http://www.asyura2.com/14/genpatu39/msg/700.html
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チェルノブイリ事故で汚染され放棄されたウクライナのポレスコエ(ポリスケ)市について調べてみた。
「キエフ州ポリスケ市の終焉」 (ボロディーミル・ティーヒー 今中哲二訳)
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/tyt2004/tykhyy.pdf
PDFファイルが見られない人はこちらに転載があります(田中冽氏のブログ)
http://blog.goo.ne.jp/uhi36845-002/e/a0bc7587f6049bd479a2dbec99d433d3
ポレスコエ市はチェルノブイリ原発から南西に55km、人口1万数千人の町だった。
事故後のセシウム137の土壌汚染密度は15-40Ci/km2(55万5千-148万Bq/m2)、
ガンマ線レベルは3-5mR/h (26-44uSv/h)。
ポレスコエ市民は全員避難すべきであったが、除染活動のため、兵站として利用できるインフラを
備えた町が必要であり、避難区域から除外された。
しかも、事故直後はプリピャチその他の地域から2万8千人もの避難民がやってきて混乱した。
(福島市やいわき市に状況が似ている)
ちなみにこの地区の住民の3割近くが、事故後鼻血が出たと言っている。
「チェルノブイリ原発周辺では『5人1人が鼻血』報告も」 (Yahooニュース・オルタナ 2014/5/13)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140513-00010002-alterna-soci&pos=2
このポレスコエ市では大規模な除染が実施されたにもかかわらず、線量が十分に下がらなかった。
汚染の実態がわかるにつれ住民の不安は高まり、とくに子供のいる家庭は何とか移住しようとした。
(共産ソ連では移住の自由はなかった)
1989年12月に14才以下の子供のいる家庭は望めば移住が許可され、1990年2月には、
子供や妊婦のいる家族は強制的に移住させることを決定。
さらに1990年8月には、町全体が強制移住の対象となった。
おそらく事故後4年目で住民の健康状態が激変し、白血病等の健康被害が深刻になり、手に負えなくなって、
慌てて全員強制移住に踏み切ったのだろう。
1996年に最後まで残っていた人が移住し、ポレスコエ市は廃墟となった。
上の論文から一部、引用する。
-----(引用ここから)-----
測定結果は明らかに基準を上回っていたが、議長は、「ここは我々の土地である、我々はここで生まれ、育ち、ここに留まる」と述べた。彼の信念が郷土愛か、危険の過小評価か、命令への忠実さか、また誰かの受け売りか、何に由来しているかは 私には分からなかった。おそらくは、ソ連最高会議メンバーという彼の立場が大事だったのだろう。その立場は、権威そのものであり、大衆のことなどにまどわされなかったのだろう。
何百万ルーブルという大金が社会基盤の整備に投入された。新たな病院やアパートが建設され、天然ガスの供給パイプが整備され、個人住宅にガスオーブンが設置された。また、老若男女に「クリーン」地域での夏のバケーションが無料で提供された。これらのことは、1986年から1991年の間に国家が行った対策リストの一部にすぎない。
農業分野では、ポリスケ市周辺での農産物生産や缶詰加工の継続に向けて(ときには増産に向けて)真剣な努力が注がれた。今から振り返ればなんだか奇妙だが、汚染された野イチゴ、キノコ、乳製品、野菜などをせっせと缶詰に加工していたのである。牛乳や肉の生産、野菜畑や亜麻畑での作業、木材の生産のため、人々は畑や森の中で働いた。つまり、放射能のチリを吸い込みながら働いたのだった。
-----(引用ここまで)-----
どうだろう。無意味な除染、病院その他インフラへの巨額投資、安全キャンペーン、食べて応援など、
現在、日本の政府・自治体が福島で行なっていることと、あきれるぐらい全く同じではないか。
そしてまた結末も全く同じだろう。
いや、福島の人口密度はウクライナ・ベラルーシの2倍、首都圏にいたっては数百倍、
同じどころかチェルノブイリとは比較にならないほど悲惨な状況になるだろう。
歴史は繰り返す。
過去に学ばない者には、残念ながら未来はない。
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