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「もう戻れないと言ってくれ」〜浪江町民が語る「帰還」「再稼働」「総選挙」
http://no-border.co.jp/archives/29227/
2014年11月30日(日)【鈴木 博喜】 NO BORDER
住民の想いとは裏腹に進められる帰還政策。変わらぬ避難生活の中で遠のく政治。理解できぬ原発再稼働─。29日から始まった「復興なみえ町 十日市祭」の会場で、町民の方々に「帰還」や「原発再稼働」、「総選挙」について語ってもらった。そこでは望郷の想いと政治への怒り、あきらめが複雑に交錯する。「国がもう帰れないと言ってくれれば良いんだ」。
【「町ごと移転していれば…」】
「国が『もう浪江町には戻れません』と言い切ってくれた方が踏ん切りがつく。あいまいなまま3年8カ月が過ぎてしまいました」
浪江町に伝わる伝統芸能「請戸の田植踊」を披露した女子高生(16)は言った。震災時、請戸小学校の6年生。卒業式を一週間後に控えたあの日、未曽有の大津波で自宅は全壊した。今年3月、避難先の郡山市から初めて請戸地区を訪れたが、かつて海を眺めた自宅は土台だけになり、雑草が生い茂っていた。手元に残ったのは数枚の写真のみ。ほぼすべての物が波にさらわれてしまった。「将来、浪江に戻ったところで仕事があるでしょうか。もし結婚して子どもが生まれても、周囲に子どもたちがいるでしょうか。現実問題として、戻れるわけがないですよね」。
請戸小4年生の時、田植踊の一員に加わった。安波祭で神楽やみこしと共に披露するのが楽しかった。だが、神社の社務所に保管されていた衣装や太鼓は津波に流され、太鼓だけが後に見つかった。本来は6年生で卒業≠セが、声がかかると2011年夏から再び活動に参加した。以来、明治神宮や出雲大社での奉納など、すべての公演に参加している。「震災後、皆勤賞は私だけなんですよ」と笑顔で話す。
母親の実家がある郡山市に避難して3年。当初は側溝に近づかないなど放射線に気をつけていたが、最近ではほとんど意識しなくなったという。「だって、気にしていたら福島では生活できませんよ。何もできません。汚染も被曝の危険性も事実だとは思いますけど…」。
「原発事故がなかったら、今でも請戸で踊れました。原発のおかげで、浪江ほどバラバラにされてしまった町はないでしょう。町ごと移転させてくれたら良かったのに」。踊り子の減少は深刻で、この日もギリギリの人数でなんとか披露できた。将来は踊りの師匠のような立場になるのが夢だが「自分が50歳になった時に、田植踊があるかどうか」と本音ものぞかせた。
当面の目標は大学進学。心理学を学びたいという。「どうせ県外の大学に進学するなら、思い切って京都とかに行きたいな」。
震災後に生まれた3歳児も加わって披露された「請戸の田植踊」。参加した高校生は「もう戻れないと国に言われた方が踏ん切りがつく」と語った
権現堂地区を再現した模型を見る浪江町民。「ここは○○さんの家だよね」となつかしんだ
【理解できぬ原発再稼働】
佐藤雄平氏は福島県知事時代、私の質問に気色ばんで答えた。「浪江町民が故郷へ戻れるかって?戻れるように一生懸命に取り組んでいるんじゃないか」。しかし、当の住民たちの想いは逆だ。「年寄りだけ戻ったって、若いもんが帰らなきゃしょうがないよ。ウチの仮設では、誰も帰れるなんて思ってやしないよ」。二本松市内の仮設住宅で暮らす男性(67)は話す。「総選挙どころじゃないよ。ふざけるなと言いたい。土地をすべて買い上げて、新しい土地での生活再建ができるようにしてほしいよ。俺たちが何をしたって言うんだ。浪江に戻した、という実績だけとりあえず作って、俺たちが死ぬのを待っているんじゃないか?」。
別の男性(64)は長年、福島第一原発で働いてきた。「『絶対に事故は起きない』という中で俺たちは働いてきた。それがあの事故。俺は中の構造をよく覚えているが、制御なんて出来てはしないよ。使用済み核燃料だって山のようにある。どうしてそんな状況で川内原発を再稼働しようとしているのか?」。少しでも働こうと避難先のハローワークを訪れたところ「あなたは賠償金をもらっている。こちらの住民の雇用が優先だ」と断られたという。「じゃあ浪江に戻って働く?何の仕事があるんだ?政治家が仮設住宅を訪れるのは選挙の時だけ。遠くの人々の方がよほど心配してくれるよ。東電も以前のような丁重な姿勢でなくなってきているしね」。
桑折町の仮設住宅に避難中の男性は「弱い人々を救済するのが政治なのに、自民党は大企業しか見ていない。票につながる所ばかり優遇している。政治家は苦労していないから避難者の生活が理解できないのだろうね」と話す。「町に戻ると言ってもね…。コンビニが数軒できたところで雰囲気が変わった町は寂しくなるよ。昔は小さいながらも個性的な商店がたくさんあったから」。ある女性は、中通りの避難先で「賠償金もらって良い車を乗り回している」と空のペットボトルをぶつけられたという。やむなく自家用車のナンバープレートを別の地域のものに取り換えた。「私たちが何をしたって言うの?」。女性の問いかけに政治家はどうこたえるだろうか。
「私らは良いけど孫がね…。孫の世代が安心して遊びに来られるような町でないと、年寄りだけ戻っても仕方ないよね」とつぶやいた女性も。目の前には、大学生らが作った町中心部の模型が広がっていた。「ここでバスを降りて、高校に通ったものよ」。なつかしそうに、少し寂しそうに模型を指差した。
大地震の3日前、修行のため福島市飯坂町から京都に向かった舞妓の恵理葉さん(右)が祭りに駆け付けた。「京都にいると福島の様子が伝わって来ない」
会場前を流れる六角川は、依然として0.5μSv/h超。浪江町民にとって避難先も決して安住の地ではないのが実情だ
【「町残し」の裏の葛藤】
女性は言う。「これだけの事があって、それでも総選挙で勝ったら安倍さんは原発再稼働を進めるつもりなんでしょう?私たちの声を無視して自民党だけで物事を決めて行くのは本当に怖い」。浜通りでは国道6号の車両通行が解禁され、常磐道は12月6日に浪江IC〜山元ICが開通する。「人の住めない所に車を通そうというんだから矛盾だらけよね。本当にお金の事ばかり。町に帰れ帰れと言われるたびにストレスを感じます」。
40代の男性は、「なみえ焼きそば」を通して風化防止に取り組んでいる。これまでは「町おこし」の一つとして全国に発信してきたが、これからは「町残し」だという。「でも個人的にはね、県外に逃げ出したいですよ」。笑顔で町を盛り立てる役割への期待は大きいが、葛藤もある。
「納得はいかないけど、一応は賠償金の方針が固まって、避難先で事業を再開するしかない。でも、避難先ではこれまでのように仕事のつながりもないから頑張りようがない。仕事をしないと気が滅入るし…」。妻子をいわき市に避難させ、自身は浜通りで事業を再開させた。「放射性物質による汚染は事実。親の責任として放射線を避けた生活をさせたいです」。
中通りでは、風評被害に苦しむ農家の声を多く耳にする。実害と風評被害のはざまで検査済みの食材をどうやって全国の人々に味わってもらうか。「きちんと検査をした結果を伝えながら提供する。後は消費者の判断ですからね」。検査結果さえ提示しない「食べて応援」には反対だ。
十日市祭では、小学生から「がんばってください」と声を掛けられた。「ありがとう」と笑顔で握手をする一方で「何をがんばればいいのかな…」とポツリ。「除染の効果はあると思いますよ。次の世代が町に帰るかどうかは分からないけど」。バラバラな避難生活が始まって、4度目の正月がまもなく、やってくる。
(鈴木博喜/文と写真)
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