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2014年04月05日
今日この頃は、暇な時間に雑誌「世界3月号」を読んでいる。特集が“「脱成長」への構想”になっている。「世界」はリベラル誌なのだが、概ね妥当な世界の知識人の“本音”を取り上げることが多い。今回の「脱成長」の特集も、ローマクラブや国連の地球以上の問題認識と一致している。面白い点は、日本のマスメディアや経済各紙だけが、飛び抜けて異質な経済成長に現を抜かしている。これでは、世界の異端国家と陰口を叩かれても文句は言えない。
特集では、『拡大成長の呪縛をどう断ち切るか(対談形式)』、『脱成長時代の新しい発展パラダイム』、『人口減少下の経済』、『何のための負担増か』、『嘘で塗り固められたTPP・日米並行協議』、『アジア太平洋共同体の可能性』、『排他的ナショナリズムを越えて」等など読みごたえがある。暇に任せて読み進める類いの論考ではないので、付箋で雑誌が妙に膨らんでいる(笑)。
いずれにせよ、GDPの飽くなき追及など、まったくの時代遅れと云うか、“百害あって一利なし”は多少の知識や知恵や勘が働けば、判り切った理屈である。今後も経済成長させるしかない、と云う大音響の叫びは、“独活の大木”が、微風に吹かれ倒れてしまう寸前の僅かな軋みのようである。「外」への侵略や、「外」のものを奪うことで成長してきた資本主義が、自ら編み出したグローバル経済システムの副作用、「外」が存在しない世界を顕在化させた所為なのだから、皮肉の典型的姿である。早い話が、強欲マネーが天に唾した状況であり、まさに今、己の唾が天から落ちてこようとしているのだ。
そんな折、偶然の悪戯で誕生した安倍自民党政権が、必死で天に向かって唾を吐きかけているのだから、“日本昔ばなし”のデジャブなシーンを再現している。19世紀、20世紀の定番パラダイムを捨て去る勇気があるかないかで、今後の日本の命運は決定されるのだろう。現在の20世紀延長線上での価値観から脱落することは、敗北のように感じるか否かの問題である。つまり、価値観をガラッと変えることで、実際は見えてくる世界観は、驚くほど変わるもので、経済競争に汲々としていた我々は、何だったのだ、そう思えるのである。
筆者は、明治維新がすべての間違いの源と考えているので、先ずは、江戸時代に戻るイメージから、国家像を描こうと思っている。極論すると「鎖国的国家」と云うことになるが、鎖国国家が民主主義的手法で自由と平等、共助の国家を創ってはいけない、と誰にも言われる筋合いはない。大岡越前ではないが、牢屋を満員にして「俺たちの業績は斯くあり」と思うか、牢屋がガラガラで、牢の番人が居眠りしている状況の、どちらが人々にとって喜ばしいことか考えよ、と言っているが、そういうことである。
あまりにも、当たり前に続いていた近代化とか、欧米追随に慣れ過ぎた国家や国民が、知らずに嵌ってしまう“蟻地獄”のようなものだが、じっくり考え、マスメディアの言い分や著名知識人言説のすべてを疑い、自分で調べ、自分で心を籠めて考え、人はどう生きるべきか、そして国とは何なのか、その辺をじっくり考察していくと、そこに修行僧の悟りのようなものが見えてくる。考えると云うことは、坊主の修行のようなもので、自ら考え、感じることによって得られる悟りである。仏門に帰依するも、この世で生臭く生きても、自分の考えや、未来像や生きざまの実像など見えてくるものである。各々、その結果得られる結論は異なるだろうが、それが自立であり、その延長線上に共助がある。
ここ数日のメディア報道によると、自宅外通学の大学生らの仕送り額が、13年連続で減少し、過去最低額(89,000円)になったそうだ。まぁ、89,000円仕送りする方も大変だが、その額から家賃を差し引いた生活費も、かなりのやり繰り上手が求められるだろう。東京私大教連によると、一日の生活費は平均937円と云うのだから、かなりのプワーだ。過去最高は90年の2460円だったことを思うと、デフレ分を差し引いても、かなりの厳しさだ。ゆえに、アルバイトをすることになるわけだが、最近のアルバイトを雇う企業のコンセプトに、昔のように苦学生優遇の共同体共助度はないので、過激なアルバイトで心身をすり減らし、大学生であること自体が「従」になる傾向がある。将来の日本を担う若者世代が20歳前後で心身をすり減らす状況は国家にとってマイナスに作用するだろう。
自分たちが、蟻地獄に嵌っていることに薄々感じていても、世界は立ちどまる猶予を与えることはないので、経済界も国家も人々も、20世紀価値観の中で日常を送る。立ちどまり、自分だけ停滞してしまえば、個別のドロップアウトの評価が待ち受けているので、“判っちゃいるけど、やめられない”状況なのだろう。以下は、日経の記事だが“「青信号」待つ株式市場”と云うような記事を書くことになる。
≪ 「青信号」待つ株式市場
「雇用統計祭り」を夜に控え、4日の東京株式市場では積極的な売買が手控えられ、投資家の様子見姿勢が際立った。東証1部の売買代金は1兆5663 億円と活況の目安とされる2兆円を大きく下回り、昨年10月22日以来の低水準だった。
結局、日経平均株価は小幅下落で終わったが、市場関係者のムードは むしろ買いの「青信号」待ち。投資家心理の好転につながる3つの「買いサイン」が点灯すれば、足踏みの続いた相場は来週以降、「上昇局面に入る可能性が高い」(国内証券)と強気な声が多く聞かれた。
最大の「買いサイン」が点灯するかは、やはり米雇用統計次第だ。市場では、非農業部門雇用者数の伸びは前月比20万人程度と米景気の堅調さを裏付ける内容となるとの見方が多い。仮に予想通りの内容になれば、米景気に対する安心感が広がるとともに、米金利の上昇に伴う円安・ドル高が進むとの期待が市場にはある。
4日に買われた銘柄をみると、投資家がそのシナリオに従って先回り買いに動いた様子がうかがえる。例えば、海外の景気動向に敏感に反応する海運株。日本郵船(1.6%高)をはじめ、大手3社は軒並み上昇した。同じく景気敏感とされるブリヂストンも9日続伸。「北米での自動車販売が堅調なことに加え、中国などアジアでも好調が続くとの見方が多い」(いちよしアセットマネジメ ントの秋野充成執行役員)のが買い材料。
一方、自動車や電機などの主力株では利益確定売りの方が目立った。秋野氏は「米雇用統計は恐らくは堅調なのだろうが、実際の結果が出るまでは安心しきれないという心理が主力株を敬遠させ、海運など景気敏感株に向かわせたのでは」と、解説する。
投資家が点灯を待つもう一つの「買いサイン」は、株価の値動きなどから相場の過熱感などを読み取るテクニカル指標にある。今、市場関係者が注目しているの が「1万5100円〜1万5200円」近辺の水準を日経平均が上回ってくるかどうか、だ。この水準にテクニカル指標上の重要な節目が集中しているからだ。 現状では株価がこの水準に接近すると売られやすくなっているが、いったんここを抜ければ相場は上昇に弾みがつく可能性も高い。 4日の取引でもこの傾向が見られた。午前中に下落から上昇に転じた局面では、1万5100円に接近すると上昇幅が縮小。午後に入り再び下落に転じた が、これは「投資家が中期的な株価の傾向をみる上で重要な指標である75日移動平均(1万5093円)を意識している」(ちばぎんアセットマネジメントの 奥村義弘調査部長)ため。75日移動平均はいわば過去3カ月間の投資家の平均的な買いコストだ。同様に3月7日に付けた直近の高値である1万5274円 07銭も投資家が強く意識する水準だ。
いったんこの1万5100円〜1万5200円近辺のラインを抜けてくれば、今度は「相場の傾向が変わった表れ」(大和証券の木野内栄治チーフテクニカルアナリスト)との見方が強まる。米雇用統計が予想通り堅調な内容で買い安心感が広がれば、相場は本格 的な上昇基調に入る――そんなシナリオを描く市場関係者が増えている。
「買いサイン」のなかには既に点灯したものもある。「1〜3月の株式相場の軟調の原因だった、短期筋の外国人投資家の売りが一巡した」(ベイビュー・アセット・マネジメントの高松一郎運用第二部長)ことだ。
それを示すのが、3日に東京証券取引所が発表した3月第4週(24〜28日)の投資部門別株式売買動向。買越額は1311億円と小幅ながら、外国人が3週ぶりに買い越しに転じた。「海外の年金基金などが割安な日本株を買う姿勢が強まっている兆し」(岡三オンライン証券の伊藤嘉洋チーフストラテジスト)との 声が聞かれる。
ほぼ5カ月半ぶりの薄商いからは、投資家が固唾をのんで買いの「青信号」点灯を待っている姿が透けて見える。 ≫(日経新聞:証券部 川路洋助)
商売柄、日経が“良いこと探し”の記事を書くのは仕方のないことだが、20世紀の物差しで、ああだこうだと論じるのは無理なのかもしれない。米雇用統計次第、FOMC (連邦公開市場委員会)の結論次第等々の情報で、動きを解説している。100年以上変わらぬ基準で株式相場を占いのだが、概ね当たらない。アメリカだけで、NY市場が成立しているわけではない。まして、マネーは国境に関係なくグローバルに動き、投機筋の計画は、必ずしもマーケットの原則に則しているものでもないからだ。ただ、彼らも、続けていないと倒れるから、否応なしに、あいもかわらぬ手法で日々を重ねる。最近のウクライナ問題を眺めるだけでも、世界が20世紀とは異なる胎動期に入った感は否めない。
欧米価値観に立脚して観察すれば、日本人の生活は比較優位にあるだろう。限りなく欧米社会に近づいたように思えるが、あくまで表面的なものであり、日本人がアングロサクソンになることは、永遠にありえない。たしかに、“人類みな兄弟”の括りで行けば、人種や民族の違いを殊更に引っ張り出す意味はない。しかし、人口70万人の小国・ブータンが選んだ道は、“脱亜入欧”と異なる国家の発展アイデンティティ「国民総幸福」の概念を打ち出した。国連、「ミレニアム開発目標」やOECDの「ポスト成長期」、ローマクラブ発言など、総論は国も国家も、成長は規模の追求ではなく、質の向上だと判っているのだが、20世紀的生き方から、飛び出したのはブータンくらいのものである。
ただ、ブータンは小さいから実行可能なのであり、大きくなった経済や国家では、成長のアイデンティティを変えることなど、幻想だと云う言説が主流になる。しかし、ブータンの国王は、自ら政治に民主主義を取り入れ、政治を国民に委ねた。ブータンは、インド、ネパールなど隣接大国に呑み込まれるリスクに晒されていたことに起因するものだが、経済成長重視の価値観が、大国の餌食になり易い事を知っていたからの選択でもあった。山国で気位の高いブータン国民にとって、経済成長重視はそのアイデンティティを失うことになると判断したのである。実は日本にも言えることで、島国で気位高い日本は、ブータンのような小国ではなく大国なのだから、呑み込まれる心配はないと、明治維新時代の人々は考え、欧米列強国家の仲間入りをして、競うことになる。いまだに、その状況は継続中である。
それでは、欧米の社会が経済成長拡大主義だけで生きているのかと云うと、実は違うのだ。アメリカにだって、地域自治は根強くあるし、教会を通じたボランティアの精神はNPOなど、かなりの社会的ステータスを持ち、政治に物言える存在にまで成長している。EU諸国にも、皇室や貴族社会の傲慢さの中には、民を飢えさせてはならぬ、と云う何と説明すべきか不明確だが、矜持を有している。また、都市国家から大きくなった歴史があるので、想像以上に一般生活のサークルは、地域社会の中で起承転結が見られる。共同体が常に存在し、国家形成のバックボーンになっているのだ。この「コミュニティ経済」が近江商人の「売り手よし、買い手よし、世間よし」の伝統が成立する前提なのである。
ドイツにも「フェライン(協会)」と云う共同体があり、ドイツ国家のバックボーンになっている。当然、共同体自治意識は強烈だ。何の国家のバックボーンもなく、無暗に成長経済に突進したわけではなく、そういう行動に明け暮れても、社会が壊れない基礎があったことを示している。今でも、ドイツ人の社会は、ドイツ人である以上に、フェライン人である。どこどこ株式会社の何々よりも、薩摩の人間だとか、会津の人間です、と云う地域のアイデンティティが強固なのである。以上、ざざっと今日のテーマを考えてみたが、結局、日本って国は、明治維新を通して、封建制度を壊したことは善いとしても、地方自治まで一緒に壊し、中央集権に傾倒した時から、国民のアイデンティティを表面的欧米化に置きかえてしまった。そのことの是非を考えるのは、自立した個々人の権利であり、且つ義務でもあるのだろう。
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