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貯蓄から投資へ 未完の挑戦
(1)米メリル、2つの誤算
日本版ビッグバンに沸く 個人、株に動かず デフレで預金有利
半世紀以上にわたり、膨らんではしぼんだ「貯蓄から投資へ」の機運。なぜうまくいかなかったのか。マネーシフトは今も、日本経済復活のカギを握る。過去の教訓をあぶりだすときだ。1回目は、日本の個人マネーに世界がかつてないほど注目した1990年代末。
98年4月。東京駅近くの会議場、東京国際フォーラムで壮大なパーティーが開かれた。約2000人の社員を集めた「メリルリンチ日本証券」の発足式。「がんばりましょう」。乾杯の発声に会場は沸いた。
97年11月、四大証券の一角だった山一証券が破綻した。米証券大手のメリルリンチが山一の社員や支店を引き継ぎ、約30支店という新規参入としては異例の大規模で立ち上げた個人向け証券が、メリル日本だ。
正式に開業した98年7月。メリルの最高経営責任者(CEO)、デービッド・コマンスキー(59、当時)は東京を訪れ、日本が当時、世界にどう映っていたかを象徴する一言を残した。「経済規模や貯蓄率から見て、日本は最重要な国の一つでありつづける」
強気の背景は、当時の橋本龍太郎首相が96年に掲げた「日本版ビッグバン」だった。東京をニューヨーク、ロンドンと並ぶ国際金融市場にする金融制度改革。決めぜりふもあった。「1200兆円の個人金融資産を貯蓄から投資に動かす」
日本進出相次ぐ
97年、現預金は個人金融資産の59%を占めていた。コマンスキーは、日本に眠る「宝の山」が株式などに大移動する展開に賭けた。モルガン・スタンレー、チャールズ・シュワブ……名うての米個人向け証券も、メリルと競うように日本に進出した。
それは、日本が90年代を通じた経済停滞から脱するという読みでもあった。
「日本社会を変えるんだという、ある種の熱気に包まれていた」。証券取引等監視委員会の事務局長、大森泰人(55)は振り返る。97年に大蔵省(当時)に新設した市場改革推進室の室長として、ビッグバンを切り盛りした。
株式手数料の完全自由化など、証券業界が反発する改革もあった。大森は説得していく。「日本には世界の約3割に相当する個人金融資産がある。このお金が不良債権問題で身動きが取れない銀行から証券市場へとシフトすれば、日本はまだまだ成長できる」と。
しかし、個人は動かなかった。「考えておきましょう」。大山弘(59)の記憶には、顧客の冷ややかな一言がこびりついている。山一出身で、メリル日本の開業時は新潟支店長だった。
「コンサルティング」と呼ぶメリルの営業手法には期待もしていた。顧客の資産状況や人生設計を聞き出し、顧客の事情にあった商品を勧める。数世代にわたって顧客と信頼関係を築く営業担当者もいる。山一時代には、証券会社にとっての利益率が高い商品を強引に売り、顧客の信頼を失う営業担当者も多かった。
ところが、慣れない対応に顧客は戸惑った。「営業理念に賛同しても、注文はしてくれなかった」と大山。やりとりもそこそこに「どの株を買えば手っ取り早くもうかるの?」と問い詰められることもあった。
収益の低迷が続くと、社内の余裕もなくなった。手数料の高い仕組み債を売れという圧力、支店間の競争激化――山一で経験した供給者側の論理が復活していた。失望した大山は99年、メリルを去った。
「2001年までの3年で黒字化」との目標が達成できなかったメリルは02年1月、ハイテク株バブルの崩壊に背中を押され決断する。28店中20店を閉鎖し、社員1700人のうち1200人を削減する大リストラ。撤退への一歩だった。
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貯蓄でリターン
この時点で、日本の個人金融資産に占める現預金の割合は55%。97年とさほど変わっていない。「投資家は、超低金利の下では預金以外の投資先を探す。米国だと100%の真実だが、日本ではそうならなかった」。04年8月、コマンスキーの後を継いだスタンレー・オニール(52、当時)は本紙に誤算を認めた。
マネーはなぜ投資に動かなかったのか。オニールは「文化や社会に根ざしたもの」と分析する。リターンが低くても貯蓄を好む日本人の気質が、投資へのシフトを阻んだと。
だが、それも正確ではないことが、明らかになっていく。日本の個人はマネーを貯蓄にとどめることで、リターンを上げてきた。
バブル崩壊で「失われた20年」が始まった90年の末、100万円を使って預金(1年物定期預金)と、株式(東証株価指数に連動する投資信託)で運用を始めたとしよう。その後の差は歴然としている。
預金の場合、昨年末には125万円に増えていた。ましてや、デフレが続いた日本だ。預金の実質的な価値はもっと高い。これに対し、株式投資の時価は1度も預金を上回らなかった。11年には一時53万円にまで目減り。投資にシフトしていたら深手を負っていた。
「貯蓄から投資へ」と旗を振ってもお金が動かなかった理由は、デフレと低成長――浮かび上がるのは、こんな解だ。言い換えれば、脱デフレを通じて日本経済を成長軌道に戻そうという現在の機運は、マネーを動かす力を秘めている。
「山一証券を再興したいという信念のもとに、再々度、商標登録の出願を行います」。永野修身(55)が特許庁に「山一証券」の社名を使いたいと嘆願を続けている。千葉支店で破綻を迎え、メリルに転じた。98年、東京国際フォーラムで乾杯の音頭を取った元トップセールスマンだ。
00年にメリルを退社。金融機関向けの人材派遣業を興した。社業は順調だが、将来の夢はあくまで個人向け証券の立ち上げだ。
永野には、山一でもメリルでもなし遂げられなかった目標がある。「個人が株式投資を通じ、物価上昇から資産を守るのを手伝いたい」。デフレから脱却し、再び成長し、個人は投資に動く――永野が描く山一再興の道は、日本経済の復活と重なる。
(敬称略)
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「貯蓄優位」の脱却カギ
バブルが崩壊した1990年の末を起点として、貯蓄と投資でそれぞれ資金を運用していたらどうなったか。詳しく分析すると、直近まで一貫して貯蓄の方が有利だったことがわかる。
90年末に1年物定期預金と東証株価指数(TOPIX)に連動する投資信託にそれぞれ100万円を投じたと仮定。その後の資産の増減を試算すると、預金は緩やかながらも徐々に資産が積み上がっていった。
一方、株式は、過去23年間で元本を上回ったのはIT(情報技術)バブルだった99年と郵政解散に株式相場が沸いた2005〜06年の3年間のみ。残りの年ではすべて損失が出ている状態だった。「アベノミクス」の効果で13年末にはようやく99万円超まで回復したものの、125万円まで増えていた貯蓄との差はなお25万円近く開いている。
バブル崩壊と長引くデフレによって貯蓄の優位性が際立つ一方、株式投資は劣勢が続いたまま――。「資金を投資に回さず貯蓄にとどめる」という多くの個人の判断は、結果として正しかったことが数字からも裏付けられた形だ。
個人金融資産のうち89年末に461兆円だった現預金は13年に873兆円と89%増加。一方で株式、出資金、投資信託、債券を足した投資は同期間に203兆円から263兆円へ29%しか増えていない。株式や不動産価格が低迷しやすいデフレという経済環境を反映しているといえる。デフレから脱却し「貯蓄が優位」という状況から脱却できるかどうかが、今後「貯蓄から投資へ」の流れが進んでいくかどうかの重要なカギを握ることがわかる。
編集委員 梶原誠、川崎健が担当した。
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雪崩打つ流入は危うい 日本証券業協会会長 稲野和利氏
――貯蓄から投資へという兆しは、これまで何度もありました。
「私が証券界に入った1976年以降だと、80年代を通じた株高がまず印象深い。特に87年のNTT株の上場は、個人のお金が株にシフトした象徴といえる。NTT株の引き受けを担当していた部署は徹夜続きで不夜城のようだった。学生時代の友人からも『株を購入したい』と相談されたものだ」
「80年代は規制の整備が進み、多様な投資家が株式市場に入ってきた。外国人や機関投資家の存在感も増し、市場の信頼性は高まった。60年代前半までの株高局面では、株式投資信託が『池の中の鯨』と呼ばれるほど極端に膨らみ、市場の不安定要因だった」
――90年以降の株式バブル崩壊で投資へという流れは止まりました。
「80年代末、株価は説明できないほど上昇していた。企業の財テクが一因だ。企業はエクイティファイナンス(新株発行を伴う資金調達)をし、市場への株の供給は増えた。だが調達したお金を株式で運用するのだから需給は緩まない。スパイラルはやがて終わる」
「日本版ビッグバンもチャンスだった。97年には証券総合口座が始まり、投資家の利便性が高まった。98年には証券会社が免許制から登録制になり、業態が多様化した。99年には株の委託手数料が完全自由化され、投資家のすそ野が広がった。ビッグバン自体は良かったが、せっかくの勢いはIT(情報技術)株バブルの崩壊で止まった」
――投資にシフトするために何が必要ですか。
「まず、資金の移動は長い時間をかけなければ進まないという認識が必要だ。劇的にではなく、じわじわと、ひたひたとだ」
「私が証券会社に在籍中『個人金融資産が今に、雪崩を打って押し寄せる』と何度も言われてきた。だが、雪崩を打って押し寄せたお金は(バブル崩壊のように)雪崩を打って出て行くものだ」
「長い時間をかけて進むためには、仕組みづくりが欠かせない。例えば投資家に幅広い選択肢を提供するための多様な品ぞろえがそうだ。証券会社など仲介業者の自己規律や監督もきちんとしていかなければ。投資教育ももっと早い段階から取り組んでいい」
「個人金融資産は、人々が豊かな生活を送るための原資だ。今のように預金が多いとバランスを欠く。少額投資非課税制度(NISA)という器もできた。ブームやその反動という短期的な環境を超えて、長期的、累積的に投資をしやすい環境をつくりたい」
1976年に野村証券入社。個人向け営業、事業法人、資本市場、人事などの担当を歴任。野村ホールディングス副社長、野村アセットマネジメント取締役会議長、投資信託協会会長などを経て13年から現職。東大法卒。60歳。
[日経新聞6月1日朝刊P.11]
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