01. 2014年5月09日 09:50:47
: nJF6kGWndY
正規の女子は、大分恵まれているhttp://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20100324/213559/ 「遙なるコンシェルジュ「男の悩み 女の嘆き」」 富裕層にとって貧乏は“趣味”だ「現実の貧困」を今こそ見過ごしてはいけない 2014年5月9日(金) 遙 洋子 (ご相談をメールでお寄せください。アドレスはこちら) ご相談 働いても働いても、貧乏から抜け出すことができません…。(30代女性) 遙から 同時期に二つのまったく両極端の節約術番組を見た。ひとつは明るい節約術。これはボンビーガールに始まり、貧乏芸人の暮らしぶりもまた、狭い・汚い・貧しい食生活(カップラーメンだけなど)、を基盤にした明るい貧乏だ。本人の明るさとは別に、見る側の驚くリアクションの落差で番組がバラエティとして成立している。 なぜ本人が明るいかというと「もし将来芸人として売れたら」という未来がある。夢を前提とした現在の貧しさはとりあえず明るい。貧乏は、若さと未来と希望で悲壮さは相殺され、見る側にも「自分も若い頃はああだった」といった既視感すら覚えさせ、貧しいほどに応援したくなるポジティブさに着地して番組は終わる。一か八かで入った芸能界で、本人が選び取った覚悟の貧しさ、という点において暗さはない。 覚悟のビンボーか、避けられなかった貧困か それに比べ、「女性の貧困」を取り上げたドキュメンタリーは、上記同様、狭い・汚い・貧しい食生活でも明るさとはかけ離れている。深刻さと悲壮感、未来の見えなさに息詰まる。そもそも印象は編集次第だが、もっとも安い野菜のモヤシを炒めて食べ、まだ日の上がらない冬の朝に出かける姿に見ている側は打ちのめされる。 それは選び取った貧乏からのスタートではなく家庭の事情などでそうならざるを得なかった貧乏。缶詰一つとご飯だけの夕食。横になるのがやっとの狭さ。バイトでなんとか命は繋げられてもどこまでいってもバイトで、彼女たちはただ貧しく生きている。昼夜を問わずバイトし、なにかの資格を取ろうとする女性もいた。貧乏を生きる必死さ、今より一歩でも這い上がろうとする懸命さの映像の背後に映る、狭さ・汚さ・貧しい食生活に、明るさ楽しさ希望を私は感じることができなかった。一歩這い上がれても貧乏から抜け出られない社会構造がある。「女性の貧困」をテーマにするドキュメンタリーや社会学者が発信する警鐘はその構造自体を指摘し批判しているからだ。 そんな中、一見笑えるがやがて噴飯ものの節約芸能人の番組を見た。彼らは言う。「羞恥心を捨てればいくらでも安く生きられる」と。 事実、彼らはスーパーに買い物に行ってもモヤシは買わない。格安目玉商品をモヤシ以下の値段で買い、あるいは、「捨てる野菜ない?」「腐りかけの野菜ない?」と、結果、バリエーションに富んだ野菜を豊富に安価に購入する。値段を負けてもらうためには捨身で交渉もする。そこには逞しく生きる面白さがあり悲壮感や打ちのめされ感はない。ただひたすらに節約して生きるためにありとあらゆる労力を駆使する。ある時は情報量で、ある時は交渉術で、そこにかける時間を惜しまない。節約=生きる、になっている人生があった。私ならそこまで労力と時間をかけて数百円安くなるのなら、数百円払ってでも時間効率を優先して野菜が買いたい、と、思うのだが、彼らは違う。“安い”ことに全精力を投じられる価値観があった。 富裕芸能人が“捨てる野菜”で節約ってなんだ? 「なにもそこまで」というバカバカしさに番組は面白く見れる。なぜ悲壮感がないかというとこれもまた彼ら自身が選び取った節約術だからだ。だから「捨てるものください」と、スーパーがすでに捨てた野菜をタダで笑顔でもらえる。しかし…だ。彼らが選び取ったとはいえ、彼らはすでに物件をいくつも所有していたりブランドものに大枚を消費したりしている実は富裕層に当たる。そうなると同じ節約でも貧困のそれとはまったく違う。 情報量や交渉術がない女性が買う“モヤシ”ではなく、物件やブランドものを買えるほどに富を獲得した力で手に入れる“捨てる野菜”。富裕層のほうが深刻な貧乏を生きる女性より安い食費で豊かに生きる技を持つ。 これはなんだ。 富裕層にとって貧乏は“趣味”だ。収集癖にこだわり快楽を得るように、いかに安く生きられるかにこだわることで快楽を得ている。捨てる野菜は本来、最も貧しい人たちの手に渡るべきなのに、金持ちがちゃっかり手にしている。そう思うと面白さよりあきれた感が湧きあがった。「捨てる野菜ちょうだい」と言えるほどに逞しいから富を手にできたのだとも解釈できる。 笑って番組を見ている場合ではない。素直に愚直にモヤシばかりを食べている場合ではないぞ。本当の貧乏女子は。 ではなぜ、貧乏女子は「捨てる野菜ください」と言えないのだろうか。 「ごっこ」だから、羞恥心を捨てられる 本当に貧乏だからだ。富が「羞恥心を捨てられる」のであれば、その理由は「だって本当は金持ちだから」。そういう人には“羞恥心”という概念が成立しない。「捨てるものください」は遊びであり、貧乏ごっこ。継続できるのは“趣味”だからだ。 本気の貧乏女子は、最後の砦として羞恥心がある。誇りがある。お金がないから「捨てる野菜ください」を口にした途端、誇りすら失われる。最後の誇りがモヤシを選ばせているのだとしたら、金持ちのする貧乏ごっことはなんと、本当の貧しい人に対して失礼なことだろうか。捨てる野菜、腐りかけの野菜は、節約を楽しむ金持ちではなく、その日を生きる貧乏女子に行きわたるべきだ、と、こう書きながらも、この表現ですら貧乏女子には失礼な書きようだと自覚している。決して貧乏な人は捨てる野菜と腐りかけの野菜を食べればいいと言っているのではない。金持ちが遊び感覚でそれをするのが違う、と言っているのだ。 何かを持っている人ほど捨てられるものは、実は羞恥心であり誇りだ。学識者ほど無知なふりをできるし、それを楽しんだりできる。学歴が高い人ほどアホ扱いをできる。学校を出ていない人が聞く「この漢字はどう読むのですか」のハードルの高さは、豊かな家庭に生まれた結果、高学歴の人間がただ勉強しなかった自己責任で聞く「この漢字はどう読むの?」の平たんさとは明確に異なる。 「捨てる野菜をねだれる自分」の立ち位置に気づけ それを思えば、「捨てる野菜ないですか」は、深刻に貧乏な人にはできない芸当だ。「羞恥心を捨てればできる」? とんでもない。羞恥心を捨てられるほど富を得た自分にまず気づくべきだ。万人にできる技ではないし、金持ちならやってはいけない技だと思う。貧困の深刻化が顕在化している現在、そういう番組をやれるテレビ局の神経もどうかと思う。それならまだ「私、こんなに金持ち」を披露している芸能人のほうが、直球で夢を映像に乗せているぶん、罪がない。今の時代をちょっと考えれば、「こんなに金持ち」をまんま披露するセンスもいかがなものかと私なんかは思うが。 だが、考えてみれば、まっとうな人間なら芸能人にならない。まっとうではない。社会から逸脱した人間の職場として芸能界があると私は解釈している。「私のプライバシーを見て」という露出で収入を得る段階ですでに私にはまっとうに見えないからだ。プライバシーは、隠すからプライバシーというのではないか。 まっとうな視聴者に、逸脱した人間を笑いものにしてもらうのは視聴者&芸能界、として正しい構図だと思う。だが、それが、貧困に苦しむ人たちがドキュメンタリー化される現在で放送される、貧乏芸人の貧乏暮らしではなく金持ち芸能人の貧乏ごっこのプライバシーは笑えなかった。私にはただ、あさましく強欲に映った。でも、だから、芸能人なのかもしれない。 つくづく自分の職業が嫌になる瞬間だった。 スーパーは、芸能人に捨てる野菜を渡している場合ではない。「ください」が言えない本当に貧乏な人を救済してほしいがスーパーも慈善団体ではない以上、モヤシ一つでも購入してほしいはずだ。 解決法は個人の努力を超えて、政治にある。 ただテレビを見ていてわかるのは、貧乏には3種類ある。 「助けてください」は言う価値のある言葉だ 夢のために選び取った貧乏と、金持ちが遊び感覚でする貧乏と、未来も希望も選んでもいない貧乏。ひとつめはやるに足る貧乏。ふたつめは即刻自粛してほしい貧乏。みっつめは「ください」は言えなくても「助けてください」はせめて言うべきだ。芸能人が「捨てる野菜」というだけでそれが奥から出てくるのが人間。ならば、「助けてください」は言ってみる価値のある言葉だ。 私の親戚は学生対象のマンションを経営して長い。昔は「風邪ひいた、助けてほしい」と学生が大家に言いに来た。大家はおかゆを作って学生に運んだ。「ボタンはずれた」まで言いに来た。今。学生の親から「息子と連絡がつかない」と連絡が来て、部屋に行くと死んでいた。空っぽの冷蔵庫を見て警察が「餓死ですね」と言った。今の若者は貧困のまま黙って死ぬ。 なぜ「助けてくれ。死にそうだ」と1階にいる大家に助けを乞わなかったのか。「捨てる食べ物ください」は大家に言えないだろう。でも「助けてほしい」は、聞いたのが人情家なら手を差し伸べる。政治の変化を待っていてはいけない。黙って貧困に漂っていてもいけない。最後の誇りを捨てるのは難しかろう。だから最悪は「助けてくれ」を言ってほしい。情のある人材を確保しながら、虎視眈々と貧乏からの脱出を狙ってほしい。 このコラムについて 遙なるコンシェルジュ「男の悩み 女の嘆き」 働く女性の台頭で悩む男性管理職は少なくない。どう対応すればいいか――。働く男女の読者の皆様を対象に、職場での悩みやトラブルに答えていきたいと思う。 上司であれ客であれ、そこにいるのが人間である以上、なんらかの普遍性のある解決法があるはずだ。それを共に探ることで、新たな“仕事がスムーズにいくルール”を発展させていきたい。たくさんの皆さんの悩みをこちらでお待ちしています。 前シリーズは「男の勘違い、女のすれ違い」 http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20140507/264110/?ST=print
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