http://www.asyura2.com/14/genpatu39/msg/514.html
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久々に武蔵境さんのブログ見てたら、 牧野淳一郎さんの『原発事故と科学的方法』を書評されてたので
載せておきます。牧野さんがご自身のブログで学生時代の原発問題への関心の持ち方を知れば、牧野サンの
著書ももっと深く理解できるでしょう。
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METAPHYGICAL CLUB 武蔵境 さんのブログより
http://gmitaka.wordpress.com/2014/06/16/
『原発事故と科学的方法』 牧野淳一郎
牧野さんがツイッターで本書についてつぶやかれていたのは昨年のまだ暑かった頃だ。店頭に並んでから割合にすぐ購入して読んだのだが、しばらくの間忙しすぎ、感想を書き留めるのが遅くなった。仕方ないので、もう一度読んだ。すぐ読める100ベージくらいの本だ。
福島第一の事故直後、まともな情報がなかなか出てこない中で、ツイッターを中心にネットにかじりつく日々が続いたが、その中でいちばん冷静な見方をしていると感じ、共感するところの多かったのが牧野さんだった。穏やかで中温的なユーモアを背景にしたツイートは読んでいて不快になることも少なかった。もちろん、ネットを探せば批判も出てくるし、揶揄や罵倒の類いも存在している。牧野さんは、それらに対してどちらかというとあまり関わらずとおくから眺めるようにされていたと思う。
牧野さんの場合に限らないのだが、それらの批判的な言葉の源をたどっていきつくのは、つまるところ福島第一事故により放出された放射能が危険だとか、原発は危険だとかいう類いの主張に対しての強い拒絶だと言っていいと思う。つまり、これらの批判は、概ね、放射能事故はおきたが現状それほど危険な状態ではないし、あるいは、リスクを理解して振る舞えば特に人命に関わる問題にはならないのに、わざわざ騒ぎ立てるひとたちはどうにかならないのかというような観点から、説得しにかかったり、だめだとみると切り捨てたり、揶揄したりという行動をとるに至っているというパターンがほとんどではないかと思う。中でも、健康リスクを巡るネット内での議論はほとんどみるべきものはないと言ってもよいようなカオスで、より強いリスクを匂わせる発言はことごとくそうした人々からは反発される。これは反対に放射脳と揶揄される側も同じことで、どんな形であれ安全を強調する意見に対しては先入見や誤謬からのも含めてありとあらゆる悪意に満ちた攻撃がなされるなど、雑音が多すぎて、少しながめたくらいでは、一般の市民には何をどう理解してよいやら皆目見当がつかないのが実情だと思う。僕自身は、双方の主張から学ぶところは多かったし、ずいぶん参考にもさせてもらったのだが、予備知識の乏しい状態でそれらの議論にあたってもどっちの主張が正しいのかはよくわからないままだ。その原因も割合にはっきりしている。感情的な対立にエスカレートしている論争も、仔細にみていくと前提が食い違っていたり、データの解釈に相違があったりと、要するに議論の土台が整えられていないことが多く、双方の言い分が食い違っても判定する材料を欠いていることが多いのだ。
あの3月からしばらくの間、僕はツイッターにあふれている情報を選り分けてできるかぎりフィルタリングし、自分の解釈もそえて流すことをかなり意図的にやった。できるだけ多くの情報を中継するが、根拠のあやふやなものや参考にならないものは捨てる、もちろん反射的な作業をしているわけだから見落としもあるし間違いもあってデマ情報をリツイートしてしまったこともあったわけだが、僕のリツイートしたものは一応、そうした点検をしたものだ。本来僕のリツイートは自分の備忘で(後からあのときこんなことが話題になってたなと思ってサーチ・エンジンに向かうよりもTwilogを検索した方がはるかに効率的)それ自体にはフォロワーの方に対するメッセージは何もない。僕の関心事に興味があれば僕のフォローをしている人にはそれと関連した情報が回っていくだけのことと考えている(それでも、時々リツイートを内容に関する賛意を評したものと決めつけている議論に出会うと、多少は気になるので、気になる時はコメントつけるようにしているのだが、いちいちうるさいよ、ほんとに)。そのようなわけで、普段は、ツイッターのリツイート機能を自分の情報ポケットとして使っているので、あまり読む人のことは考えないのだけど、このときは、それなりに神経を使った。原発についてつぶやき始めてから、フォロワーの数もどんどん増えていったけど、誰のツイートをフォローすればだいたい状況がつかめるかが見え始めるのとだいたい前後して僕をフォローする人たちも減って落ち着いてきた。それはだいたいフォローすべき人をみんなフォローし、おおよその状況が把握されて発言者の色分けがすんでしまい、フォロワーの人たちの立場やものの見方も定まったからだろうと推測している。
本書は、その3月の11日からしばらくの間を振り返るところから始まる。
序章は、その事故後一週間の推移をご自分のツイッターでのログを振り返りながらまとめられていて、その間、いかに事故を過小にみせようとする動きが続いたかがあらためて明らかにされている。3月13日くらいでは、大量の放射性物質の放出は無いというアナウンスがされ続ける構造がほぼ定まり、14日の三号機の水素爆発に続いて実際には放射性物質の大量放出が起こっていたが、報道されることはなかったと書かれている。自分のログを見てみると、3月13日は双葉病院の190名が被爆したという情報のみ。14日はもっぱら輪番停電と電車運行の問題に目がいっている。放射能も気になっていたはずだが、東京で放射線量上昇のニュースが聞こえてきたのは15日で、それでもなお、東海村かな?なんて間抜けなことを呟いている。記憶が定かではないが、東海村の線量計が上昇という話があって、じゃ火元は東海村なのかと早のみこみしたせいかもしれない。いずれにせよ、この日が大放出の日だったのはだいぶ後になって分かったことだ。政府は、18日に事故レベルをレベル5に訂正したが、それまで4のままだったのかと怒っている。しかし、そのレベルすら過小評価であることはこの時点でもずいぶん言われていたと思う。牧野さんはこのように書いている。
政府は一週間たってやっと「レベル5」すなわち,多少は外に放出があるスリーマイルなみの事故,という認識を公式に発表しました.言い換えると,この時点までは基本的に放出があったことを認めていなかったわけです。
既に書いたように,実際には3月14日深夜から15日夕方までの何度かの大量の放射性物質の放出によって,関東一円が放射性物質の雲におおわれ,また福島原発の北西方向に高濃度汚染地帯が発生,福島市などの福島県中通りも汚染された,ということで,放出量はレベル5ではなくレベル7相当になっていました.(14ページ:脚注略)
つまり,政府が3月18日になってやっとINES(序章脚注7参照)レベル5にあげたのはまったく間違っていて,3月16日の時点でレベル7であり,そのことはデータから明らかだったわけです。(24ページ)
その16日に福島の事故はレベル7という指摘が海外であったという報道があり、それはぜんぜん大げさではないと思うと僕もツイートしているのだが、放射性物質の放出量については、政府も東電も分かりやすく説明してくれることはほとんどなかったわけで、多くの人が無用な被爆をした。被爆したという事実さえ丁寧に伝えられていないのではないかと思う。放射線量を実測してネットで提供してくれる人も増え、身の回りの危険についてはある程度把握できたので犬の散歩も普通にしていたが、それでも少ないとはいえ放射能汚染されたといっていいレベルで自分の住んでいる土地が汚染されているのに暗澹たる思いを抱いていたのを思い出す。21日前後が確か雨で、放射能が落ちるから外出しないように子供にいって自分も家に閉じこもっていたのを覚えている。部屋でパソコンに向かいながら、そんなことが現実に起こったということについてうまく対応できない感じを抱いていた。それは、両親が亡くなったときに即座に現実になじめなかった感じとも似ていた。彼岸になって、花も咲き始めていたし、いつものように春は来て暖かくなり始めていたのに、犬の散歩もいつもどおりにできるのに、そこにはまだ半減期を過ぎかけているくらいのヨウ素もあればいまの約二倍の量のセシウムもあったわけだ。死と同じように、放射能も現実の問題として忘れることもできないが、それだけにとらわれることもできず、なんとか対処していかねばならないものだったからだ。
牧野さんは、かつて原発事故について学んだ経験から、そのような情報を出さない政府の対応が原発事故を起こした政府機関共通のものであることを知っていたと書く。ならば、自分で状況を把握し判断しなければならなくなるとも。事故直後にこれは僕自身が感じたことでもある。門外漢と言われようが、乏しい情報から実際に起こった事を確認する努力を続けている牧野さんの発言をいわゆる「放射脳」側の言葉として軽んずる向きもだいぶあるようだし、その推論に対する否定的な意見も専門家からのものも含めて様々目にする。特に、健康被害に関する議論については、そもそも専門外のこととしてご本人も自分の意見を言いつのるわけでもないし、牧野さんの書いていることがみんな正しいわけでもないだろう。しかし、大事なのは、政府の公式見解によらずに、自分の目でみて調べて考えたことに基づいて推論することだ。そして、それが、高校程度の数学の知識でどうにかなることをこの本で牧野さんは強調している。実際に原発被害がどの程度であったかの考察自体はネットですでに公表されているものばかりで、読みたければこの本を買わなくてもいつでも読める。むしろ、その推計の元となる概算の方法、基礎となる数学的推論の方法について、広く伝えることに重きをおいて本書は書かれていると思う。311以降、市民と科学の関わりについてもよく議論されてきたが、「専門家がまとめた結果を市民に伝える」ではなくて、「市民自らが科学的に考える」をどのようにして進めていったらよいかに対する、ひとつの小さなガイドなんだろう。
ところで、科学者とリスク・コミュニケーションのあり方に関する論文や議論をながめていても少しもすっきりしないのは、それらが科学者コミュニティと一般大衆という概念、行政と一般大衆という枠組みを前提にしていて、決まりを作るものと、決まりを受け入れるものという発想に知らず知らずの内に縛られているからだ。災害が発生したときに、行政、政治家、科学者、住民、メディアなどの様々な立場の人々に対して、どのような役割や責任を果たすことが必要かを啓蒙するといった議論は、僕はすべて官製の議論だといって差し支えないと思う。災害時に行政府は何をなすべきか、学者のコミュニティはそれに対してどのようなアドバイスをすればよいのか、あるいは、政府が正しくない方向に向いたときにどうしたらよいかという種類の議論は個人の自由や裁量よりも秩序を優先していて、多少の違いはあっても、ほぼステロタイプに過ぎないと思える。つまり、何が正しいかをどうやって決めるのか、いかにしてそれを周知するのかという考え方は、結局のところ唯一の正しい考え方にいかにして一般大衆を従わせるのかという驕った考え方をどこかに潜ませているという点で同工異曲だからだ。
僕は、放射能の健康被害について、事故後考え方を変えた事はない。微量・長期の被爆がどのような影響を与えるのか、現在の福島の危険性はどの程度なのかといったそもそもボーダーライン上にあるような議論は、どちらの見解をとるにせよ素人には判断が難しいし、学者の言う事も断片的で、責任ある総合的な判断として依存するに足る見解は皆無だ。僕には、確定的なことはなにひとつないように見える。放射能被害をめぐるほとんどの議論は、汚染が規定事実になってから後だけを堂々巡りしている。それが発生した根本原因と、その責任の所在についての追求は、事故調査報告で一部なされようとしたけれど、国会自らがその報告を拒否して、国会で取り上げず、検討どころか報告すらさせずに政権交代を迎えたことで、強引に終わらされた。既存の大メディアは、そのことについてほとんど正面からは追求してこなかったのではないか?原発事故に関する政府の責任を有耶無耶の内に処理した国会の責任は重いが、事実上それを黙認した大メディアは戦争中となんら変わらない体質であることを公にしたのと同じだ。政府の世論誘導は大メディアと巧みに協力関係を築きながら周到に進められて、ほぼ成功し、原発再稼働に関する国民の反対もほとんど抵抗力にならないレベルに押さえられてしまった。この流れに対して、学者のコミュニティは、政治的な議論を避けて科学的事実の追求にだけかまけたことから、何の抵抗もできずに終わっただけではなく、それどころか、事実上、政府の原始力復興推進の強力なサポーターになってしまっている。東大話法という言葉が話題になったが、要するに知らず知らず「権力側」の意思に背かない言葉を探して発言するのを習慣にしているため、こうした議論の進め方は、真の問題を覆い隠してしまうのだ。
以前書いたことがあったと思うが、科学の特徴は後戻りしないところにある。試行錯誤はあるし、多数の主張が登場して収集のつかない状況もいくらでもありうるが、現実が、つまり、自然の側が理論を選択する仕組みが科学には取り込まれているので、自然と誤りは淘汰されていく。一度確認されてコンセンサスが得られた理論はそれより詳しい理解によって新しい知見に乗り換えられる形でしか進化しないようになっている。論文を発表し、読み、議論をしという学者の日常は、短期的に見ると行きつ戻りつをするし、その時代の先端部分をのぞけば必ず混沌は存在するわけだが、永続することはない。それは、自然の側から選び取られる。その仕組みとは、実験であったり、事実の調査であったり、事象の観察であったり、やり方には様々だが、つまるところは自然の観察ということにつきる。放射能リスクの問題が蛇行するのは、その肝心の観察が政府の機関に独占されていたり、米国の支配にあったりした歴史を内包していることと、その観察の機会がきわめて限られていて、一般化も困難な状況でのものであったりすることに由来している。理論的な考察はある程度できる。しかし、実際には、人体で確認する以外に方法はない上に、統計的な処理が必ず必要になるため、短期間には答えが導けないという制約もある。現時点で確定的な意見が出ているのは、強い放射線を医療やその他の事故などを通じて実際に経験している専門家からのものか、チェルノブイリを初めとした原発事故の事例からのものか、それ以前からの疫学調査のものだ。それ以前の疫学調査=広島、長崎だから、事実かどうかはいざ知らず、改憲派がよくいうように当然「アメリカ軍におしつけられた」調査であったと考えたっていいわけだ。また、原爆と原発事故では放出される物質の種類や量もことなるだろうし、論争を呼んだと言われるマンクーゾの調査報告などをみても、微量・長期の問題は、どちらにしても統計的にそのインパクトをどのように導くかがすべてであって、自分の身の回りで起こった事を直ちに一般化できない難しさもある。ここしばらく論議を呼んでいた鼻血問題も、結局のところ、実体験の安直な一般化にまつわる問題点が浮かび上がっただけで、どちらの意見にも結局納得などできなかったのだ。いちばんもっともらしい放射線を使う医者の経験からの意見も放射線技師の知識からの意見も、たかだか彼らのキャリア10年か20年そこらの狭い体験からの一般化に過ぎない場合も多々あるのではないかとすら僕は疑っている。実体験などくそくらえである。確定的なことが言えるほどの個別の放射線被爆体験をどのくらい彼らは収集し分析したのか?そうした「僕たちいつも大量の放射線患者に投与していますが何か?」的な発言を聞くたびにがっかりするのは、狭い領域でメリットと比較した上で受容されている放射線活用の話しと、無差別に野に放たれた放射性物質に対する社会的な受け入れの問題を彼らが故意に無視しているか、まったくそれに気づいていないことを思い知らされるからである。放射線に関する社会的な選択の機会を与えるという課題について無頓着過ぎるのである。
ぼくは事故後しばらくこうした放射能リスクにまつわる議論を眺めていて、そんな議論は学者にまかせて、僕ら市民は、決着のついてないようなリスクを受け入れることは断固拒否して、まずは事故以前のレベルを是とするところから、どこまでの譲歩ができるのかを各個人が自分の考えで決めていくしかないし、そのために政府はできる限りの情報を提供し、住民の放射能許容に関する承認を得る活動を最優先でするべきだと考えて、そのように書いた記憶もある。だから、僕なら、一介の市民として、どの学者の意見も拒否して、以前と同じ基準を要求する。なぜ、この状況で、われわれは、どちらかの意見を受け入れなければならないのだ?原発の危険性を評価するのは市民だ。十分に論理的に、事実に基づき、理論的にも納得のいく解が提供されていない状況で、判断を求められてもやり直してこいと言わざるを得ない。
しかし、もちろん、そうした意見が聞き入れられる事態はやってこなかった。政府は、住民が判断するべきことを勝手に判断し基準を設定し、線引きをした。それだけではなく、住民が受け入れるべきリスクについても政府として決めているのだ。リスクを高くみる人々とも、低くみる人々とも、根底から僕の意見があわないのはこの点なのだ。リスクの受け入れ基準は、学者が決めることでも、政府が決めることでもない。政府の諮問機関などで学者が作った案や政府が独自にまとめた案で住民の了解を得るというやり方も最早正しくはない。そのような従来の行政と住民、学者コミュニティの関わり方では解決しない問題が生じているととらえるべきで、その認識の欠如から発生するカオスがこの放射能による健康被害を巡る泥仕合のような議論の数々だと思ったらよいと僕は思う。
(1) 実際、放出されないと言われてきた放射能が放出された。いったいこの事に対して、政府はどう責任をとるのか、明確ではない。
(2) 5重の壁は破られた。これは、今後どう考えればいいのか、他の原発では破られなかったのはなぜか、福島第一は古い設計の特殊例で、今後は、もう福島第一のようなことは起こらないのか、誰か答えてくれているだろうか。
(3) 避難を余儀なくされた住民は、なぜ、他の地域には存在しない放射線量を受容し、生活を継続しなければならないのか。
こうした問題を置き去りにして、現実の放射線被害の程度についてだけ議論を集中させているのは完全なすりかえである。人を殴っておいて、一週間したらもう何も分からない程度なんだから、自分は悪くないと言われたら、普通人は怒るだろう。政府と大メディアがやっているのはそれとほとんど同じことだ。そもそも、そんな議論に巻き込まれなければならない理由など存在しない。
牧野さんの本を出しにして、随分関係ないことを書いた。もちろん、牧野さんの本は、そんなことまで触れていないし、書かれている内容もどちらかというと、穏やかだ。なぜ、事故直後学者はでたらめな内容をツイートしてしまったのかという品のいい先生の界隈ではなかなか目にしない言葉がストレートに書かれているという面はあるが、それが本題というわけではない。そういうこともあるので、自分の身は自分で守れ、簡単な科学知識で、この事態の概要を理解することはいくらでもできるのだから、というのが本書を執筆した動機だろう。政治は原発事故に際して必ず嘘をつくという武谷さん由来の言葉も率直に書かれていて、けれんみが無い。あまり密度の濃い本ではないけど、すぐ読めるし、科学を道具として活用することがどういうことか理解できるだろう。ツイッターの投稿を無断で引用するのはけしからんみたいなくだらない話しもあったが、ネットでのやりとりが世論形成の重要な部分を占めつつあることも看取できるのではないか。
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