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【 未だに120,000人もの人々が、生活を根こそぎ破壊されたままにされているフクシマ 】《前編》
http://kobajun.chips.jp/?p=19858
2014年9月16日 星の金貨プロジェクト
仲良く暮らしていた家族がバラバラに引き裂かれ、高齢の人々が孤独な暮らしを強いられる
希望や喜びがほとんどない、そして故郷に戻れる見通しもほとんどないたった一人の生活
精神の不調、肉体の深刻な症状、無気力と無関心。ゲンパツ被災者を襲う数々の苦難
ジャスティン・マッカリー / ガーディアン 2014年9月10日
福島第一原発の事故が発生して3年6ヶ月、未だに120,000人以上の人々が大切な家族から引きはがされ、原発被災地となった故郷に戻る事無く、その周辺で仮住まいを続けています。
日本における原子力監査機関は、9月10日水曜日に九州電力川内原発の再稼働についてゴーサインを出しましたが、安全性に対する周辺市町村の懸念が解消された訳ではありません。
日本の原子力発電所は福島第一原発の3基の原子炉がメルトダウンを起こして以降、すべて停止したままでした。
福島県にある仮設住宅の住人の1人、菅野いい子さんは現在の日々について、読書をしたり野菜を育てたり、そして孫に会える日までの日数を数えたり、それくらいしかする事が無いと語りました。
かつての隣人たちと同様、菅野さんの家族もまた福島第一原発のメルトダウンによって家族をされてしまったのです。
それは2011年3月の出来ごとでした。
「福島第一原発の事故が起きてひと月もしないうちに、私たち村民に避難命令が出されました。」
菅野さんは絵のように美しい故郷の飯舘村にあった自宅、そして今は捨てられてしまった自宅について語りました。
彼女の自宅は福島第一原発の北西約40キロの場所にありました。
「野菜農場に私たち家族が注いできた努力も何もかも、すべてが水の泡になってしまいました。そして飯舘村はもはや安全な場所ではなくなってしまったと宣告されたのです。」
それまで飯舘村の6,000人の住民のうちの大部分は村に留まったままでした。
飯舘村は日本政府が設定した福島第一原発の周囲20キロの指定避難区域の遥か外側にあり、自分たちの村は安全だと思い込んでいました。
放射線の専門家が人間が生活するのに安全だとされる数値以上の高い放射線量が確認されるホットスポットの存在をいくつも確認するまでの数週間、自治体は数週間避難を命じることはありませんでした。
約150人の村民は福島市の郊外にある仮設住宅に収容されるまで、サクランボ、桃とリンゴの木に囲まれた窮屈な木製ロッジに仮住まいしていました。
事故から3年6ヶ月、汚染されてしまった飯舘村には除染作業員を除けば人の姿はありません。
しかし大切な農場をあきらめきれない人々の姿もかいま見られます。
希望や喜びがほとんどない、そして故郷に戻れる見通しもほとんどないたった一人の生活を強いられている菅野さんですが、原子力発電所事故が作り出だしたこうした状況に置かれているのは、彼女だけではありません。
福島の約120,000に昇る人々が同じような状況に置かれているのです。
今年福島県が行った調査では、家庭を持つ人の半数が家族が離散してしまっている事が明らかになりました。
そしてそのうち70%の人々が精神的、あるいは肉体的障害に苦しんでいる事も解ったのです。
かつてはひとつ屋根の下で暮らしていた家族が2カ所以上の場所にわかれて暮らさざるをえなくなっている人の割合は調査対象となった家庭の48.9%に上りました。
さらに全体の58.6%は、かつて同じ村落で暮らしていた親類同志が3カ所以上の仮設住宅などに散らばって暮らしていると語りました。
そして全体の約半数がかつては楽しんでいた趣味や活動などに対する関心を失い、睡眠障害を抱えている事も明らかになったのです。
菅野さんのようにつらい境遇に置かれている例は、かつて福島県の農漁村部で大家族で暮らしていた人々に特に顕著に見られます。
マグニチュード9.0の地震により発生した巨大津波によって19,000名が命を落とし、チェルノブイリ以来最悪の原子力発電所事故が発生した東日本大震災。菅野さんの夫と母親はその1年前に亡くなっていました。
菅野さんの息子で43歳になるふとしさんは奥さんと子供さんを連れ、東京近郊の埼玉に移住しました。
「飯舘村にいた当時は、3世代の家族がひとつ屋根の下で暮らす事が当たり前でした。」
「はじめ息子は福島市で仕事を見つけました。でも息子も嫁も、子供たちを放射線量の高い場所で育てたくはなかったのです。」
「息子夫婦は福島に連れてきたがらないので、私が孫に会えるのは正月、あるいは何か特別の事があるときだけです。」
菅野さんは他に娘夫婦に3人の孫がいますが、かつては飯舘村近くのまで暮らしていた彼らは現在、新潟県で暮らしています。
娘の夫は単身福島県内で教師を続けており、毎週末ごとに新潟県の自宅に戻る生活を続けています。
〈後編に続く〉
http://www.theguardian.com/world/2014/sep/10/fukushima-nuclear-disaster-japan-three-years-families-uprooted
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国というものが国民一人一人の人生の集合体だとすれば、1回の『産業事故』により12万人もの方々の人生が3年6カ月が過ぎても尚破壊されたままだという事を、私たちはどう考えれば良いのでしょうか?
このことに国として判断をしないまま、事故の張本人である原子力発電の方の復活のみを許すというのは、どういう事なのでしょうか?
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【 未だに120,000人もの人々が、生活を根こそぎ破壊されたままにされているフクシマ 】《後編》
http://kobajun.chips.jp/?p=19876
2014年9月17日 星の金貨プロジェクト
隣人同士が支え合い、家族同士が慈しみ合う、その生活のすべてをゲンパツ事故がだいなしにした
荒れ果てた自宅を訪れた人々は、口々にそこが悲しい場所になってしまったと嘆いている
互いに支え合いながら生活していた人々が、今やくつろげる場所すら持たないゲンパツ難民に
ジャスティン・マッカリー / ガーディアン 2014年9月10日
菅野さんの世代の人々にとって、孫と遊んだり、慈しみ育てる事が出来なくなるなどという事は、想像もできない事でした。
「飯舘村に留まる事さえ出来ていれば、今頃はみんな一緒に暮らしていたと思います。」
「私はほとんど祖父母によって育てられました。そして、私の両親は私の子供たちを育てるのを手伝ってくれました。しかしそうしたことを一切、放射線が不可能にしてしまったのです。」
菅野さんは事故後何ヶ月間も鬱状態が続き、今は睡眠薬が無いと眠る事が出来ません。
「睡眠薬を飲まないと、私はねむれずに孫の写真をずっと見つめて起きていなければなりません。孫が大人になるまで、一体何回会う事が出来るのだろうと考えながら…」
菅野村長は2016年までには除染作業が完了し、飯舘村が再び人が住める場所になるだろうと語りました。
しかし、かつての住民たちは飯舘村は山地が多いため、平らな場所の除染が完了しても雨によって山間部の放射性物質が再び人が住む場所に流れ込んで来るため、人が住めるようにはならないのではないかと懸念しています。
これまで、避難指定区域の東側の2つの地区の住民数百人だけが、再び居住し生活する許可を与えられました。
「私たちが戻れるようになるまでには尚数年がかかる可能性があり、家族は厳しい選択をしなければなりませんでした。」
一事避難場所となった施設の世話人を務めた、かつての飯舘村の住民だった長谷川はな子さんがこう語りました。
かつての村民たちの自宅はカビや害獣のはびこるままになっていますが、長谷川さんの夫はかつて子供たちや孫たちと一緒に暮らしていた自宅の清掃や手入れを続けるため、短時間自宅に戻っる生活を続けています。
「荒れ果てた自宅を訪れた人々は、口々にそこが悲しい場所になってしまったと嘆いています。」
「それでもみんなは、二度と暮らせないかもしれないのに、あきらめきれずに雑草を取り家の中を片付けるために自宅に戻るのです。」
かつては互いに支え合いながら生活していた飯舘村の住民たちは、今やくつろげる場所すら無いゲンパツ難民になってしまいました。
そのほとんどは、居住困難区域以外の福島県内に留まっています。
村役場の調査によれば、飯舘村のその他の住民は日本の48都道府県のうち、46の都道府県にバラバラになってしまいました。
海外に移住した人も4人います。
長谷川さんはかつて家族全員で酪農を営んでいましたが、今や4つの場所でバラバラに暮らしています。
一般的に祖父母が見ず知らずの土地で生涯を終える事を嫌い福島県内に留まる傾向があるのに対し、父親たちは仕事を求めて故郷を離れ、子供たちは母親と一緒に福島県を出て行く傾向が見られます。
今回取材した仮設住宅の居住者の平均年齢は66歳であり、70代と80代の住民のうち、約20人が一人暮らしを強いられています。
「息子がここに連れてこない限り、私は決して孫娘に会う事は出来ないのです。」
長谷川さんがこう語りました。
「この仮設住宅では、たくさんの高齢者が同じ状況に置かれています。若い人たちはお祭りやスポーツイベントなど、何か特別の事が無い限りここにはやってきません。そして催しが終わると、逃げるようにこの場所を後にするのです。」
菅野さんとその隣人たちは朝のラジオ体操で体調を整えようと務めています。
そしてこの場所から車で2時間程の場所にある福島第一原発によって破壊されてしまったコミュニティの人々と、お茶を飲みながら一緒に午後を過ごしたり、時には一緒にバス旅行などをして絆が切れてしまわないように努めています。
「ゲンパツ事故が何もかも台無しにしてしまいました。」
菅野さんがこう語りました。
「たとえ避難命令が解除されたとしても、若い人たちも子供たちももう戻っては来ないでしょう。」
私たち飯舘村の人間は村役場、除染作業員、環境省の官僚、その全部にこう尋ねました。一体いつになったら安全になった故郷に帰る事が出来るのか、と。でも誰からもどんな答えも返って来なかったのです。」
〈完〉
http://www.theguardian.com/world/2014/sep/10/fukushima-nuclear-disaster-japan-three-years-families-uprooted
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この福島の120,000人というゲンパツ難民になってしまわれた方々の苦難と絶望を、私たちが本当に思いやる事が出来るか、その事がこれからの日本の本当の価値を決めるのではないかと考えています。
株価の上り下がりよりも、アメリカと一緒になって海外で軍事作戦を展開するよりも、東シナ海の無人島の防衛体制を鉄壁のものにするよりも、「日本の政治」に私たちが求めなければならない事は何でしょうか?
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