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特別寄稿 『福島第一原発事故 7つの謎』 事故から3年経ってなお次々に浮かび上がる謎 「1号機の冷却機能喪失は、なぜ見過ごされたのか?」 【前編】
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41681
2015年01月09日(金) NHKスペシャル『メルトダウン』取材班 現代ビジネス
吉田所長が生前に遺したとされる「謎の言葉」をめぐるミステリー(第3章)、知られざる放射能大量放出の謎(第4章)など、本書でしか読めないスクープ情報が満載されている。
福島第一原発事故から4年が経とうとしているが、事故原因の究明は遅々として進まず、いまだに多くの謎に包まれている。原子力発電所という巨大プラントの同時多発事故はきわめて専門性が高く、多くのメディアが事故の検証報道に及び腰だ。その中で、唯一、科学技術的な側面から事故を粘り強く検証してきたのが、NHKスペシャル『メルトダウン』取材班である。『メルトダウン』シリーズでは、これまで5本の番組が放映され、文化庁芸術祭テレビ・ドキュメンタリー部門大賞を受賞するなど、内外で高く評価されてきた。2015年1月16日、約3年半にわたる同取材班の調査報道をまとめた『福島第一原発事故 7つの謎』が講談社現代新書より刊行される。事故対応にあたった東電社員や原子力工学の研究者などのべ500人を取材し、極秘扱いの東電内部資料を駆使した独自取材はまさに圧巻だ。同書の刊行を記念して、「第1章 1号機の冷却機能喪失は、なぜ見逃されたのか?」を2回にわたって掲載する。
■吉田調書の波紋
東京電力・福島第一原発の事故から3年半が経った2014年9月11日。事故対応の指揮をとった吉田昌郎元所長が政府の事故調査・検証委員会の聴き取りに答えた記録、いわゆる吉田調書が公開された。吉田調書を巡っては、この4ヵ月前の5月、朝日新聞が、全文を入手したと報じ、大きな話題を集めていた。1面トップで、2号機が危機に陥った時に9割の所員が吉田所長の命令に違反して福島第二原発に撤退していたと伝えたのだ。調書の中で、吉田所長が「本当は私、2F(福島第二原発)に行けと言っていないんですよ」と証言していたのがその根拠だった。ところが、その後、新聞、通信各社も吉田調書を入手。朝日新聞が引用した証言の直後に吉田所長が「よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思った」と語っていることを明らかにし、記事は誤りだと指摘。議論を呼んでいた。
吉田調書が公開された日の夜、朝日新聞は木村伊量社長らが緊急会見し、命令違反で撤退したとする記事を取り消すと発表。世紀のスクープとして放った特ダネは、4ヵ月後、一転して痛恨の誤報となってしまったのだ。
吉田調書公開の1ヵ月近く前、私たちNHK取材班も独自のルートで、その全文を入手していた。
『福島第一原発事故 7つの謎』は、ほぼ時系列に沿って、章立てしている。1章から読んで頂ければ、事故の進展に従ってその全体像が理解できるように構成している。それぞれの章は一つのテーマを巡って一話完結といったおもむきになっている。
「人間は核を制御できるのか」、その根源的な問いに迫るため、取材班は3年以上にわたって、事故対応にあたった運転員や幹部など500人以上にのぼる関係者から直接話を聞き、事故の検証取材にあたってきた。
「事故はなぜ拡大したのか」「本当に防ぐことはできなかったのか」。吉田調書は、その謎を解くための新たな重要資料だった。調書はおよそ400枚。28時間におよぶ聴取に対して、吉田は、事故に関わった政治家や専門家を、時に「あのおっさん」と呼び、開けっぴろげで歯に衣を着せない口調で、事故にどう対応し、何を考えていたのかを語っていた。
取材班は朝日新聞の報道で議論になっていた撤退問題の真相を解明するとともに、事故の初動、特に最初にメルトダウンした1号機に吉田がどう対応し、何を考えていたのかを読み解く作業にとりかかった。
福島第一原発の事故は、メルトダウンした1号機が水素爆発を起こすことで、収束作業が後退し、その後3号機の水素爆発、2号機の放射性物質の大量放出へと連鎖的に悪化していく。逆に言えば、1号機のメルトダウンをなんとか防げば、その後の展開は大きく変わったと言える。1号機の対応こそ事故の進展を決める重要なポイントだった。
原子炉を冷却するIC(非常用復水器、運転員は「イソコン」と呼ぶ)の構造。MOは電動弁を表す(東京電力報告書より)
その鍵を握っていたのが1号機の非常用の冷却装置、IC(非常用復水器)への対応だった。ICは、電源が無くても蒸気で動いて原子炉を冷やす非常用の装置である。吉田以下免震棟の幹部は、津波で電源が失われた1号機は冷却装置が動かなくなったが、ICだけは、機能が維持されていると考えて、事故対応にあたっていた。ところが、後の政府事故調や東京電力の調査で、1号機のICは、津波の直後から動いていなかったことが判明する。実は、ICの弁は、電源が失われると自動的に閉じる構造になっていたのだ。これは、電源が失われるなど何らかの異常があった時、原発内部から放射性物質が外部に漏れ出ないよう配管の弁を自動的に閉じるフェールクローズと呼ばれる安全設計に基づくものだった。安全設計による停止なら、なぜ、当初からICは止まっている可能性があると、吉田をはじめとする原発のプロ集団が思い至らなかったのだろうか。そもそもこの安全設計の仕組みは、どれほど知られていたのか。取材班にとっては、長い間謎の一つだった。
入手した吉田調書には、取材班と全く同じ問題意識で、吉田に対して「東電の原子力に携わる人は、この安全設計の仕組みをどのくらい知っていたのか」と問う場面が記されていた。
これに対して、吉田はこう答えている。
福島第一原発1号機の中央制御室。事故当時は照明や操作盤の電光表示も全て消えた状態だった 写真:東京電力
「基本的に、ICに関して言うと、1、2号の当直員(運転員)以外はほとんどわからないと思います。(中略)ICというのはものすごく特殊なシステムで、はっきり言って、私もよくわかりません」。そして本店からも全くアドバイスはなかったと明言している。ICについて、吉田をはじめとする免震棟や本店の幹部たちは、決して十分な知識を持っていたとは言い難い状態だったのである。
吉田が、ICの機能停止に気がつくのは、1号機の格納容器圧力の異常上昇が判明する11日午後11時50分のことだった。津波による電源喪失から8時間あまり、吉田たちは、ICは動いていると思い込み、対応を続けていく。このことが、その後の事故対応を困難にさせていったことは否めない。
ICが動いていないことに早期に気がつくことはできなかったのか。実は、取材班の3年間にわたる検証取材と吉田調書の読み解きから、この8時間に、ICが動いていないことに気がつくチャンスが、少なくとも4回あったことが浮かび上がってきた。なぜ、チャンスは見過ごされたのか。1章では、この謎を解き明かし、その深層に何があるのかを探っていく。
■その時、中央制御室
2011年3月11日午後2時46分。すさまじい震動が福島第一原発を襲った。
「ゴー」という不気味な大音響があたり一帯に響き渡り、大地は激しく波打った。原発の運転操作を行う中央制御室も強烈な上下動に襲われた。この日、1、2号機の中央制御室では、52歳の当直長をトップに、総勢14人の運転員が操作にあたっていた。まるで暴風雨の海に浮かぶ小舟に乗っているかのように、上下左右に揺れ動く室内で、何人もの運転員が立てなくなり、床にしゃがみこんだ。何人かは、操作盤に取り付けられたレバーを握りしめてかろうじて身体を支えていた。レバーは、4年前に新潟県中越沖地震に襲われた柏崎刈羽原発の教訓をもとに設置されたものだった。運転員の一人は、次のように述懐している。
「今まで経験したことのない長い揺れでした。揺れがあまりに長くてレバーを握っていても立てなくなり、座り込んでしまいました。これまでと全く規模の違う地震でした」
1、2号機中央制御室の位置:福島第一原発では隣り合う原子炉を1つの中央制御室でコントロールしている。中央制御室は隣接する原子炉の中間にある。原子炉と中央制御室の距離はわずかに50メートル CG:NHKスペシャル『メルトダウンV 原子炉冷却≠フ死角』
東日本大震災発生直後の1、2号機の中央制御室 写真:NHKスペシャル『メルトダウンV 原子炉冷却≠フ死角』の再現ドラマより
揺れが続く中央制御室に、当直長の大きな声が響いた。「スクラムを確認しろ!」
スクラムとは、原子炉の核分裂反応を止めるため制御棒と呼ばれる装置を原子炉に挿入することである。大きな地震を感知した原発は、自動的にスクラムをする設定になっている。
揺れがようやくおさまった。室内には、土埃を感知した火災報知器や計器の異常を示す警報がけたたましく鳴り響いていた。正面にある原子炉の様子を示す蜂の巣状のデザインのパネルが、全て赤く点灯していた。赤は制御棒が原子炉の中に入っていることを示す色だった。スクラムが成功し、原子炉は止まったのだ。安堵の空気が流れた。しかし、それもつかの間だった。運転員の一人が叫んだ。「外部電源が喪失しています!」
外部の電源が失われたのだ。誰もが初めての経験だった。再び緊張が走る。
「非常用DG確認して!」すかさず当直長の指示が飛んだ。
DGとは非常用のディーゼル発電機を意味する。まもなく運転員が声をあげた。「非常用DG起動! A・Bとも起動中」A系、B系と2系統ある非常用のディーゼル発電機が動き始めた。室内に重低音の震動が伝わってきた。いったん失いかけた電気を原発内で作り出すことに成功したのだ。
運転員の一人は、こう振り返っている。
「この時、まだ警報はいっぱい鳴っていました。しかし、スクラムに成功して、電気を確保できれば、後はマニュアルに従って、設備の状態を点検していけばいいのです。それほど難しい操作とは思っていませんでした」
当直長以下、運転員が次に目指すべきは、原子炉の冷温停止だった。スクラムに成功して核分裂反応が止まっても原子炉の温度は、およそ300度の高温状態にある。温度を徐々に下げて100度以下にするのが冷温停止である。炉内の水の沸騰を収め、原子炉の状態を安定に保つためだ。そのために必要だったのが、IC・非常用復水器と呼ばれる非常用の冷却装置だった。ICは、原子炉から出た蒸気を原子炉建屋4階にある冷却水タンクに導き、タンクの中の細い配管を通すことで蒸気を冷やして水に戻す仕組みになっている。その水が原子炉に注がれると、原子炉は徐々に冷やされていく。地震から6分たった午後2時52分。1号機のICが自動起動した。
原子炉の温度は、ゆっくりと下がり始めた。張り詰めていた中央制御室の空気が緩んだ。
スクラムによる原子炉停止から、およそ40分後。300度だった原子炉の温度は、180度程度まで下がっていた。原子炉は順調に冷却されていた。当直長は、このまま冷温停止に持って行けると感じていた。
■全電源喪失! 暗闇の中央制御室
地震発生から51分後の午後3時37分。福島第一原発1、2号機の中央制御室に異変が起きた。
モスグリーンのパネルに、赤や緑のランプが点灯する計器盤が瞬き始め、1ヵ所、また1ヵ所と消え始めたのだ。天井パネルの照明も消えていった。
当直副長の「どうした!?」という問いかけに、運転員は「わかりません。電源系に不具合なのか」と答えるのがやっとだった。
向かって右側に位置する1号機の計器盤がパタパタと消えていった。天井の照明も時間を置いてひとつ、またひとつと消えていった。左側に位置する2号機の計器盤や照明はしばらくは点灯したままだった。しかし、4分後の午後3時41分。2号機側も真っ暗になった。
それまで鳴っていた計器類の警報も全て消えて、中央制御室は、静まり返った。1号機側の非常灯だけが、ぼんやりとした黄色い照明を灯している以外は、暗闇に包まれた。実に4分の間に、中央制御室は、1号機側から2号機側へと、ゆっくりと電気が消えていったのである。
運転員の一人は、こう語る。
「何が起きたのかまったくわかりませんでした。目の前で起こっていることが本当に現実なのかと思いました」
別の運転員は、電気が消えていくのに時間差があったことを覚えていた。
「自分は、1号機の電源はだめだが、2号機は生きていて大丈夫だ。だから2号機の非常用発電機の電源をもらおうかと、頭の中で考えていました。ところが、その後、2号機側も消えたのです。最終的になぜか1号機は非常灯が点灯していたが、2号機のほうは真っ暗でした」
暗闇に包まれた中央制御室に、当直長の「SBO!」と叫ぶ声が響いた。ホットラインを通じて、免震棟の発電班に「SBO。DGトリップ。非常用発電機が落ちました」と伝えた。SBO=Station Black Out、ステーション・ブラック・アウト。福島第一原発が15メートルの津波に襲われ、全ての交流電源が失われた瞬間だった。
■冷却措置を巡る判断ミス
電源喪失から10分経った午後3時50分。暗闇に包まれた中央制御室では、運転員たちが、灯りになるものを必死で探していた。LEDライトの懐中電灯や携帯用バッテリーつきの照明機器。30個は見つかっただろうか。かき集められた灯りを頼りに、当直長らは、真っ先にシビアアクシデントと呼ばれる過酷事故の対応が書かれてあるマニュアルのページを手繰った。
しかし、どこをめくっても全ての電源を失った緊急事態の対応は記されていなかった。東京電力の緊急対応のマニュアルは、中央制御室の計器盤を見ることができ、制御盤で原発の操作が可能なことを前提に記載されていた。すでに事態は、マニュアルや、これまで積み重ねてきた訓練をはるかにこえた未知の領域に入っていたのだ。
重要な計器盤もまったく見えなくなった。原子炉の水位や温度といった原発の状態を把握するための数値や原発を動かすさまざまな装置の作動状況を知るための数値がすべて消えたままだ。目隠しをして車を運転しろと言われたようなものだった。
運転員の一人は、取材に「今回の事故で最も衝撃を受けた瞬間は、非常用発電機が使えなくなったときだ」と打ち明けている。「これで何もできなくなった。やれることは、もうほとんどないという思いを持った」と語っている。
非常用の冷却装置の動きも一切わからなくなった。
1号機の非常用の冷却装置のICは、蒸気の力で動く。いったん起動すれば、電気がなくても、原子炉建屋4階にある冷却水タンクを通って冷やされた水が原子炉に注がれ、原子炉を冷やし続けるはずだった。しかし、ICを起動したかどうかを示す計器盤のランプが消えてしまい、作動状況がまったくわからなくなってしまった。
ICの操作盤のレバーは、操作した後、手を離すと、必ず中央の位置に戻るようになっている。弁が開いている場合は、赤いランプが点灯し、閉じている場合は、緑のランプが点灯する。レバーは、何度も操作するので、弁が閉じているか開いているかは、点灯しているランプの色で判断している。そのランプが消えてしまった今、弁が開いているのか、閉じているのかがわからなくなってしまったのだ。
ICの作動状況がわからない。このことに中央制御室は、この後大きく翻弄されていく。
■錯綜する免震棟
IC(非 常用復水器)の仕組み:原子炉で発生した高温の水蒸気が流れる配管が、ICの胴部にある冷却水で冷やされることで水に戻り、原子炉の冷却に用いられる。 ICは電源がなくとも原子炉を冷やすことができる CG:NHKスペシャル『メルトダウンV 原子炉冷却≠フ死角』
中央制御室から北西350メートルにある免震棟にも衝撃が広がっていた。全電源喪失の一報を受けたのは、中央制御室からのホットラインの電話を受ける発電班の副班長だった。1号機の当直長を経験したこともある50代のベテラン幹部で、1号機の運転操作を熟知していた。副班長は、この時、反射的に「もう、いつもの事故対応のマニュアルは使えない」と思ったという。「どうすればいいのか」。途方に暮れる思いだった。全電源喪失の一報は、免震棟中央の円卓に座る発電班長を通して、円卓中央に陣取る所長の吉田にも伝えられた。
RCIC の仕組み:原子炉隔離時冷却系と呼ばれるRCICは、原子炉で発生した蒸気でタービン(左)を回して、ポンプ(右)を動かし、冷却水を原子炉に戻す。起動 時には電源が必要だが、いったん起動すれば電源がなくても動く。ただし、電源を使って蒸気の量をコントロールするので、電源喪失時に正常に駆動する保証は ない CG:NHKスペシャル『メルトダウンV 原子炉冷却≠フ死角』
吉田調書の中で、この時の思いを吉田は「これはもう大変なことになった」と吐露している。そのうえで「アイソレーションコンデンサー(IC)とか、RCICがあれば、とりあえず数時間の時間幅は冷却ができるけれども、次はどうするんだということが頭の中でぐるぐる回っていた」と答えている。RCICとは、2号機から6号機にある非常用の冷却装置である。原子炉隔離時冷却系と呼ばれ、原子炉から発生する蒸気を利用して、原子炉建屋地下にあるタービン駆動ポンプを動かして、タービン建屋にあるタンクの水を原子炉に注水するシステムである。起動さえすれば、電源がなくても蒸気の力で動き続けることが可能だった。
吉田は、全電源喪失になっても、ICやRCICによって、しばらくは原子炉を冷却できると思っていたのである。
免震棟に、3号機は、バッテリーが生きていて、計器は見えているという連絡が届いた。RCICも動いていることが確認された。3号機は、地下1階と1階の間にある中地下室にバッテリーが設置されていたため、津波の被害を免れたのだった。これに対して、2号機は、計器がまったく見えないという報告だった。電源が失われる直前にRCICを手動で起動させたという連絡は受けていた。
しかし、現在、原子炉の水位も見えないことから、RCICの起動に成功したのかどうか、不明だった。2号機のRCICは動いているかどうか、わからない状態だった。
残る1号機。この時点で、吉田ら免震棟の幹部は、1号機のICは動いていると考えていた。津波が来る前に、自動的に起動したという報告を受けていることが理由だった。中央制御室とホットラインでやりとりしていた発電班の副班長もICは動いているだろうと思っていた。
副班長は「ICは、静的機器ともいわれ、バッテリーで回転するモーターなども必要なく、非常時には有効な冷却装置だと思っていた。私も含めてみんなICが動いてくれればいいなという状態だった」と話している。
ICは、動いている。免震棟のこの思い込みが、その後の事故対応に大きな影響を与えていくことになる。
■失われた最初のチャンス
全電源喪失から1時間が経った午後4時41分。暗闇に包まれた1、2号機の中央制御室に大きな変化が起きた。
運転員の一人が声をあげる。
「水位計が見えました」
柏崎刈羽原子力発電所にある水位計。福島第一原発でもこれと同じタイプの水位計があった。 写真:NHKスペシャル『メルトダウンT ~福島第一原発 あのとき何が~』
消えていた1号機の原子炉水位計が見えるようになったのだ。津波の海水をかぶったバッテリーの一部が一時的に復活したようだった。
原子炉水位は、燃料の先端から2メートル50センチ上の位置にあることを示していた。津波が来る前、水位は、燃料の先端から4メートル40センチの位置にあった。1時間に1メートル90センチも低くなったことになる。水位は、その後も刻一刻と下がっていた。
運転員は、水位計の脇の盤面に、手書きで時間と水位を記録していった。そして、ホットラインを通じて免震棟へと報告した。
午後4時56分、水位は燃料先端から1メートル90センチの位置まで下がった。そして、午後5時すぎ、水位計は再び見えなくなってしまった。水位計が見えていたおよそ15分間に、水位は60センチも下がったことになる。これは、ICが動いていない可能性があることを示す重要な情報だった。
免震棟では、発電班の副班長が刻々と下がる原子炉水位の報告を受けていた。この情報は、すぐに技術班に伝えられ、このまま原子炉水位が低下するといつ燃料の先端に到達するか計算された。その予測は、このまま水位が低下すると、1時間後の午後6時15分には、燃料の先端に到達するというものだった。
午後5時15分、免震棟と本店を結ぶテレビ会議で、マイクをとった技術班の担当者の声が響いた。
「1号機水位低下、現在のまま低下していくとTAF(燃料先端)まで1時間!」
1号機の原子炉水位が燃料の先端まで到達するのに、あと1時間の猶予しかない。衝撃的な予測だった。ICが動いているかどうかを見極めなければならない重要な警告だった。
吉田調書では、政府事故調の調査官がこの時の経緯を取り上げ、「TAFまで1時間」という発言をどう受け止めたのか吉田に尋ねている。
これに対して、吉田の答えは、意外にも「聞いていない」だった。それどころか、こう証言している。「今の水位の話も、誰がそんな計算したのか知らないけれども、本部の中で発話していないと思いますよ」
調査官が、当時の情報班のメモを示しながら説明した段階で、ようやく吉田は「発話しているんでしょうね」という認識を示すが、「今、おっしゃった情報班の話は、私のそのときの記憶から欠落している。何で欠落しているのか、本店といろいろやっていた際に発話されているのか。逆に言うと、こんなことは班長がもっと強く言うべきですね」と述べている。
ICの機能停止に気がつく最初のチャンスであった重要な警告は、なぜ吉田の記憶から欠落したのか。
取材班が入手した情報班のメモに、その手がかりが記されていた。メモには「TAFまで1時間!」という発言の後に、間断なく様々な担当者がマイクで発言する様子が記されていた。
「事務本館入室禁止!」
「海側バス乗り場まで、海水が来ているため、応援にいけない」
「4号機裏、軽油タンク火災の疑い。煙が5メートルほど昇っている」
「東京から高圧電源車が来るが、何時間ぐらいかかるか確認してください」
巨大地震と巨大津波の被害が、原発の至る所で勃発していた。免震棟には、対応すべきことが次から次に押し寄せていたのだ。免震棟には、1号機から6号機まで、確認すべきことや問い合わせのコールが交錯していた。
取材に対し、中央制御室との連絡役を務めていた発電班の副班長は、こう答えている。「重要な情報が集まってくる。それを現場の指揮者の所長にしっかり把握してもらわなければならないということで、マイクの空きを各班が待つような状態だった。あれだけ大きなことが一度に起きると、みんなで共有することが非常に厳しかった」
さらに免震棟が行わなければならないことは、原子炉の対応だけではなかった。地震発生から、構内にいる社員と協力企業のすべての作業員の安否確認にも手間がかかっていた。この日は6350人もの人が働いていた。吉田らは、協力企業から入ってくる安否の情報を気にしながら、原子炉の初動対応にもあたっていた。メモには、「発電所から帰ろうとしている車、時速10キロで流れている」という発言もあった。
原子炉の冷却作業に携わる可能性のない社員や作業員、5000人あまりはバスやマイカーで原発を後にした。構内は、2キロにわたって車が数珠つなぎになっていたのである。
1号機の水位低下の情報は、洪水のように押し寄せる他の報告の中に埋もれてしまった。入り乱れる情報の中で、活かされることなく、共有されることなく、免震棟の幹部の頭の中からいつの間にか消え去ってしまった。ICが動いていないことに気がつく最初のチャンスは、こうして失われてしまったのだ。
■ブタの鼻からの蒸気
午後4時44分、ICが動いていないことに気がつく次のチャンスが訪れた。1、2号機の中央制御室の当直長に、ホットラインを通じて免震棟から報告が届いた。
「ブタの鼻から蒸気が出ている? 了解!」
1 号機原子炉建屋の西側の壁、高さ20メートルのところにあるIC排気管。通称「ブタの鼻」と呼ばれる。福島第一原発のICはおよそ40年間一度も稼働した ことがなく、事故当時の福島第一原発には排気管からの蒸気を見たことがある運転員は一人もいなかった 写真:東京電力
当直長が、そう復唱した。ブタの鼻とは、1号機の原子炉建屋の西側の壁、高さ20メートルのところにある2つの排気管のことだった。ICが動くと、ICから発生した蒸気を外に排出する役割をもっていた。
実は、当直長は、電源が失われ、ICが動いているかどうかわからなくなった後、免震棟に、ブタの鼻から蒸気が出ているか確認してほしいと依頼していた。運転員の先輩から、ICが作動すると、ブタの鼻から白い蒸気が勢いよく出るという話を伝え聞いていたからである。1号機の西側の壁は、中央制御室のある建屋からは見えにくい位置にあったが、1号機の北西にある免震棟からは、よく見える位置にあった。
依頼を受けて、免震棟にいた発電班の社員が、免震棟の駐車場に出て、1号機の原子炉建屋のブタの鼻から蒸気が出ているのを確認した。ブタの鼻から蒸気が出ているということは、ICが動いていることを意味した。免震棟は、ICが動いていると受け止めた。
しかし、ブタの鼻を見に行った発電班の社員の報告は、「蒸気がもやもやと出ている」というものだった。もやもやという蒸気の状態が、何を意味するのか。この時、福島第一原発の所員たちは、正確に判断できたのだろうか。
その疑問の鍵を解く記述が吉田調書の中に記されている。
実は、吉田は、1971年に福島第一原発1号機が稼働してからICが実際に動いたのは、今回が初めてだと証言している。そのうえで、ICが動いた時にどういう挙動を示すかということに、「十分な知見がない」と打ち明けている。この時、福島第一原発にいる誰一人として、実際にICが動いたところを見た者はいなかったのである。1号機は運転開始直後を除いて40年間、ICのような非常用の冷却装置を使う事故は起きていなかった。さらに、ICを試験的に動かすことも、運転開始前の試運転の期間に行われた程度で、その後、行われていなかった。ICは40年間一度も動いていなかったのである。
ICが動くと、実際は、どのような蒸気が噴き出すのか。アメリカには、福島第一原発と同じころに作られ、ICを備えた原発が今も稼働している。アメリカ東海岸にあるニューヨーク州のナイン・マイル・ポイント原子力発電所もその一つだ。この原発では、福島第一原発とは異なり、定期的にICの起動試験を行っていた。ICが正常に作動するかどうかを確認するためだった。ナイン・マイル・ポイント原発の幹部グレッグ・ピットは、運転員なら誰でも、ICが動いた時の蒸気の状態を知っていると説明した。ピットは、「大量の水蒸気が出て、うるさいどころか轟音がする。心の準備ができていないと、びっくりするほどだ」と証言した。
2010年の起動試験の時に撮影された写真には、もやもやどころか、原子炉建屋全体を覆い尽くすほどの大量の蒸気が出ている様子が写っていた。では、もやもやとした蒸気は、何を意味するのか。
取材に対し、ピットは「もやもやとした蒸気は、ICが停止してから2~3時間の間に出る蒸気の状態だ」と明言した。もやもやとした蒸気とは、ICが止まっていることを意味していたのだ。1号機の当直長の経験もあり、福島第一原発を古くから知る発電班の副班長は、こう振り返っている。
「過去、私も、ICが実際に動いている状態を見た経験はありませんから、多少なりとも蒸気が出ていたので、もしかすると動いているかもしれないと考えてしまった。止まっているという確信を誰もあげていなかったし、所長クラスに、しっかり判断できる材料を誰も進んで言えなかったということだと思います」
ブタの鼻から出ていたもやもやとした蒸気こそ、ICが止まっていることに気がつく大きなチャンスだった。しかしチャンスはまたも失われてしまったのだ。(「後編」に続く)
NHK科学文化部記者、番組プロデューサー、ディレクターら6人が執筆を分担した。「福島第一原発事故」が極めて深刻な状態だったことがどの章を読んでもよく理解できる
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