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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42929
世界で最も食文化が進化し始めた福島 美味しさと安全の追求で新しい価値観が被災地から生まれつつある
2015年02月18日(Wed) 越智 小枝
震災から4年を迎えた福島では、「食の復興」へ向けての活動が徐々に軌道に乗り始めています。
美味しさを追求する「食べる」という文化と、家族の安心と幸せのための「食卓」の文化。この2つ文化に対する見直しと復興への試みが、福島に新たな食の文化への可能性を生んでいるようです。
食への誇り
「LVMH子どもアート・メゾン」、福島県相馬市に完成
相馬市の子供たちの心のケア、学力向上、情操教育、芸術活動の拠点を提供する目的で設立された「LVMH子どもアート・メゾン」(2014年7月完成)〔AFPBB News〕
相馬に移り住んで楽しいことは、何と言っても食べ物が美味しいことです。
相馬市が農大と協力して作った「そうま復興米」は、粘りがあって味が濃く、おかずなしでもいつまでも食べられてしまいます。秋にはスーパーで売っているリンゴの蜜の多さにも驚きました。
「震災前に東京の人に食べさせたら、蜜が多すぎて『これ、痛んでるよ』って言われたんだよね」
という笑い話にもうなずけます。スーパーに普通に並ぶ相馬山形屋の醤油や味噌も、日本一に輝いた逸品です。
また、福島県は都市の多くが城下町、ということもあり、素材だけでなく料理の文化も発達しているようです。
例えば北寄貝は現在北海道産なのですが、それでも地元の居酒屋で出される北寄貝の天ぷらは、関東から来る友人には大好評です。ある割烹で忘年会を行ったところ、京都からいらした先生が帰り際に「京都の一流店にもタメを張れる味」と太鼓判を押して下さったこともあります。
しかし、私たちが素直に料理をほめると、地元の方には悲しそうな顔をされることもままあります。
「震災の後はいろいろな物の味がめっきり落ちたよ・・・外から人が来てくれるようになったのはいいけど、震災前の本当に美味しい物を食べてほしかった」
先日一緒に食事をした相馬の方に言われたことです。以前はすべて地産であった魚や野菜の多くが他県からの「輸入物」になっている。だからこれは本来の「相馬の味」ではない。そのような、食に対する誇りを強く感じました。
食卓の崩壊
福島から被ばく牛連れ、農水省前で抗議
非営利団体「希望の牧場・ふくしま」によって農水省前に連れてこられた被曝牛(2014年6月20日)〔AFPBB News〕
原発事故により失われたのは、このような食材の文化だけではありません。家族が笑顔で食卓を囲む、という「食卓文化」もまた、壊滅的な被害を受けています。
福島県に限らず、里山の食卓分化は、数世帯が1つの食卓を囲むことです。避難生活により崩壊してしまった多世帯家族が、それでも一緒に食卓を囲む文化を取り戻したい。それを阻むのは、家族の中で放射能に対する心配度が異なる、という現状です。
「俺が地元産の物を食べたいって言うと、妻とけんかになるんだ」
「自分が作ったものを自分では食べるけど、孫には食べさせらんねえ」
家庭内での埋めきれない溝が伝わってきます。
今、福島では食の復興に対する2つの試みが見られます。大人たちによる「食べる」文化の復興と、お母さんや子供による「はかる」文化の浸透です。以下にこの2つの試みを紹介しようと思います。
里山の「食べる」文化
2月3日、伊達市の霊山町では、「放射性物質からの安全を確保したうえで、古来からある地域特産食品への『摂取制限値』を導入することを提案する地域シンポジウム」(1)というものが開かれました。
30人あまりの人々が参加され、食べたい人の「嗜好品」の制限値は、他人に食べさせる「流通品」の出荷制限値と別に設定するべきではないか、という議論がなされました。
これまで福島において、農産物には1キログラム当たり100ベクレル(Bq/kg)という出荷制限値が設定されています。実際のところ、出荷された野菜が100Bq/kgであることはまずありません。
「農家の人たちは真面目だから、制限値って言うとゼロを目指すんですよね」
ある人が言われたように、ほとんどの作物は測定感度以下となっているようです。これは除染だけでなく、土壌にカリウムをまくことでセシウムの吸収量を減らす、など、知恵を凝らした様々な試みがされているからです。
しかし里山の幸を食べたい方々にとっては、この制限値が大きな障害となっています。なぜなら地元の方に馴染み深い山草やきのこ、猪などはすべてこの基準値をはるかにオーバーするからです。
イノハナ(コウタケ)ご飯、猪鍋、タラの芽やフキノトウの天ぷら・・・地元の方々にとっては何にも代えがたい季節の楽しみです。里山の食文化が骨身にまで浸透されている方々にとって、
「皆が採らないおかげで腕くらいの太さの松茸が採れる」
という状況は山への冒涜にも近いもののようです。捕獲された猪が、線量が高いという理由でそのまま燃やされている(2)、という話には、シンポジウム参加者の間から怨嗟の声すら上がりました。
「命をいただいてもらえないなんて、殺された猪も浮かばれない」
そう真顔でおっしゃる方もいました。
里山の方々にとって、そこにある山の幸を食べてはいけない、ということは、アイデンティティに関わる重大事です。
消費者に安心してもらうこと、放射線から身を守ることはもちろん重要だけれども、自分たち摂取まで規制されたくない。生活や文化を守るとことは、健康という面でも、人生という面でも放射能以上に大切なのではないか――。
参加者の中ではそのようなご意見も多数聞かれました。
「合理的な範囲で可能な限り」
ICRP(International Commission on Radiological Protection=国際放射線防護委員会)による放射能汚染の規制の表現には「ALARA(As Low As Reasonably Achievable)の法則」という考え方があります。
これは、放射線被曝量を“As low as possible (可能な限り低く)”ではなく、“As low as reasonably achievable”(合理的な範囲でできる限り低く)するというものです。つまり、放射線を低くする利益と、その不利益を天秤にかけなくてはいけません。
例えばチェルノブイリの後ノルウェーではトナカイ肉の規制値を6000Bq/kgという比較的高い数値に設定したのも、トナカイ肉規制による食文化の崩壊や経済的損失を考慮したうえでのことだということです。
流通が発達し、地域外の産地の食物が手に入りやすい日本では、もちろん出荷制限がウクライナより厳しくなることは必至です。
しかし問題は、その線量測定が福島でしか行われていないこと、そして消費者のための「出荷制限」と食文化を守るための「摂取制限」が同列に扱われていることだと思います。
福島の食文化、その食文化に対する誇りを保つこと。摂取規制の天秤の反対側には、このようなアイデンティティが秤量されるべきだと思います。
「私たちの里山資源が『線量』という数値によってズタズタにされているんです」
地元の方のこの発言は、山海の豊かな恵みで生きてきた人々の叫びを代表しているのではないでしょうか。
母子が作る「はかる」文化
しかし、「地の物を食べたい」と喧伝することは、時に別の人たちを攻撃してしまうことにもなります。特に、不安を感じながら日常生活に最大限の注意を払って生きているお母さん方を精神的に追い詰めてしまう可能性があります。
「子供に食べさせたくないと言っている母親が悪いかのような印象を受ける」
今回のシンポジウムでも、そういうお母さん方からの意見も聞かれました。福島の食の復興には他の被災地にない難しさがあります。
奇しくも、霊山のシンポジウムと同時期に、そのようなお母さん方向けのシンポジウム、「ポジティブカフェ」に参加する機会がありました(3)。何も気にせず山の幸を食したい、という比較的高齢の方々とは逆に、徹底的に線量をはかる、ということをテーマにしたものです。
このシンポジウムでは実際にお子さんを持つ家庭での「陰膳調査」と「個人線量測定」の経験が話されました。
陰膳調査とは、いつもの食事を1食分余分に作り、数日分の陰膳の総線量を測るもの。個人線量測定は、日中の外部被曝線量の変動を分刻みで測定するものです。
ちなみに、陰膳調査は必ずしも「地の物を食べる」という前述の活動と相容れるものにはなりません。実際に陰膳の測定を発表されたお母さんが使われた食材は、必ずしも福島県産ではないからです。
「やっぱり母親は、災害の後に1回でも『検出した』っていうニュースが出たものは全部避けたいって思っちゃいますよ」
参加されたお母さんのおっしゃったことですが、これはお子さんの心配をされるお母さんの正直な感想だと思います。
むしろこの試みで大切なことは、子供の食を大切にする、という意識そのものなのではないか、と思います。
食文化は、食べるという行為だけにとどまりません。「測る」という行為を通じて、食の安全を意識する。安全な限り可能な範囲で、美味しい手料理を食べさせる。子供を思いながら測って作るという行為、その行為もまた食を大切にする文化につながると思います。
また、測るという行為は、「子供の安全のために何もできない」という無力感からお母さん方を救うすべにもなるかもしれません。発表者の1人が言われました。
「子育てしながらでも調べることができるということを伝えていきたい」
お母さん方の心配はまだまだ尽きない。それが本音だと思います。しかし、自分が測ることで、食卓に安心をもたらすことができる。それは多くのお母さんの励みになるのではないでしょうか。
新しい食の文化
食文化を守る。これは、東京で育った人間には想像もつかないほど大切な、福島のアイデンティティです。しかしだからと言って山菜やきのこ、猪を心配な母子に食べさせる必要は、必ずしもないと思います。
「フキノトウを食べられなくてがっかりする子供はいませんよ」
あるご年配の方が苦笑しながら言われたように、食文化を守るために子供に押しつける、という行為はむしろ家族が笑顔で食卓を囲む、という食卓文化を破壊する可能性すらあるからです。
食べることに対する誇りと、お母さんの安心。この2つがが両立するためには、お互いを排斥しないための十分な配慮が必要です。それこそが、各々の価値観に応じた「食べる」と「はかる」の両立なのではないでしょうか。
地の物を食す、という文化の回復を補填するように、測るという安心のための行為があります。この2つの混じり合うところに、新しい福島の食卓分化が芽生えようとしているのかもしれません。
そして次世代へ
測る文化が伝えるものは、食だけではありません。先述のポジティブカフェでは、高校生が自分たちの線量測定の結果を発表される、という場面がありました。
「世間ではいろいろ言われているけど、自分で測ってみるまで正解がない、っていうことをどう思いますか」
というファシリテーターの質問への回答です。
「最初は不安だったけど、今は『分からない』っていうのが普通になっています」
彼女自身は、おそらく自分の発言がどれだけ大きな可能性を示しているのかを自覚していなかったのではないかと思います。分からないが当たり前。だから自分で決める。それを意識することのできる高校生が、世の中にどれだけいるでしょうか。
分からない、だから測る。分からない、だから自分で考えて決断して食べる。そこには福島の人々の新しい知恵と思想が詰まっています。食という美味しい体験を通じ、このような知恵がいつか日本人皆の知恵として定着すればよいな、と思います。
(1)http://dr-urashima.jp/fukushima/index2.html
(2)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150205-00010001-agrinews-soci
(3)http://www.minyu-net.com/news/topic/150212/topic3.html
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