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格差が固定化される5つの理由と日本に忍び寄る貧困の恐怖
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2014年5月28日 Darkness - ダークネス
100戦無敗になるにはどうしたらいいのか。簡単だ。徹底的に弱い相手と戦うことだ。たとえば、大人は3歳児と戦ったら必ず勝つ。
大人が常に3歳児と戦い続ければ、常に勝ち続けることができる。それは勝負ではなく、リンチになるはずだ。大人はその気になれば、殴り殺すことさえ可能だろう。
だから、スポーツはこういった「大人vs子供」のような、最初から勝負が分かりきっているような組み合わせを禁止する。惨劇を避けるためだ。
それを不服として、大人が「自由に勝負させろ」と叫んでいたら、どうかしていると思われるはずだ。
しかし、それはスポーツの世界だからどうかしていると思われるだけで、実社会ではそのあり得ない競争が行われる世界なのである。
100万円の資産しかない人間が、100億円の資産を持つ企業と無理やり競争させられるのが資本主義の掟である。巨大な者が「もっと自由を」という時は、「弱者を叩きつぶす自由をくれ」という意味なのである。
■落ちこぼれた人間には金すらも出したくない政府
「どんどん競争させろ。競争のルールは必要最小限にしろ。弱い者がどうなったところで知ったことではない」
これが資本主義を拡大解釈した「市場原理主義」の正体である。日本は2000年に入ってから、この弱肉強食の市場原理主義が小泉政権下で組み入れられた。
事実上の実行者は竹中平蔵だった。
これによって社会経験の浅い若年層が非正規労働者に追い込まれて、どんどん生活が不安定化しくことになる。
こういった格差が生まれるのは当然だと竹中平蔵は言っている。さらに、「日本はまだまだ格差が少ない社会だ」との認識も示している。
つまり、もっと激しい競争社会して、それによって弱者がもっと増えても別に構わないというスタンスである。
強者総取りがこの男の理想なのだ。
弱者など、どうでもいい。落ちこぼれた人間には金すらも出したくないので、この男が小泉政権下でしたのは、社会保障支出の大幅な削減だった。
その結果、高齢者も、障害者も、シングルマザーもみんな追い込まれて、生活保護受給者は大幅に増えることになった。
弱肉強食の市場原理主義を取り入れればそうなることは、はじめから分かっていた。なぜなら、強欲な資本主義の総本山だったアメリカがそうなったからだ。
アメリカではレーガン政権がこの市場原理主義を推し進めた結果、1%の富裕層と99%の低賃金層という超格差社会を生み出して、今でもその格差の分離は広がっている。
■努力しても這い上がれない社会が来ている
アメリカでは、強者と弱者が明確に分離しており、その格差は極限にまで近づこうとしている。富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなっている。
中流階級は激減し、2010年には貧困者が4620万人に達した。7人に1人は貧困層だ。さらに、予備軍まで入れると、3人に1人は生活に追われている状況になっている。
問題なのは、この格差が固定化しつつあるということだ。アメリカン・ドリームはすでに消失している。努力しても這い上がれない社会がやってきているのである。
当然だ。競争を開始する時点での条件に大きな格差がついている。スタートラインが富裕層と貧困層とではまったく違う。正当な競争になっていないのである。
貧困層は満足な給料がもらえない職業を転々とするしかなく、結局、働いても働いても豊かになれないワーキングプアが常態化してしまう。
貧困が固定化するのは、次の5つの要因がある。
(1)生活に追われ、疲れて何も考えられなくなる。
(2)低賃金で自分も子供も教育が受けられなくなる。
(3)金を含め、あらゆるものが不足してしまう。
(4)這い上がれない環境から自暴自棄になっていく。
(5)社会的影響力がなく、権利は保障されない。
いったん貧困に堕ちると、この5つの要因が同時並行で始まっていき、その中で押しつぶされてしまう。
これは、アメリカだけの問題ではなく、今や日本の底辺の問題でもある。すでに、日本の底辺もこの5つの要因にがんじがらめにされて、這い上がるのが絶望的に難しい社会になっているのである。
■貧困層は、相変わらず見捨てられていた
格差が固定化されるというのは、富裕層と貧困層の超えられない一線ができるということである。人々は分離し、この両者は次第に違う文化を生きることになる。
暮らす場所も、食べる物も、通う学校も、遊ぶ場所も、付き合う人も、すべて違っていく。そして、この両者は互いに相手に無関心になり、話す言葉すらも違っていくようになる。
日本もそうなる。格差は固定化して、堕ちてしまった人は、社会から見捨てられていきるようになっていく。
2014年3月。私は10年ぶりにインドのコルカタに向かって、インドの貧困地区がどうなっているのかを確認しに行った。
その結果、どうだったのか。詳しくは今度の6月10日に出る『絶対貧困の光景』という本の中で書いたのだが、かつての貧困層は、インドの経済発展からものの見事に取り残されていたのだった。
コルカタは、確かに一部は経済発展していた。ところが、貧困層はまったく経済発展の恩恵に浴していなかったのだ。彼らは社会から無視され、相変わらず社会から見捨てられていた。
10年前、貧困の中で生きていた女性たちは今もまだまったく同じ状態で放置されていた。スラムは相変わらずスラムのままだった。
先進国と変わらないマンション、ショッピングモールができていて、富裕層がベンツを乗り回しているその横で、10年前に貧困層だった人たちは、まだ路上を這い回って生きていた。
(堕ちたら、這い上がれないのだ……)
そういった状況は私もよく知っていたはずだった。しかし、実際にそんな現状を目の前に突きつけられた時に感じたショックは、決して小さなものではなかった。
格差が固定化され、弱者が見捨てられ、貧困層が大量に増え続ける社会がどんなに悲惨な社会なのか、日本人はもっと真剣に考えるべきだ。
日本はそんな道を辿ろうとしているのである。
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