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震災から3年半――「帰還困難区域」を訪れて
http://www.magazine9.jp/article/kiuchi/15225/
2014年10月15日 木内みどりの発熱中! 第3回 | マガジン9
行って来ました、双葉町と浪江町へ。
ふたつの町、両方共に「帰還困難区域」です。かつて住んでいた人か特別な理由で許可された人のみしか立ち入ることができない場所です。
わたしは、双葉町の住民だった大沼勇治さんに誘っていただき、最長5時間許される月に一度の「一時帰宅」の「同行者」にしていただきました。
大沼勇治さんは、〈原子力 明るい未来のエネルギー〉。この標語を小学校6年生の時に作った方です。「原子力」で始まる標語を3つ作ってきなさいという宿題だったそうです。
27年前、福島第一原子力発電所では1・2・3・4号炉に加えて5・6号炉を建設する予定があり、地域の同意・協力を狙って、大人だけではなく小学生をも巻きこんでいく原子力推進の大キャンペーンがあったのです。町の半分は「東電さん」絡みの人々ですから、反対の声を上げるのは少数派、白い目で見られるという空気だったそうです。
結果、大沼少年が作った標語が表彰され採用されました。当時の岩本忠夫町長さんから直接、表彰状を手渡された授与式の時も、その標語が町にアーチとして飾られた時も、とても「誇らしかった」そうです。
が、2011年3月11日、東日本大震災、続いて、福島第一原子力発電所の事故。世界は一変しました。
安全・安心と信じ切っていた原子炉が爆発、放射性物質が大量に噴出、強制避難…と受け入れ難いことばかりが次々と起きました。新婚だった大沼さん夫妻には避難先を変えながらの不自由な暮らしの中でお子さんが生まれ、今、やっと茨城県古河市に家を建て安定した暮らしをされています。
テレビ画面で、新聞紙面で、あの標語のアーチの写真を見るたび大沼さんご自身はどう感じていらしたでしょう。
「あの標語を訂正できるのは自分しかいない」。そう思った大沼さんは手書きの言葉を掲げこんな写真を撮りました。
世界に知って欲しいと英語バージョンも撮りました。
一時帰宅許可の度に、そうして標語を訂正されてきた大沼さん。
そんな大沼さんとFacebookで知りあってオンラインの会話を続けていた私を、ある時、大沼さんが誘ってくださいました。
「一時帰宅の時に一緒に行きませんか?」
初めは、遊び半分で行くところじゃないからわたしには資格がないと思い辞退したのですが、大沼さんと奥さんのせりなさんが一緒だし、慣れている大沼さんの車で、大沼さんの案内で行けるのだからと、先日、再度、誘っていただいた時に心が動きました。
前日はいわきのホテルに泊まって、10日朝9:00出発。
いくつかの検問所で許可証を提示して通過。
一時帰宅の際に支給されるセットには、防護服上下、靴カバー、シャワーキャップ、手袋3種類、首から下げる線量計。
ここで着替えます。
暑くも寒くもない快晴でよかった。着替えました。
このトイレが最後で、この後どこにもトイレはありません。
はるか彼方の東京まで電気を送っていた送電線、ズラっと続いている。福島第一原子力発電所で発電された電気はすべて東京に送られていた事実を東京都民の何パーセントが知っているのだろう…。
何度も検問所を通過。車の出入りのたびに開けたり閉めたりする係の方、何時間もここにひとりでいてたいへんなお仕事。マスクなし手袋なしの方も多かった。
双葉町役場の時計。地震発生の時で止まったまま…。
標語の前で新しい言葉に訂正する大沼勇治さん、撮影はいつも夫人せりなさん。おふたりとも研究熱心なので撮影機材も撮影技術もプロ並みです。
わたしも脱原発集会の時に着ているキャサリン・ハムネットのスローガンTシャツを重ね着して…。
双葉町の商店街、誰もいない奇妙な静けさ。
二度と電車は発着しないだろう、双葉駅。
福島第一原子力発電所。1.5q 地点から。
〈WORLD WIDE NUCLEAR BAN NOW by Katharine Hamnett〉
浪江町へ移動。
有ったはずのものが無い奇妙な静けさの中、絶望、恐怖、憎悪、悲しみの叫び…。阿鼻叫喚が耳の奥底に聴こえてくるようで苦しくなり、ただ立っていることしかできない情けない自分でした。
あちこちに高く積み上げられたフレコンバッグの汚染土。雑草が袋を突き破り雨が溜まり、醜い光景。私たちはみな無口になって押し黙り、ただ、見ていることしかできませんでした。
許された制限時間の5時間、たっぷり歩き回って全身に浴びた線量は 4マイクロシーベルト。サーベイメータを靴に当てて測った結果、放射性物質は検出されず、とのことでした。
雑草だらけで何もない道と道が交差しているところに小さなお地蔵さんがあり、枯れたお花と缶ビールが置かれてありました。よそ者のわたしには手を合わせる資格もなく、写真を撮ることさえ許されない気がしました。
ただ立ちつくしていて、ふと、世界が原子力発電を卒業するまで、核廃絶できるまでわたしにできることはやっていこう…という想いが溢れてきて、鼻の奥がツンとして涙が溢れてきました。
原発事故から3年半のタイミングでこの経験ができたことを感謝しています。大沼勇治さん、せりなさん、ありがとう。
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