03. taked4700 2014年6月20日 15:22:50
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http://www3.plala.or.jp/kantei/baisyo3.html 第3回 「公共用地補償基準」とは2013/3/11 世間一般ではあまり聞きなれない言葉ですが、正式名称は「公共用地取得に伴う損失補償基準要綱」というもので、通称「用対連基準」「用対連単価」といわれるものです。 国、都道府県、市町村等の公共団体や旧道路公団、旧鉄道公団、各電力会社等が、道路・鉄道・ダム・送電線等を建設・設置する場合に、必要となる土地・建物・地上の立木等を、土地収用法の規定に基づいて、合意に基づく買収あるいは強制的な「収用」を行う場合に、その損失を補償するための公正な基準を定めたものです。 法治国家日本では、国民の財産である土地や建物を、いくら公共性が強いからといっても、一方的に、強制的に召し上げる・収用することは許されていません。 国の基本法である日本国憲法は第29条で国民の財産権の保護を以下の通り定めています。 第29条 財産権は、これを侵してはならない。 2. 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。 3. 私的財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。 この29条3項の規定に基づいて、土地収用法や「公共用地取得に伴う補償基準」が定められているわけです。 では、「正当な補償」の具体的な内容や金額はどうなのでしょうか。 判例・学説は「完全補償説」と「相当補償説」に分かれています。 「完全補償説」は、「・・・生じた損失のすべてについての完全な補償を要する」とする考え方です。 「相当補償説」は、「・・・規制目的や社会、経済状況等を考慮し、合理的に算出された額であればよい」とする考え方です。 判例はどうでしょうか。最高裁昭和48年10月18日判決(土地収用補償金請求事件)は以下の通り、完全補償説に立っています。 『土地収用法における損失の補償は、特定の公益上必要な事業のために土地が収用される場合、その収用によって当該土地の所有者等が被る特別な犠牲の回復をはかることを目的とするものであるから、完全な補償、すなわち、収用の前後を通じて被収用者の財産価値を等しくならしめるような補償をなすべきであり、金銭を持って補償する場合には、被収用者が近傍において被収用地と同等の代替地を取得することをうるに足りる金額の補償を要する』 原発事故により生じた損失・損害の賠償問題を考える際の出発点、原点はここにあるのではないでしょうか。 この最高裁の判決は鳥取県内の都市計画道路建設についてのものですが、これは、適法な公権力の行使に伴う「損失補償」のケースです。 東京電力に対する原発事故の賠償請求は、東京電力の不法行為に基づく「損害賠償」であり、不動産の損害額の評価・算定にあたっても、その事情は当然のこととして反映されるべきです。 その意味からいっても、土地や建物等の不動産の賠償請求の基準は「公共用地の取得に伴う損失補償基準」によるのが最も妥当な解決策であることは明らかなことです。 **************************** http://www3.plala.or.jp/kantei/baisyo13.html 第13回 「公共補償基準」の考え方(1) 2013/7/1 ダムの底に村落や集落が沈む場合、一般住民の土地や建物に適用されるのが「公共用地の取得に伴う損失補償基準」であり、市町村等が所有する公共施設(道路・橋・学校等)に適用されるのが「公共事業の施行に伴う公共補償基準」であることは、当コラムでも何回も書いてきました。 両者は表現は似ていますが、内容は大違いであることも強調してきましたが、後者の「公共補償基準」については具体例や解説書が少なく、さまざまなルートを通して手掛かりを探してきました。 ようやく、県庁OBで旧河川開発課(現在の河川港湾領域・ダムグループ)に永年在職したW氏の紹介で、三春ダムに大きな手掛かりがあることが分かりました。 1972年着工、1998年竣工の三春ダムについて、用地交渉の時期も含めて6期24年間三春町長を務めた伊藤寛氏に話を聞くのが最良・最短の道ではないかとのアドバイスでした。 早速、人を介して前町長に面会・面談を申し込み、6月23日の日曜日に自宅を訪ねました。 4ページにわたるレジメを準備され、「損失補償基準」と「公共補償基準」の違いから、三春ダムの準備・交渉時の苦労話など、内容の豊富な講義を2時間以上も拝聴することができました。 前町長の了解を得て、原発の賠償問題を集中的に取材しているNHK福島放送局の記者も同行したのですが、最後は、伊藤町長からNHK側が逆取材されたり、事実確認の取材を受けたりと、収穫の多い訪問でした。 伊藤前町長が作成された準備メモの主要な論点を以下にご紹介します。 まず、ダム建設に伴う補償と原発災害による賠償を明確に区別しながら、ダム建設に伴う補償の理論・実践・歴史から学ぶことの大切さを前町長は述べています。 (1)補償と賠償、目的・方向性の違い。 補償は、公共事業という前向きなことがらを実施するために生ずる損失・損害に対応する考え方であるのに対し、賠償は、原発事故によって生じた損害、いかに対応するかという考え方であり、方向性・目的に大きな違いがある。 (2)責任の所在と大きさの違い。 ダム建設に伴う損失補償は、公権力の実行によって生じる損失・損害に対する公的責任として実施される。原発事故の賠償責任は、事業者の過失によって生じた損害に対する事業者責任である。 (3)賠償基準の明確化の必要性。 ダム建設補償の場合、歴史的経過を踏まえて、損失補償基準・公共補償基準が定まってきた。それに対して、原発賠償の場合、賠償基準を作成する主体が明確になっていない。原陪審(文科省・原子力損害賠償紛争審査会)が責任をもって作成するのか、経産省(資源エネルギー庁)・東京電力が作成するのかも不明確。公共補償基準の考え方を採用するのか否かも明確でない。その根底・背景には、東電の企業負担の軽減化があるのではないか。 (4)移転を目的とする補償か、帰還を前提にした補償・賠償か。 ダム建設の場合は、移転を目的として、移転に伴う損失補償・公共補償であるのに対比して、原発被災の場合、帰還できることを前提にした補償・賠償という前提条件の違いがある。 (5)帰還の前提条件の曖昧さ・流動性・見通し難。 ○除染の可能性と現実性 ○避難生活の長期化と生活実態の非人間性 ○強制避難と自主避難の区分・区別による被災者の分断 ……など、課題は重く、大きい。 (6)個人の生活再建と共同体の再建、どちらを優先するか。 建前でなく、本音の議論が求められている。絆を重視する共同体理念の重要性と個人の主体性重視……共同体が呪縛にもなる。 (7)原発事故の過酷さに、どのように向き合えるか。 ○被災自治体存続の見通しはあるのか……双葉町・大熊町は存続できるのか。 ○「仮の町」構想の曖昧さ。 ○為政者の覚悟・責任の大きさ。 ○被災自治体の主体性の無さ。 ○被災自治体と(被災者)受け入れ自治体の「自治連携」により、国の方針待ちでなく、国を動かす……中央集権の意識脱却が求められているのではないか。 以上が伊藤前町長が事前に準備されたレジメを基に、実際の質疑メモを加筆したものです。 前町長からは参考文献として、華山謙著「用地補償の手引」(鹿島出版会)を紹介していただきました。 アマゾンの中古購入ルートで原本を入手しましたので、熟読玩味した上で、損失補償と公共補償の違いや共通点を次回のコラムでご紹介します。 ************************** http://www3.plala.or.jp/kantei/baisyo14.html 第14回 「公共補償基準」の考え方(2) 2013/7/16 三春町前町長の伊藤寛氏の助言・提言に従って、損失補償と公共補償の考え方の違いや特徴について調べました。 参考にした文献・資料は華山謙著「用地補償の手引」(鹿島出版会S57年刊)、後藤幸弥(三春ダム工事事務所副所長)著「三春ダム建設に伴う損失補償と代替地対策」(ダム日本NO.486)、「七ヶ宿ダム補償と生活再建」(東北地方建設局刊、昭和59年)、「公共事業の施行に伴う公共補償基準要綱(昭和42年2月21日閣議決定)の4点です。 まず、「用地補償の手引」の解説文を検討します。引用部分は『・・・・・・』として区別します。 『公共補償の方法は、次の三つの場合に分けられる。 ○存続させる必要のある既存の施設に対しては、その施設の機能回復 ○廃止しても公益上支障のない施設に対しては、『一般補償要綱』による ○地方公共団体の費用増に対しては、その費用増分の負担』 『機能回復による場合 公共施設等は、地域の住民の生活にとって不可欠のものであり、公共事業によって機能に障害の生ずることは許されない。起業者は、したがって公共施設等の機能の回復を図る原則にしたがって補償を行わなければならないが、その場合の補償の方法は、金銭補償を原則とするが、やむをえない場合には現物補償が認められており(第4条)、実際にも現物による補償(補償工事と呼ばれることが多い)が多く認められる。』 つまり、公共補償の場合は、一般補償と違った扱いとなり、建物や施設について、現物による補償(補償工事とよばれ、新築・新設による機能回復)が多いということ。 『金銭補償による場合の補償は、土地代、建設費または移転費、建設雑費その他の通常要する費用に大別されるが、土地代については機能を維持する上で合理的な地点がまず選定されて、その土地の取得費(造成費を含む)が補償される(7条)。ここでは「一般補償要綱」にみられた市場価格の原則は、まったく認められていない。』 以上の記述は、分かりにくい表現ですが、移転する場合には、機能を維持する上で合理的な地点であれば、土地の取得費が補償されるということです。一般補償の場合には、従来の土地の「市場価格」が補償されるだけであるのに比べて、新しい場所(移転先)の土地価格(取得費)が補償されるわけで、その違いは非常に大きなものです。 『建設費補償の場合に減価償却費を差し引くことに関しても、やむをえない場合には減価償却費を控除せずに建設費全額を補償することができることになっている(8条)。』 この規定は、公共補償の場合は、築後数十年経過した建物でも減価償却(経年減価)をしないで補償をすることができる、という規定です。 この考え方を、事実上帰還が困難な原発被災地の住宅等に適用すれば、こと建物に関しては、賠償問題の大部分が解決できることになります。 『このように公共施設に対する補償は一般補償の場合にくらべて被補償者にとり有利な点が多くみられる。しかし、これらの点はいずれも、「・・・できるものとする」という形で表現されており、起業者に対する強制力をもつものではない。起業者が被補償者との交渉において妥協できる余地を残すためのものとみることもできよう。』 『関係する条文はいずれも「・・・することができるものとする」という表現形式になっており、起業者は補償を義務づけられてはいない。補償の適否と程度とは起業者と地方公共団体との交渉に任されているといってよい。』 『公共補償における機能回復原則は、それ自体ひとつの補償概念の拡張である。とくに『公共補償要綱』では、公共施設の範囲を、国や地方公共団体の管理する施設ばかりでなく、農業協同組合や森林組合にような公益法人の管理する施設や、実定法上には根拠のない村落共同体の管理する施設にまで拡げ、しかも施設の概念の中には、公共機関が積極的に造成管理しているものだけでなく、自然施設(住民が自由に使用することができ、住民一般の福祉の向上に役立つ自然の状態)をも含めることとしているから、公共補償における補償の概念は『一般補償要綱』における補償の概念よりもかなり広い。その結果、たとえば市町村の管財目録には記載されていない集会所の補償として、公民館がつくられることは珍しくないし、ダムの建設によって水遊びができなくなる渓流の代替として、小学校にプールがつくられることも少なくない。』 『補償技術は公共事業の推進にとってのオールマイティーではない。しかし、きわめて重要な要素で、それなくしては公共事業がなり立たないという意味での不可欠の条件であることに間違いない。』 以上が、30年前に、華山謙(はなやま ゆずる)氏が「用地補償の手引」の中で展開している理論・分析ですが、福島第一原発事故によってもたらされた原発賠償問題を解明する上で、大きな理論的支柱になるものです。 7月12日(金)に双葉町の「帰還困難区域」内にある住宅の現地調査に行ってきました。結論的に言うと、浪江・双葉・大熊・富岡の4町に町としての機能が回復され、人が安心して住めるようになるには、数十年単位の時間が必要だとの思いが一層強まりました。 そのことをふまえた上で、公共機関(町)も一般住民も、「帰還可能論・帰還願望論」から、一歩踏み出す覚悟が求められているのではないでしょうか。 次回は、「公共補償基準」の考え方(3)として、少なくとも、除染不可能=帰還不可能地域内の財物賠償については、「公共補償基準」による以外に妥当な「賠償基準」はないし、ありえないことを述べる予定です。 *************************** http://www3.plala.or.jp/kantei/baisyo16.html 第16回 「公共補償基準」の考え方(3) 2013/10/3 前回のコラムから2ヶ月程、間があいてしまいました。 夏休みをとったり、別のテーマ(被災地の復興に関わる大型プロジェクト。年内には公表できそうです。ご期待下さい。)に集中的に取りくんでいたために遅れてしまいました。 新聞報道によれば、2013年9月10日に文部科学省の「原子力損害賠償紛争審議会」は、「現状の賠償は住宅再取得に不十分で、上乗せすべきだ」との考えで一致。能見善久会長は「次回に具体案を示したい」と述べたと伝えられています。 公共事業で住民の家屋を移転させる際には、住民が同じ程度の家屋を別の場所で買えるように、実勢価格に上乗せした補償金を国や自治体が支払っている。審査会はこうした運用を参考に具体案を定める。・・・と報じられています。 原賠審もようやく重い腰を上げ、被災者の側に一歩近づいてきそうだという感じがします。 しかし、原発被害の実際の「賠償規準」を作成しているのは経産省・資源エネルギー庁であり、その裏では、損害賠償や「損失補償」の実務者集団を抱えている東京電力が「実務」を支えていることは「周知の事実」です。 6月22日(土)に福島ビューホテルで開催された原賠審を、私も傍聴しました。能見会長をはじめ各委員が、真面目に、真剣に取りくんでいる姿勢は十分に理解できました。 しかし、所詮、「素人集団」ではないかとの思いが強く残ったのも事実です。資源エネルギー庁や東京電力の百戦錬磨の「知恵者集団」に、肝心なところは抑え込まれてしまうのではないかとの思いが、どうしても残ります。 しかし、何はともあれ、「公共事業で住民の家屋を移転させる際の・・・」という方向に進みそうだということは大きな一歩だと評価できます。 従来の東京電力の財物賠償基準が、「失われた財産価値」に対する賠償の枠から一歩も出ないものであったのに比べれば、大きな前進の可能性を期待できるのかもしれません。 このコラムでは、原発被災地の実態は、地域全体がダムの底に沈むと同じように考えるのが、現地の実状に一番合っていると、繰り返し指摘してきました。 しかも、「失われた財産価値」に対する補償・賠償に止まるのではなく、「失われた生活機能」の回復を図れる賠償であるべきだと繰り返し述べてきました。 ここで改めて、その論拠について議論を深め、理由を分析することにします。 まず、福島第一原発の10q圏内を含む「帰還困難区域」は、今後30年〜40年は文字通り帰還困難であることを、国の指導部がまず認めることです。 復興も再生もここが出発点です。 客観情勢が「敗戦必至」であることを指導者達は十分に理解していながら、本土空襲・沖縄地上戦・2発の原爆投下・ソ連の参戦といたずらに時間を空費し、結果として国家・国民の犠牲を過大にした、過去の教訓から何も学んでいないのでしょうか。 福島原発の現状は、問題を先送りすることで何とかなるレベルのことではないのです。 事実をありのままに認め、除染困難=帰還困難な地域が広く存在することを、国家の最高責任者が明言し、その現実を大前提として、被災者対策も復興策も立てる以外に道はないのです。 浪江・双葉・大熊・富岡4町の大部分が、除染不可能・帰還不可能であることを認めれば、自ずと解決の方向は見えてくるはずです。 4町の場合、町としての機能を何処に、どの程度の規模で移転できるのか、具体的な検討課題にすべき時期にきています。 その場合、 ○町と共に移転する住民 ○個別に新天地に移住・定住する住民 ○現在の避難地に定住する住民 ・・・と対応が分かれるのはやむを得ないことだし、各々の場合に十分な対応策を講ずるのも当然のことです。 この対応策を具体化するという前提に立てば、住民も含めた町としての「機能移転」・「代替施設の建設・提供」という「公共補償」基準の適用要件を十分に満たすことになることは明々白々です。 4町が一つの自治体(町・市)として再建・再生するのも、一つの方向性としては検討に値するのではないでしょうか。 地理的条件、住民意識、被災住民としての課題の共通性、町としての機能性等を十分に話し合い、検討を続けることで「明るい」展望も見えてくるような気がします。 外部の人間としては言いにくいことですが、4町とその住民は存立の基盤を失ったという現実を直視し、「新天地」を新たな地域に建設することに力を注ぐ時に来ているのではないでしょうか。 町と共に移転する住民だけでなく、個別に移転する住民にも「機能移転」・「失われた生活機能の回復」という意味で、「公共補償」基準を適用するのが、現時点で最も合理的かつ現実的な解決策であるとの結論に到達しました。 町と住民が移転した跡地は国が「公共補償」基準で買い上げて、中間処理施設 ⇒ 最終処分場として利用すれば、周辺地域の除染作業も一挙に進むことになり、文字通り一挙両得になるのではないでしょうか。 東京電力だけに責任を被せるのではなく、原発事故の「真の責任者」である国が前面に立ち、「公共補償」基準の考えに基づいて「町と住民」に対する賠償責任を果たすことが、国家の最高指導者に対して、今、求められていることではないでしょうか。 国家・国民に対する責任を果たすだけでなく、歴史に責任を持つ覚悟が求められているのです。 このコラムに以下のコメントを頂きましたのでご紹介いたします。なお、コメントを書いた白瀬白洞さんは浪江で被災し、今、京都に避難されている方で、川柳の大家(http://www.geocities.jp/m_shilar/)です。 誰が考えても納得する提言がなされています。特に「町と住民が移転した跡地は国が「公共補償」基準で買い上げて、中間処理施設⇒最終処分場として利用すれば、周辺地域の除染作業も一挙に進むことになり、文字通り一挙両得になるのではないでしょうか。」の指摘は、事故直後から考えている自分の考えとマッチするものであり、東電も国も根底の考えにはこれがあるはずです。それが表面的な施策や表面上の小手先でたてた予算でごまかそうとする考えが見え隠れするから、根本的解決に向かわないのです。今はもうそんな時間的余裕がありません。提言を実行すべきです。 |