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お金儲けをしてモノがあふれてもちっとも幸福を感じられない理由―内田樹インタビュー
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140609-00004308-davinci-ent
ダ・ヴィンチニュース 6月9日(月)7時20分配信
家族、地域、さらには国民国家。共同体がどんどん壊されている。市場主義経済が共同体を破壊していくのだ。そのトレンドが究極のところまで来てしまった、と内田樹さんは話す。
「資本主義はその本性からして共同体を解体してしまう。これまでそれを指摘する人はあまりいませんでした。さすがに昨今、グローバリズムによって国民国家が解体されると意識されはじめているけれども。TPPなんか典型的ですね。自由貿易になってきて、世界中で通貨も共有、言語も共有、度量衡も共有というフラット化が進行していくなかで、資本主義は本性として境界線を嫌うのだと実感されるようになりました」
ところが事態は国家間だけではすまなかった。国内でも同じことがすすんでいた。国境が溶けるように、さまざまな共同体が壊れ、裸の個人が荒野に放り出される。
どうして資本主義が共同体を壊してしまうのだろう。その論理は明快だ。たとえば大家族がひとつの家に住んでいると、住居も家電もひとつですむ。ところが祖父母と両親が別々に住み、子どもたちも独立して住むとどうなるか。住居や家電製品はそれぞれ必要になる。家族を解体させることで、さまざまなモノやサービスが商品として売れる。共同体が壊れるとGDPが上がるのである。
GDPが上がるとリッチになったような気分になるけど、じつはその数字の裏でさまざまなことが進行していた。
「1980年代のバブル前期に起きたことは、家族の解体とリンクしています。家族が解体してしまうと、われわれはゼロからモノを買わなければいけないのですから」
実家を出てひとり暮らしをするときのことを考えればよく分かる。家具や家電製品を買いそろえるのは楽しいけれど、でもそれは家族と住んでいれば必要のないものだった。
■経済成長のために共同体を破壊してその後に来たものは
たしかに共同体は桎梏だらけだ。個人の自由を制限して、共同体のルールに縛りつけ、息苦しいものでもある。だから共同体から脱出したり、共同体が破壊されることで、自由と解放を感じる人も多い。しかし解体されてしまうと、世の中は殺伐として、生きづらくなった。やりすぎてしまったのだ。
「個人化して、共同体から分断されて、一人ひとりになった。自由の代償です。ひとりぼっちで生きていくのって、リスクが高いんです。われわれには不要不急のものっていっぱいありますよね。しょっちゅう使うものだけ個人の私有物にして、頻繁には使わない資産は共有すれば、そんなにたくさんの資金がなくても優雅な生活ができるんです。ところが共同体が破壊されてしまい、資源を共有して使い回していくという知恵が根こそぎ奪われた。めったに使わないものまで全部自分で買わなければいけなくなったんです」
たとえば窓を修理するのに脚立が必要になったとしよう。お隣の家は脚立を持っている。普段からつきあいがあれば「ちょっと貸してね」といって借りればすむ。しかし、ろくに挨拶も交わしたことがない仲では、そうもいかない。だから脚立を買う。ご近所づきあいがなくなると、脚立がたくさん売れる。こうしてわたしたちの身のまわりはモノであふれるようになった。ところが、いくらたくさんのモノに囲まれても、あまりハッピーな気はしない。満たされないからまた買う。すぐに飽きてまた買う。この繰り返し。
「必要なのはほんのわずかなノウハウです。モノを分け合ったり、贈与したりされたり、迷惑をかけたりかけられたり。シンプルなノウハウですが、このノウハウがあると生きる上でのリスクは劇的に軽減します」
現代社会はこのノウハウを教えようとしない。学校でも教えないし、家族も教えない。
「他人との資源の共有や助け合い、相互扶助は経済成長にとって妨害要因なんです。だから徹底的に壊しにかかってきている。もっとも隠微かつ効果的なのは、子どもたちに共生していくためのノウハウを植えつけないこと。それがいちばん危険な、怖いことだと思います」
■勉強しない子どもが賢い消費者だという奇妙なパラドクス
本書の中で最も恐ろしいのは教育に関する部分かもしれない。いつのまにか学校は、教育というサービスを売買する市場になってしまった。親も子どもも消費者として学校に行き、賢い消費者としてふるまおうとする。賢い消費者とは、最小の投資で最高の商品を得る者である。より少なく勉強して、より高い評価を得ようとする。学ばない者こそエラいというパラドクス。
「学校教育というものの本質がまったく理解されていない。子どもだけでなく、親もメディアも理解していない、行政も理解していない。現場の先生たちに聞くと、80年代から大きく変わっていったというんですね。最初にヒントをくれたのは諏訪哲二さんの『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ、2005年)でした。学校に市場原理を導入したことによって、子どもが消費者という感覚で学校現場に登場してきたと諏訪さんは指摘しています」
変化は戦後の高度経済成長期から徐々に蓄積していった結果だ。内田さんは、コップの中に水がたまっていくように、という。たまった水が、バブル期の一滴で、とうとうあふれ出してしまったのだ。
「僕が驚いたのは、中学生や高校生がお互いの学習努力を熱心に妨害し合っている風景です。いかにして足を引っぱるか。集団をなるべく均質化して、特殊な関心を持つ人間をたたき出していく。みんな同じような価値観で、能力も均質化していく。それも社会的な圧力によってではなくて、子どもたち自身が自己規制していく。その様子を見て愕然としました」
原理は競争における相対優位。優位者には高い報償を、下位の者には罰を。相対的な優劣だから、自分の能力を上げるよりもまわりの能力を下げる方が簡単だと子どもたちは悟る。だからお互いの足を引っ張り合う。競争が激烈になればなるほど集団全体の学力が下がっていくという逆説的状況はこのようにして進行する。
「それでも日本の教育行政の人たちは、アメとムチがいちばんいいと信じ込んでいる」
■危機の時代には集団内の競争よりもネットワークが救う
共生のためのノウハウの根幹は、成果や業績を集団単位でカウントする発想だと内田さんはいう。個人の業績や能力ではなくて、その個人が所属する集団のパフォーマンスを基準にして、社会活動を計量するのだ。
「危機的な状況の中で生きのびるためには、集団のパフォーマンスを高めるしかない。すべてのメンバーがそれぞれ持っている能力を最大限発揮する。そうなると集団内での競争や奪い合いにはなるはずがありません。いかにして各メンバーの能力を高めていくかを考えるほうが、生存のためには有利なんですから。集団内で競争して他人を蹴落とすというのは、安全で安定していてゲーム感覚で生きていくことが許される特殊な環境だけで成立することです」
だが、その安全で安定した特殊な時代も終わりつつある。共同体の解体と個人主義化は、そろそろ限界に来ていると内田さんはいう。
「いま40歳ぐらいの人たちが最後の個人主義者です。競争で勝つことが成功への唯一の道だと信じている。20代以下の賢い子たちは、経済成長モデルはもう限界なんだと気づいている。そういう萌芽があちこちで見られます。これからの日本は非常時モデルで対応するしかないだろうと感じている。非常時に最良の安全保障はネットワーク形成です。立場が違う人間とつながることでリスクヘッジするわけです」
もっとも、メディアのなかでは、いまだに経済成長を求める経済学者やエコノミストの声のほうが大きいのだけど。
共同体の崩壊を食い止め、再興するにはどうすればいいだろうか。なにか特効薬的な施策はあるだろうか。
「急には変わりません。大きな船が方向を変えるようなもので、じわーっとしか変わりません。家族・親族制度や学校制度は惰性の強い制度ですから、急には変えないほうがいいんです。即効性のある対処を求めるのはいちばん危ない。迂遠ではありますが、まず学校の教員たちが働きやすい環境を作る。創意工夫の余地のある、先生たちが自尊感情を持って働ける環境を作る。優秀な人たち、やる気のある人たちがそこに集まるくふうをするしかありません」
拙速は禁物だと内田さんはいう。時間のスパンを広くとってものごとの適否を判断する習慣を持とう、というのが内田さんの提案だ。
取材・文=永江 朗
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