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東電福島第一原発事故後、取り残された双葉町で「5人餓死」の疑い判明 自民党は「原発事故で死者はいない」と強弁し続けるが(河北新報)
http://financegreenwatch.org/jp/?p=45058
7月 3rd, 2014 Finance GreenWatch
福島県大熊町で遺体の収容作業に当たる警察官ら。原発周辺では餓死が疑われるケースもあった=2011年3月27日(福島県警提供)
<2週間近く独り>
福島県双葉町下羽鳥の本林チイさん(79)は死を覚悟した。
「誰も助けに来ない。人生はこれで終わりか」。暗闇の中で、布団に横たわるしかなかった。
福島第1原発事故で双葉町全町民の本格的な避難が始まったのは2011年3月12日。24日に自衛隊に救助されるまで2週間近く、本林さんは原発の北西約5キロにある自宅に独り取り残された。
電気、ガス、水道といったライフラインは途絶えていた。電話は使えず、防災無線も聞こえなかった。
灯油ストーブに鍋を載せ、ペットボトルのお茶でご飯を炊いた。まずくて1口しか食べられない。飢えは保存していた梅干しやシソ巻き、お茶でしのいだ。
12日に1号機、14日に3号機が水素爆発した。そうした深刻な事態を迎えていることは、事故後にラジオを見つけるまで知らなかった。
救助までの間、上空のヘリコプターに赤い風呂敷を振ったり、畑に旗を立てたりしたものの、応答はなかった。
同居していた長男(53)は3月11日から車で出掛けて不在だった。車がなかったため、一緒に避難したと勘違いされたとみられる。
本林さんは「運が良かった。同じ境遇で亡くなった人は無念さと絶望感を味わったはず」と語る。
<5人が衰弱死か>
事故後しばらくして、双葉町両竹地区で男性の遺体が発見された。死亡推定日は3月21日。本林さん救出の3日前だ。
「原発事故さえなければ助かった。なぜもっと見回らなかったのか」。両竹地区の区長の斉藤六郎さん(76)は悔いる。
斉藤さんは東日本大震災直後、地区内を1軒ずつ回ろうとした。途中で津波に流され、危ういところで助かった。原発事故も重なった状況下では、完璧な安否確認は誰であっても無理だった。
福島第1原発周辺の旧警戒区域内で事故後、少なくとも5人が衰弱死とみられる遺体で見つかっている。福島県警の正式な統計はないが、取り残された人は確かにいた。
高線量という過酷な環境で、警察や自衛隊の捜索は要請があった場所が中心となった。県警幹部は「避難区域の家をしらみつぶしに回るのは不可能だった」と吐露する。
<「決死隊が必要」>
原発事故から3年が過ぎ、東北の原発立地地域で新たな避難計画の策定が進む。
強い放射線で出歩くことも危なくなった場合、住民の救助をどう進めるのか。東北のある自治体の担当者は「詰めた議論はしていない」と打ち明けた上で、「ある程度の危険を覚悟した決死隊的な組織が必要かもしれない」と言う。
双葉町民の避難を進めた井戸川克隆前町長は「100%完全な安否確認は不可能」との見方を示す。「確認の精度を上げるには、双葉町民の実体験と同じ規模で避難訓練をしてもらうしかないでしょう」
◇
原子力災害からの避難には救助や移動、収容までいくつものハードルが待ち構える。東北の原発立地地域では新たな避難計画づくりが進むものの、関連死も含めた犠牲を防がなければ意味がない。自治体が描く計画に実効性は期待できるのか。福島の事故を振り返りながら課題を追った。(原子力問題取材班)=第13部は6回続き
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