04. 2014年8月07日 10:23:09
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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41434 除染で破壊される里山の生態系 村民がいなくなった飯舘村の現在 2014年08月07日(Thu) 烏賀陽 弘道 フクシマからの報告を続ける。前回に続いて、福島第一原発事故による高濃度の汚染によって、避難で無人になった福島県・飯舘村の現況の話をする。 前回は、田んぼに水を入れたら、モリアオガエルが産卵に戻ってきたという話だった。2011年3月15日、福島第一原発事故から流れ出た大規模な放射性プルームによって汚染された阿武隈山地は、人間が生態系の一部として共存する「里山」だった。人がいなくなって、カエルは産卵の場所を失った。今回は、その里山が原発事故で何を失ったのか、もう少し詳しく話をする。そして、その里山に除染作業が入ったとき、どんな影響があるのだろう。地元の農家の人の話を聞いた。 汚染地域でも立ち入りはできる不思議 飯舘村小宮地区の農場で野菜の栽培を続け、その線量を測定してインターネットで公開している伊藤延由さん(70)の農場に行った。 避難で人がいなくなった田んぼには、田植えの時期になっても水が入らなかった。そのためカエルが産卵の場所を失った。伊藤さんが田んぼに水を入れたら、モリアオガエルやツチガエルが産卵に戻ってきた。 そんな話を前回書いた。 「目黒さんが帰ってるみたいだから、寄っていきましょう」 白い軽トラを運転する伊藤さんがそう言った。目黒さんは隣の農家だ。モリアオガエルのタマゴを見にいった帰りである。この山あいの集落では「隣の家」は歩いていくのがしんどいほど離れている。軽トラで行く。 小宮地区は「立ち入りはできるが、住んではいけない」区域に指定されている。だから、ときどき村人が掃除や犬猫の餌やり、持ち物を取りに帰ってきている姿を見かける。考えてみると、放射性物質で汚染された一帯なのに、不思議な光景だ。日本の法律が原発災害の放射性物質が20キロを超えて飛んでいくことを想定していなかったためである。20キロ圏内が強制避難・立ち入り禁止になっていた時も、その外側(原発から30〜50キロ)にある飯舘村は、汚染度は内側と同じくらいなのに「住んではいけないが、立ち入りはできる」という不思議な扱いだった。だから住民は村外に避難したあとも、宿泊しなければ自分の家に帰ることができた。今でも基本は変わらない。伊藤さんの農場は、原発から33キロだ。 3年ぶりに再会した目黒さん 軽トラの窓から、目黒明さん(74)の家の前に灰色の軽自動車が止まっているのが見える。避難先から帰っているのだ。 玄関を開けると、そこは天井の高い座敷だった。でかい液晶テレビと一緒に、立派な神棚が目に飛び込んでくる。コタツに目黒さんがいた。「ああ、あン時の」と日焼けして赤銅色の顔がにっこりと微笑んだ。ご無沙汰しました、と私は非礼を詫びた。 原発事故のあった2011年の夏、村で目黒さんに会った。 福島第一原発でメルトダウンが進行していた同年3月、目黒さんには危険の知らせは何も届かなかった。地震のときも山の雑木林で松を切っていた。木にしがみついて波打つ山の斜面に耐えた。しかし、その後の原発の危機は誰も何も言ってこなかった。いつもの春のように、毎日山にでかけ、シイタケ栽培のための原木を切り、おがくずを集めた。それもキノコ栽培の菌床にするためだ。全村避難の話を聞いたのは、4月下旬。公民館に集まると、地元集落の区長が「協力せんといかんじゃろ・・・」と全村避難を伝えた。ずっと生まれて育った家を初めて離れ、相馬市にあるプレハブの仮設住宅に移った。 「3月15日はどうしておられましたか」 そのとき、私は恐る恐る聞いた。高濃度の放射性プルームがこの一帯に飛来した日だ。 「いや、その日も山におりました」 私は絶句した。不吉を察したのか、目黒さんの表情がくもった。 「・・・私たち・・・どうなるんでしょう・・・」 その時、私は言葉が見つからなかった。 「大丈夫ですよ・・・きっと」 そう言うのがやっとだった。 だから、それから3年が経って、その目黒さんが変わらない日焼け顔でニコニコしているのを見て、ほっとした。正直に、うれしかった。 「お変わりありませんか」 「あァー、おかげさんでなァ」 そして、目黒さんは座敷に座り、私は土間に座って話をした。 「まァ、コーヒーでも飲んでって」 そう言ってゴールド缶の缶コーヒーを勧めてくれる。 目黒さんの話はヘビーな福島弁で、私は聞き取りに難儀する。すると伊藤さんが「通訳」に入ってくれる。会話はそんなふうに進んだ。 飯舘村小宮で農業を営む目黒明さん(74)、筆者撮影(以下すべて) 当たり前のように実現していた究極のリサイクル
目黒さんの田んぼにもモリアオガエルがタマゴを産んでいたのを先ほど見た。自分で田んぼに水を入れた伊藤さんとは違って、目黒さんの田んぼは、3年間稲作を禁じられているうちに、用水路が破れて水が流れ込んだようだ。 3.11以前は、田んぼにモリアオガエルは来てましたか? 「いやァ〜。注意して見てなかったなァ」 私は自分の質問の愚かさに苦笑した。阿武隈山地の自然の恵みとともに生きてきた目黒さんにとっては、田んぼのカエルの名前なんて、どうでもいいことなのだ。 次第に、話は目黒さんと伊藤さんの問わず語りにようになっていった。目黒さんが何かを語ると「このあたりの人たちにとっては・・・」と「解説」してくれるのは、東京でのサラリーマン生活の経験がある伊藤さんだ。 目黒さんが山林でキノコ栽培の床木を取っていたように、阿武隈山地はいろいろな恵みを村人にもたらしていた。例えば、田畑の肥料。山林の地面には、落ち葉や枯れ木が落ちて積もり、分解され土に還っていく。いわゆる「腐葉土」である。村人は、腐葉土を山から運んで田んぼに入れる。豊かな栄養分を含むだけでなく、腐葉土には様々な微生物がいる。それが活動して土壌をより豊かにする。 また山は、薪や炭といった燃料の供給源でもあった。それを燃やして煮炊きをし、暖を取る。山には炭焼き小屋があり、炭を焼く職人もいた。そうした木を燃やしても有毒物質は出ない。灰はまた自然に還る。ナベを磨くときにタワシにつける磨き粉に使ったり、山菜を煮るときのアク抜きにも使う。 そうやってコメや野菜を作る。食べる。稲を刈り取ったあとの稲藁は牛の飼料になる。牛のふんは肥やしになる。 牛だけではない。人間の糞尿は肥料に使える。田畑に撒く。また作物が実る。なるほど、そう思ってみると、村の農家の便所はだいたい母屋から離れている。糞尿が汲み取りやすいようにそうなっているのか、と納得した。 これは究極のリサイクルである。「ゼロエミッション」(廃棄物ゼロ)などと言われ最近もてはやされている概念である。村人はそんなことを当たり前のように数百年やってきたのだ。 まだある。山菜やキノコ、クリや柿は食料になる。イノシシをワナで捕まえればタンパク源になる。阿武隈山地は豊かな食料供給源でもあるのだ。 だから村には都会のような大規模なスーパーマーケットがない。なくても村人は困らない。食料は、買わなくても身近にあるからだ。というより、目黒さんの話を聞いていると「食品を買う」という発想があまりない。「そんなもん、そこらへんにいくらでもあっぺ」と目黒さんは笑った。 そうやって村人がコメを作るために田んぼを開墾する。水を入れる。カエルが来る。タマゴを産む。オタマジャクシになり、手足が生えてまた森へと帰っていく。水路にドジョウが住む。カモやサギが飛んできて餌を捕る。そんな生態系の一部に、人間も組み入れられている。それが阿武隈山地と共生してきた「里山」の生活形態なのだ。 土壌を根こそぎ掻き出す除染作業 「それが、原発事故でどうなったと思います?」 豊かな暮らしだなあ、とぼんやり感心しながら聞いていた私は、伊藤さんの言葉ではっと我に返った。そうなのだ。ここは放射能の汚染地帯なのだ。 3.11のあった年、伊藤さんは、自分の農場の土に沁み込んだ放射性物質の計測を依頼した。 ・腐葉土: 1キロあたり11万ベクレル ・深さ5センチの土: 同1.7万ベクレル ・深さ10センチの土: 同1080ベクレル ・収穫されたコメ: 2万8000ベクレル そういえば、伊藤さんの農場に来る途中、村の中で何度も何度も除染作業の現場に出くわした。そこでは、ヘルメットにゴーグル、マスクをした作業員たちが熊手や竹箒を手に、山林の腐葉土を掻き出していた。下草を刈り取り、低木を切っていた。木々の下枝を払っていた。そうやっても線量が下がらない木々はチェーンソーで切り倒された。緑のクッションに覆われたような山々が、スカスカに毛が抜けた禿頭のようになっていた。田んぼは泥を取り除かれ、真新しいグラウンドのような白い土で埋められた。遠くから見ると、田んぼだった場所が塩田のように白い。その間に、除染で出た放射性ごみを詰めた黒いプラスティックバッグ(通称「フレキシブルコンテナ=フレコンバッグ」)の丘があちこちに出現していた。 除染で出た放射性ごみを積み上げた「丘」(青いビニールシート)があちこちに出現する福島県飯舘村の風景 2011年3月、福島第一原発から漏れ出した大量の放射性物質は、放射能を帯びたチリの雲として流れ、この阿武隈山地に雨や雪になって降り注いだ。枝や葉をつたい、腐葉土に染み込み、さらに下の土壌に染み込んだ。除染とは、そうした「放射性物質の染み込んだ土壌を根こそぎ掻き出してしまう」ことなのだ。
しかしそれは、村人にとっては収穫をもたらす肥料になる腐葉土であり、山菜やキノコの宝庫だった。田んぼの底の泥には、何世代にもわたって山の腐葉土を入れた「土床」があった。除染作業は、それを根こそぎ奪い取ってしまうのだ。そうなった後の山林や田畑は、元と同じでは決してない。 福島県飯舘村の山林の除染風景 「除染作業の説明をしたい、という役人が来たんですが」
伊藤さんが苦笑した。 「『自分がやろうとしていることの意味、分かってる?』と聞いたら黙っちゃった」 それは、そうだろう。県や国の官僚に「何が失われるか」なんて、分からないだろう。 田んぼで孵化した無数のオタマジャクシ 次の日、私は1人で同じ田んぼにもう一度行ってみた。 今度はいい天気だった。枝からぶら下がったモリアオガエルのタマゴが風で揺れていた。木漏れ日がきらきらと田んぼの水面で輝いていた。カモがのんびり泳いでいた。 あぜ道を歩いていった。運が悪いタマゴがいくつか、地面に落ちていた。卵白のメレンゲに似ている。上に乗ったトカゲが、ごちそうを独占していた。 私はあぜ道にかがんで田んぼの水面を見つめた。水の中から何かがこちらをじっと見ていた。しっぽがせわしく動いている。オタマジャクシだ。それも無数にいる。藁や草にかじりついて、何かを食べていた。モリアオガエルが孵化するにはまだ早い。体も茶色だ。ちょっと早めにタマゴを生んだツチガエルか何かだろう。 オタマジャクシが孵化したとき、最初のエサは自分を包んでいるタンパク質だ。運悪く孵化する前に樹の枝から落ちたモリアオガエルの卵も、ツチガエルのオタマジャクシは食べている。食べたり、食べられたり。それやこれやがごちゃごちゃになって、田んぼの水はタンパク質のスープのようになっていた。 水草の上を歩いているものがいた。私はカメラを構えた。ファインダーに、手足が生えたばかりの小さな子どものカエルが映った。体長は5ミリほどだろうか。四角い金色の目でこちらをじっと見ている。ちびカエルのくせに、どこか誇らしげに見えるのは、生存競争を勝ち抜いたからだろうか。 除染がこの田んぼに入れば、彼らは全部姿を消す。 オタマジャクシに手足が生えた子どもカエル 【筆者からのお願い】 筆者の取材活動への「投げ銭」のお願いです。福島第一原発事故関連の取材に関わる諸経費について、筆者はすべて自腹を切っています。こうした報道に経費を払う出版社も、もうほとんどありません。筆者の取材は読者からの「投げ銭」に支えられています。どうぞよろしくお願いします。PayPal、銀行口座など投げ銭の窓口と方法はこちらをご参照ください。
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