い」ですね……。 田坂:そうですね。だから、「答えの無い問い」は、決して「深遠な哲学的思索」の中だけにあるのではない。我々の人生においては、日々の生活の中にも、日々の仕事の中にも、無数に「答えの無い問い」があるのです。 そして、その「答えの無い問い」を前に、その問いを、深く問い続けることのできる能力、それが「知性」に他なりません。 これに対して、「知能」とは、「答えの有る問い」に対して、早く正しい答えを見出す能力のことです。 では、この「知能」が、「答えの無い問い」に直面したとき、何が起こるか? 何が起こるのでしょうか? 田坂:端的に言いましょう。 「割り切り」 「知能」は、それを行ってしまいます。 すなわち、考えてもなかなか答えの出ない問題を前にしたとき、「知能」は、しばしば、この「割り切り」という行為に走るのです。 例えば、先ほどの部下の転属の問題に直面した企画部長が、こう考える。 「まあ、営業部長が彼を欲しいと言っているのだから、それでいいか……」 「まあ、彼なりに、新天地で頑張っていくだろう……」 もしくは、 「いや、ここで彼を取られると、こっちも困るんだね……」 「きっと、彼も、いまのプロジェクトを完遂したいのではないかな……」 どの考えも、一つの考えであり、決して間違ったことは言っていません。 しかし、こうした判断の奥にある、心の姿勢が、実は問題なのです。 何が問題なのでしょうか? 「楽になりたい」と叫ぶ心 田坂:これも端的に言いましょう。 「楽になりたい」 この部長の心の中で、その思いが動いているのです。 「この問題は、いくら考えても、正解など無いのだから、 これ以上考えても仕方がない。 これ以上、この問題を考えても、 精神のエネルギーを無用に使うだけだ……」 そうした心が、無意識と意識の境界のところで動いているのです。 ただ、私も、一人のマネジャーとして、一人の経営者として、道を歩んだ人間ですので、この部長の気持ちは分かるのです。 しかし、一方で、かつて文芸評論家・亀井勝一郎が語った言葉が、心に浮かんできます。 「割り切りとは、魂の弱さである」 その言葉です。 この言葉は、厳しい言葉ですが、まぎれもなく、一つの真理を突いた言葉です。 たしかに、我々の精神は、その容量を超えるほど難しい問題を突き付けられると、その問題を考え続けることの精神的負担に耐えかね、「割り切り」を行いたくなるのです。 問題を単純化し、二分法的に考え、心が楽になる選択肢を選び、その選択を正当化する理屈を見つけ出す。 例えば、先ほどの理屈です。 「相手が欲しいと言っているのだから……」 「彼なりに、頑張っていくだろう……」 「こちらが困るのだから……」 「彼も、そう思っているだろう……」 そういった理屈で、「割り切って」しまうのです。 なぜ、そうした「割り切り」が問題なのでしょうか? 田坂:これも端的に言いましょう。 「知性を磨く」ことができなくなるからです。 すなわち、精神が「楽になる」ことを求め、「割り切り」に流されていくと、深く考えることができなくなり、「答えの無い問い」を問う力、「知性」の力が衰えていくのです。 「割り切り」の対極の方法 しかし、精神の弱さに流され、「割り切り」をするべきではないという考えは分かるのですが、現実の人生や仕事においては、目の前の選択肢の中から、短時間で何かを選ばなければならないときがあるでしょう。そのとき、「割り切り」をせずに、迅速な意思決定をすることができるのでしょうか? 田坂:大切な質問ですが、その答えは明確です。 「割り切り」をせず、迅速な意思決定をすることはできます。 もとより、「割り切り」をするべきではないと言っているのは、「迅速な意思決定」をするべきではないと言っているわけではありません。「精神の弱さに流された意思決定」をするべきではないと述べているのです。 では、「精神の弱さに流されない迅速な意思決定」とは、何か? それが、昔から語られる、もう一つの言葉です。 「腹決め」 すなわち、「これで行くしかないか……」と、腹も定まらず、受動的に意思決定するのではなく、「これで行こう!」と、腹を定め、能動的に意思決定することです。 先ほどの部下の転属の例で言えば、 「営業部長が欲しいと言っているのだから、まあ、良いか……」 という「割り切った」心の姿勢ではなく、 「営業部長から声がかかったのも、何かの意味がある。 この転属が、彼の飛躍の機会となることを祈って、 転属を受け入れよう!」 という「腹を決める」心の姿勢です。 「割り切り」と「腹決め」の違い つまり、その「割り切り」と「腹決め」は、何が違うのでしょうか? 田坂:前者の「割り切り」の心の姿勢は、心が楽になっている。 しかし、後者の「腹決め」の心の姿勢は、心が楽になっていない。 その違いです。 そして、この二つの心の姿勢がもたらすものは、大きく違うのです。 おそらく、前者の「割り切り」をした企画部長は、転属を命じた部下のことは、まもなく忘れていくでしょう。 後者の「腹決め」をした企画部長は、転属を命じた部下のことを、時折、思い出し、「彼は、営業で頑張っているかな……」「何年かしたら、また、企画部に戻してやろうか……」といった形で、心に抱き続けるでしょう。 臨床心理学者の河合隼雄が、かつて、「愛情とは、関係を断たぬことである」との言葉を残していますが、まさに、その通り。 後者の企画部長は、「心の中で関係を断たぬ」という形で、かつての部下に対する愛情を抱き続けることができるでしょう。それができるほどの「精神のエネルギー」を心に宿しているからです。 そして、その精神のエネルギーこそが、「知性」というものの根底にある力であり、「知性」を磨き続けるために求められる力なのです。 そのエネルギーがあるからこそ、我々は、「答えの無い問い」を、問い続けることができるのです。 なるほど。しかし、知性を磨いていくために、旺盛な精神のエネルギーが求められるならば、歳を重ねた人間は、エネルギーが衰えていくから、知性を磨くことは難しいのではないでしょうか? 田坂:いえ、そうではありません。実は、精神のエネルギーは、年齢とともに高まっていくのです。 次回は、そのことを語りましょう。 このコラムについて 知性を磨く スーパージェネラリストへの成長戦略 いま、ビジネスプロフェッショナルに求められる「知性」とは何か? 21世紀、企業や組織、政府や自治体、国家や社会が抱えている多くの難題を前に、ビジネスプロフェッショナルに求められているのは、何よりも、「目の前の現実を変革する知の力」、すなわち「変革の知性」であろう。では、「変革の知性」とは何か? それは、「思想」「ビジョン」「志」「戦略」「戦術」「技術」「人間力」という「7つのレベルの知性」を垂直統合した「スーパージェネラリストの知性」に他ならない。 この連載においては、
(1)「知性」とは、そもそも、いかなる力か? (2)「7つの知性」とは、それぞれ、いかなる知性か? (3)「7つの知性」を、それぞれ、いかにして磨いていくか? (4)「7つの知性」を、いかにして垂直統合していくか? (5)「7つの知性」を垂直統合した「スーパージェネラリスト」とは、いかなる人材か? (6)「スーパージェネラリスト」が身につけるべき「多重人格のマネジメント」とは、いかなる技法か? (7)「多重人格のマネジメント」によって、なぜ、「多様な才能」が開花するのか? といったテーマを中心に、田坂教授に、縦横に語ってもらう。 |