01. 2014年9月05日 07:49:04
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続・フクシマ「避難区域」にできたコンビニ誰がその地をつなぐのか 2014年9月5日(金) 中川 雅之 福島第1原子力発電所の事故から3年半。立ち入りが制限される避難指示区域内では、時間の経過が「復興」の障壁となりつつある。人気のない空白地帯を、誰が未来につなぐのか。 道路脇から飛び出してきた動物の影に、慌てて急ブレーキを踏む。JR福島駅から取材先の福島県浪江町に向かう、およそ2時間半の道のりを往復する間で、2度ほどそんなことがあった。タヌキか、それともイノシシの子か。工事用の大型トラックが猛スピードで何台も行き交う道を、野生の動物は我が物顔で横切っていった。 国道114号線から県道12号線に入り、南相馬市で国道6号線を南に下る。下に示した地図で見てもらえば、目的地に対して大回りをしていることが分かるだろう。だが、それは仕方ない。福島市と浪江町を1本でつなぐ国道114号線、通称「福浪線」では今、普通の車両は浪江町まで行けない。福島第1原子力発電所の事故に伴って設定された「避難指示区域」のうち、最も制限の強い「帰還困難区域」にその大部分が含まれ、通行が制限されているからだ。 出所:首相官邸のホームページの資料を基に本誌が作成 地図の緑色で示した「避難指示解除準備区域」と、黄色の「居住制限区域」には、特別な許可がなくても日中は出入りができる。だが、地域住民であっても宿泊は許されていない。つまり、地図中の色が塗られた範囲ではもう3年半もの間、人が住んでいない。
伸び放題の雑草、でこぼこの道路。もともと自然豊かな土地柄ではあるのだろうが、避難指示区域内の荒れ果てた人家を見ると、その地の主が今や人間ではないことを思い知らされる。 避難区域内のコンビニ 浪江町に向かったのは、全域が避難区域に指定されている市町村としては事故後初めて、コンビニエンスストアが開業するからだった。8月26日、ローソン浪江町役場前店の正式オープン前日に開かれたセレモニーには、県の副知事や浪江町長、復興庁の浜田昌良復興副大臣などが出席した。 雨の中開かれたセレモニーであいさつする馬場有・浪江町長 浪江町では原発事故後、2万1000人の住民全員が避難した。今も周囲に人気はなく、ローソンは店のすぐ隣にある役場に通勤する人と、除染や工事に従事する人だけを主な相手に商売をすることになる。
同店はローソン本部が運営する直営店だ。特殊な立地で従業員を確保するのは難しく、社員2人を除く十数人の従業員は人材会社を通じて雇い、バスで近隣市から送迎する。営業時間は午前7時から午後3時で、日曜は休日。通常の店に比べて収益確保が困難であることは間違いない。 だが、東北ローソン支社の村瀬達也支社長は「いつかきちんと収益化し、店舗をフランチャイズ契約のオーナーさんに引き継ぐ。我々は、そのバトンをつなぐ」と話す。 「自分が浪江に戻ることはない」 実は同店は原発事故前、地元のフランチャイズオーナーが経営していた。開業セレモニーには元オーナーの渡辺正見さんも参加し、あいさつをした。「10年あまりにわたり、浪江でローソンを経営していた。私の生まれ育ちは(近隣の)富岡町だが、浪江は第2の故郷だった。だがあの原発事故で、ここを離れることを余儀なくされた」。 渡辺さんは今、震災後に生活の拠点とした仙台市で新たにローソンを経営している。この秋には、仙台に新居も完成する予定だ。 「3年半の長い月日が流れてしまった。新しい土地で新生活を始めた私が、浪江に戻ることはもうかなわない。だが、今もこの地に戻りたいと願う多くの人のために、店長、スタッフ、ローソン本部の皆さんにはぜひ頑張っていただきたい」。時折言葉に詰まりながら、渡辺さんはそう語った。 原発事故直後は、それでも渡辺さんはいつか浪江町に戻るのだろうと思っていたという。町内には店舗だけでなく、家と土地もある。だがその家も今は天井が抜け、雨漏りがひどい。まだ見た目はきれいというが、ここからあと数年もすれば、どんな状況になるかは想像に難くない。浪江町が現在、避難指示の解除時期として目指しているのは、2017年の3月11日だ。 「戻りたいという気持ちは今でもある。だけど戻ることはできない。辛いが、どうしようもない」(渡辺氏)。 およそ1年前。福島第1原発を挟んで、浪江町と反対側にある楢葉町では、同じく避難指示解除準備区域にコンビニのセブン-イレブンが開業した。こちらは地元のオーナー夫妻が経営するフランチャイズ店だ。開業時の様子は、当時『フクシマ「避難区域」にできたコンビニ』という記事に書いたので、そちらを見ていただきたい。今回は、その後の様子を聞きに1年ぶりに訪ねた。 「誰かがやらなきゃ、何もないまま」 「忙しくて人が回らない」と、妻の鈴木二葉さんは言った。従業員は開業当初から少し減った。セブンの本部社員も「本来はもう少し欲しい」という体制だが、人を増やそうにもなかなか増やせない事情がある。 幹線道路沿いの店舗の駐車場には、ひっきりなしに車が入っていく 現地では復興関連事業に人がとられ、人手不足感が他の地域にも増して強い。同店でも交通費などの手当は支給しているものの、避難区域外にもコンビニは山ほどあり、時間をかけて域外からわざわざ来てくれる人は少ない。「今は時給戦争みたいになっていて、1500円とか1800円という求人はザラ。だけど、うちはそこまでは出せない」と二葉さんは言う。
「経営は順調ですか?」と尋ねると、オーナーの鈴木賀規さんは苦笑いを浮かべた。「晴れの日はいいけど、雨になると客足がパタッと止まる。大変は大変。だが店の認知は広がり、一時帰宅する住民の人も増えてきている。少しずつ前には進んでいると思う」。 開業から1年が過ぎ、店舗は幹線道路を毎日のように通る復興関連事業者にとって「あるのが当たり前」になった。周囲に商店はほとんどなく、「この店があって良かった」と感謝されることも少なくない。「地域に対する責任は感じる。わざわざ大変な立地で店をやらなくても、とも言われるが、誰かがやらなきゃ、ここには何もないままだ」と、鈴木オーナーは語る。 楢葉町のセブンから原発方面に車で数分行くと、1年前にはなかった商店があった。プレハブのような簡易な建物に「食べるも!!買うも!!ここなら商店街」との看板がある。見れば、食堂とスーパー計3店が軒を連ねているようだ。 楢葉町の役場前に、1年前はなかった商店ができていた スーパーの「ブイチェーン」に入ると、店内には飲料や惣菜、日用品のほか、野菜や肉、魚といった生鮮食品も並んでいた。コンビニエンスストアを少し大きくした程度の店内はこぢんまりとしているが、昼時とあってレジには列もできていた。運営するネモトの根本茂樹社長によると、この店が開業したのは今年の7月31日。私が訪れた時点ではまだ1カ月も経っていなかった。
ネモトはもともと楢葉町でスーパー2店を営業していたが、原発事故を受けて閉鎖。その後、近隣の広野町などで店を開くなどして会社を存続させてきた。そこに、行政から避難指示区域内の役場前で店をやってくれないかという要請があった。店の建設費用の大部分は、国と県と町の負担だという。 避難区域内でスーパーを営業するネモトの根本茂樹社長(右) 営業時間は午前7時半から午後6時。「客の9割5分は復興関連の作業員」(根本社長)で、一定の需要はあるものの実際の経営は赤字だ。「東京電力から、営業損害の賠償があるから何とかやっていけるようなもの」だという。ネモトは現在、同店を入れて3店、仮設的な店舗を運営するが、合計の売上高は、事故前に楢葉で営業していた2店舗の合計と比べ約4分の1に落ち込んだ。
「戻ってきてくれとも言えない」 根本社長は「時々、なんでこんな中途半端な店をやってんだろうと思う」と漏らす。駅近くに構えていた本来の自分の店を再開することはできない。限られたスペースと限られた品揃えで、外部からやって来る作業員を相手に商売をすることを実質的に強いられる。だが従業員の生活や地域のことを考えれば、自由な店づくりができないからと言って、スーパーをやらないわけにもいかない。 自宅は楢葉にあったが、今は家族といわき市内に住む。仮に避難指示が解除されたとして、すぐに楢葉に戻るかは分からない。「中学生の娘がいる。高校になれば、どちらにしてもいわきに通う。だとすれば、少なくとも娘が高校卒業するまでは楢葉に戻らない気がする」と言う。 胸の内には、複雑な思いがある。「商売のことを考えれば、そりゃあ、一刻も早く住民に戻ってもらった方がいいに決まっている。だが、自分もそうであるように、人それぞれ事情がある。無理やり引っ張ってくるわけにはいかないし、楢葉に戻ろうと周囲に促すことさえはばかられる」。 放射線量の十分な低減は当然としても、小売店などの生活インフラの全てが整わなければ、多くの人は戻ってはこない。先行して事業を再開し、そうした人々を「迎え入れる」役割を果たす人は絶対に必要になる。だがその役割を担う人は自らの人生を賭して、リスクを引き受けることになる。 根本社長にしてみれば他の小売店が進出することは、商売上はマイナスになる。だが、町の復興にはプラスだ。意地悪に「他の小売店ができることを望むか」と尋ねてみた。答えは「現時点でやっていない人は、たぶんもうやらないだろう。時間が過ぎれば過ぎるほど、やらない方向に傾くんじゃないか」だった。 人が戻れるようになるまでに時間がかかれば、「戻りたい」という人々の気持ちは薄れかねない。そうすれば「復興」は、さらに困難になっていく。根本社長の言葉には、進んでいるとされる復興作業に対する、むなしさがにじむ。 降り積もる「時」 東日本大震災からちょうど1年の2012年の3月11日。読売新聞は定例コラムの「編集手帳」に、朝刊の1面をすべて充てるという異例の紙面作りをした。見出しには、「時は流れない。雪のように降り積もる。」とあった。 避難指示区域を訪れ、編集手帳のコラムニストが表現しようとしたことが理解できた気がした。目に見えないはずの「時」は確かに、原発事故以来ずっと雪のように降り積もり、ずしりとした重みを伴って、その地に存在した人の営みを覆い隠そうとしている。3年半が4年になり、5年になれば、その重みはさらに増していく。 浪江町と同じく、全域が避難指示区域になっている飯舘村。その居住制限区域内に、「綿津見神社」という神社がある。前述のように居住制限区域では宿泊は認められていないが、宮司である多田宏さんは、原発事故以来3年半、社務所に留まって生活をしている。私が訪ねると、当日連絡をしたにもかかわらず、温かく迎えてくれた。 神社の入り口に、除染作業中であることを示す旗がはためく 「東京の人は、もう忘れてしまってるんじゃないかね。それか、復興が進んでいると思っているか」。多田さんは私に、お茶を入れながらそう問いかけてきた。
「原発は、普通の災害ではない。地震や津波は、確かにいろいろなものを一気に奪った。けれど人が悲しみに耐えて歩み出せば、すぐにでも前に進んでいける。災害でマイナスになったものが、時が過ぎるにつれてゼロに近づいていくんだ。だが原発事故は違う。マイナスは、むしろ大きくなっている」 全村避難後、住民たちは散り散りになり、かつてのご近所同士でもその後の連絡が途絶えてしまった人が多くいる。避難先で新しい家を持つ人も出始め、日を追うごとに「飯舘に戻ろう」という人は減っていく。 多田さんは村から支給されたという線量計を出してきた。屋内の社務所でそれは、毎時0.3〜0.5マイクロシーベルトの数値を示した。政府が除染の目標に掲げる年間1ミリシーベルト(毎時換算で0.23マイクロシーベルト)を上回る。 線量計を置いて、思いを語る宮司の多田宏さん 「この辺は一応、除染作業が済んだことになっている」と言って、敷地内の林も案内してくれた。線量計の数値は場所によって、毎時2.5マイクロシーベルトまで上がった。「除染するといったん数値は下がるが、しばらくするとまた上がると言う人もいる」と言う。
社務所の外で線量計は、毎時2.5マイクロシーベルト近くまで上昇した 健康上問題ないとされる被ばく線量については専門家の間でも様々な意見があり、政府が掲げる年間1ミリシーベルトが国際的に厳しすぎるという見方もある。国が「避難指示解除準備区域」の基準を年間20ミリシーベルト以下に設定しているように、より高い線量でも人々の帰還を認められるのではという声もある。
だが現実には、その線量の問題で人々の立ち入りが制限され、時だけが過ぎている。 なぜ、その地に留まるのか 多田さんになぜ「宿泊禁止」というルールを破ってまで、この地に留まるのか尋ねた。 「ある地域がその地域らしさを持つためには、歴史や伝統、文化を継承していくことが不可欠だ。うちには氏子が200件あるけど、それを守らなくてはいけない。代々受け継がれてきたものを放り出せば、この土地がこの土地である理由がなくなる。人々が『そこに戻りたい』と思う場所自体がなくなってしまう」 洋の東西を問わず、信仰は人の心に根付き、街づくりの中心的な役割を果たしてきた。それが分かっているからこそ多田さんは、宮司である自分がその務めを放棄するわけにはいかないと思っている。地域の営みを次の世代に継承するために、多田さんは今も制限区域内で日々を暮らす。
「今でも土日には参拝者が来る」といい、取材日にも「亡くなった人がいてね」と、午後から出かけていった。家族は近隣の、避難指示区域外に住む。初めは区域内に留まることに反対していた妻も、今は何も言わなくなった。寂しくないですか。線量は気になりますか。私のそんな問いは、「もう慣れたね」と、何でもないように返された。 多田さんは67歳。息子さんは将来、宮司を継ぐと言っているという。多田さんはその思いを嬉しく思うが、「継いでくれ」と自ら要望することはないと言う。避難区域内の文化的な命脈は、個人の献身の上で、細い糸をつむぐように何とか保たれている。 変化する周囲の視線 産業技術総合研究所は昨年、福島県内の除染関連費用に最大で約5兆円かかるとの試算を公表した。地域への帰還を望む人の減少が見込まれる中、莫大な費用負担に対する反論も上がってきている。 休業中のJR常磐線富岡駅。すぐ近くに、除染で出た廃棄物の黒い袋が積まれている 時が過ぎれば、「汚染地域を元通りにすることにこだわらなくてもいいのでは」という意見は強まるだろう。地元住民によると、避難指示区域から多くの人が避難しているいわき市では、賠償金を受け取って生活する人に対するやっかみが、トラブルに発展するケースもあるという。時間の経過とともに、被災者に対して向けられる周囲からの視線は一様ではなくなってきている。
だがその陰で、人々が暮らしてきた土地を将来の世代に継承しようとする人も、今は確かにいる。浪江町にいたコンビニオーナーは、復興への思いをローソンという企業に託した。人々があの日を忘れさえしなければ、バトンが受け継がれていく可能性はある。 2011年、あれほど聞かれた「絆」という文句を、今はすっかり耳にしなくなった。だが絆が真に試されるのは、むしろ今、これからに違いない。現在「空白地」となっている地域は、多くの人にとっては「他人の土地」だ。それを未来につなぐ覚悟は、私たちにあるだろうか。 ※筆者注 昨年、『フクシマ「避難区域」にできたコンビニ』という記事を書き、多くの方から、「フクシマ」という表記に違和感を覚えるとのご指摘を頂きました。カタカナを用いたのは、「原発事故前とは地域が変質した」という意味合いを含めようとの意図からですが、その意図を不快に思われる方が想像以上に多いことに気付かされました。 今回の記事を書くにあたり、前回の記事も含めて漢字や平仮名の表記に改めることも考えました。ですが、ご指摘は真摯に受け止めつつ、やはり今回もカタカナで書かせていただきました。「地域の変質」は記事の主題そのものであるため、記事の内容をより的確に表すと考えるからです。「フクシマ」の表記が人を不快にする特別な意味を持つこともあるのは確かだと思います。ですが、いつか「トーキョー」など他の地域をカタカナにした時と変わらずに受け止められる日が来ることを、祈っています。 このコラムについて ニュースを斬る 日々、生み出される膨大なニュース。その本質と意味するところは何か。そこから何を学び取るべきなのか――。本コラムでは、日経ビジネス編集部が選んだ注目のニュースを、その道のプロフェッショナルである執筆陣が独自の視点で鋭く解説。ニュースの裏側に潜む意外な事実、一歩踏み込んだ読み筋を引き出します。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20140904/270814/?ST=print |