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自分の調書「公開されるべきだ」 細野証言の詳報
http://www.asahi.com/articles/ASG61664PG61UEHF009.html
2014年6月2日11時02分 朝日新聞
インタビューに答える細野豪志氏=2014年5月27、東京都千代田区永田町2丁目、木村英昭撮影
東京電力福島第一原発の事故に首相補佐官として対処し、吉田昌郎(まさお)所長との連絡役を務めた細野豪志氏が朝日新聞のインタビューに応じた。
インタビューに答える細野豪志氏=2014年5月27日、東京都千代田区永田町2丁目、宮崎知己撮影
細野氏は事故から3年が経過し「記憶の限界に来ている。そろそろ話さなければいけない」と考えていた矢先に「吉田調書」報道が出て、証言を決心したという。
細野氏との一問一答は次の通り。(肩書は原則当時)
福島第一原子力発電所の免震重要棟で、細野豪志・原発担当相(右)と話す吉田昌郎所長=2011年11月12日午後0時18分、福島県大熊町、相場郁朗撮影
■吉田さんの人柄
――事故を通じて、事故後も含めて吉田さんと交流を続けた細野さんから、吉田さんの人柄を含めて思い出を聞きたい。
細野「私の吉田所長の記憶は15、16、17日くらいまでの本当に危機的な状況での記憶っていうのは一つひとつ大きいんですが、それ以上にその後のいろいろなことの方が鮮明に残っています。吉田さんの人柄をわりとよく表していると思うのは、現場の作業がギリギリの状況だったんで、私は『休んでもらわないと、もたない』と思ったが、そういう状況じゃないとずっと言い続けていた人だった。さすがにもたないということで、船を用意したのはいつごろか、いわきとか、あの辺に休める場所を取ろうと思ったが、『それは取ってくれるな』と。『我々はやり続けるしかない』と。でも、もうもたないと思ったんで、政府で船をチャーターして船で休んでもらった。これは実際に運用したのは2、3週間だったと思うが、研修船みたいなのがあって、そこで寝て、ご飯を食べられるという船がチャーターできたんで、1Fの人に休んでもらった。『そういうことを考えるならば被災者の方のことを考えてくれ』と。つまり東電作業員の待遇を考えるなら、避難していて体育館で雑魚寝している人がいっぱいいるから、そっちを考えてくれと。後からいろんなことがあってですね、4月ごろにあまりに東電作業員の環境が悪すぎるということで議論になったんです。医者が4月あたまに写真を撮ってきて公開してだいぶ問題になって。いろいろと、やってはきていたんですが、吉田所長の言葉がどこかに残っていて、船をチャーターしてきたりとか、でも十分ケアしきれず、NRCのカストーからかなり言われたことがあった。現場作業員をもっと大事にしろとかなり強く言われたことがあって。それに対して私が吉田所長からこういう言葉があったというと、カストーが絶句していた。そういうちょっと、ややまあ浪花節ではあるんだけど、今は我々の頑張りどころだという意識はあった。ただ4月からは状況も変わっているし、吉田さんとも相談して、許認可も出して、状況を良くするのに努力しましたけどね」
(1F=福島第一原子力発電所、いわき=福島県いわき市、NRCのカストー=チャールズ・カストー米原子力規制委員会専門家チーム責任者、浪花節=損得ではなく義理や人情を重んじるさま)
――彼の知見は政府で生かしたいという考えはなかったか。
細野「私にはあったし、吉田さんにもそういう思いはあったと思う。私はお見舞いに行った。吉田さんが所長から退いて、12年の4月。2人で少し話した。吉田所長がおっしゃったのは、現場をサポートする役をしないといけないので、絶対現場に戻るんだということはおっしゃっていました。必ず戻っていただけるとも思っていたんで。あとは、すごく気にしていたのは、自分たちは当事者で、年齢的にいってもこの世界で生きて行くしかないからちゃんとやりきる。ただ、次の世代がどうなるかはすごく問題だと言ってました。なかなか原子力の専門家がそれを若い人が選択しにくくなるし、実際に1Fの廃炉ということになると30年、40年かかるわけじゃないですか。何世代も継いでいかないと廃炉できない。本当に深刻だと言っていた。政府としてもしっかりやってくれと言われたのを覚えている」
(廃炉=原子炉の解体)
――若い技術者が廃炉という重い課題を分かっていて原子力工学を学ぶ人が減るという厳しさですか?
細野「将来をすごく心配していた」
■ある構想
――吉田さんのころは原子力は未来のエネルギーだというイメージを持って原子力工学を選んだ人たちがいっぱいいたと思う。
細野「私は言わなかったが所長には、当時考えていたのは、事故の教訓を本当に学ばないといけないし、若い人に知ってもらう必要があると思ったので、原子力の安全研究の組織を作らないといけないと。危機管理をそこで学ばないといけないと。そういう組織を作るべきだと。国の機関として。そのトップを吉田さんにやってもらうしかないと当時は思っていた。たぶんあの人は、1回は現場に近い所に戻るだろうと。少なくとも、もともとそういう立場の人だし。でもそれが一段落したら、人材育成ですよね。廃炉にするにしても、危機管理対応にしても、吉田さんにやってもらうのがいいと私の中では構想を持っていたんだが、残念ながらそれはかないませんでした」
――なぜ伝えなかったのですか。
細野「入院していて長くしゃべれなかったというのもあるし、彼は現場への思いが強かったから。そう言えなかった」
(入院=吉田所長は食道がんを患っていた)
――なんで現場にという、強い気持ちがあったということですか。
細野「当事者だった責任感に尽きると思います」
――吉田さんが自分の最前線の経験を、教訓として残したいと感じているなと思ったことはありますか。
細野「そうですね……。言われたのは二つ。若い人を育てなければならないとすごく言ってるんで。伝えたかったことはたくさんあったと思います」
――吉田さんの思いを調書の文面からみて、やりとりした当事者としてどんな感想を持っていますか。
細野「まあ、私は東電本店なり官邸の側にいたから、いろんなことは現場の想像をしていたが、これを読むと改めて本当にシビアだと思いますよね。その中で吉田所長が伝えようとしたことを自分が全部受け止められたかというと、いろいろ本当に考えてしまう。あとは、吉田所長がこれを残しておられるという話をされたっていうのも重たいことだし、その中でこれをどう対外的に伝えていくべきか、どう考えていたか私は分からない。本当は生きておられて、直接話して頂くのが一番よかったんでしょうけどね。今となっては亡くなったので、どういう判断をしたのか、今の時点では私はコメントしかねます」
――病室であの事故はなんだったんだろうか、教訓は何だったんだろうと、吉田さんの口から話したことはありましたか。
細野「私もそうだったし、たぶん吉田さんもそう思っていたと思うが、ゆっくりあらためてその辺の話をしようと思っていた。私は今は休んで下さいと言いたかったのでお見舞いに行ったし、所長がどういう心情かっていうことで、私としても、東電に対していろいろ言わなきゃいけないことがあるんじゃないかということがあったんで、あんまりそういう話をしなかったんですね。その後、また病気で倒れたのは本当に残念だった」
――現場復帰の強い意志を感じられたお見舞いだったということですね。
細野「そうです」
――吉田さんの調書や今日の取材を通して、今の原子力の再稼働の話について、何か考えるところはありますか。
細野「あの、原子力規制委員長の田中委員長ですけどね。田中さんになっていただいたのは、あれは野田政権のとき。私が担当大臣だったときなんですね。あのときの人選として、いろいろな可能性があった中で、当時の野田総理が田中さんという判断をしたのは、彼がもともと福島の出身だからというのは大きかったんです。原子力の安全規制というのは、今回の教訓なくしては成立し得ないもので、そういう意味では規制委員会は分かっていると思う」
(田中=田中俊一・原子力規制委員会委員長)
■公開してもいい
――細野さんが政府事故調から聴取を受けたときに、自分の調書を公開していいかと聞かれたときにどう答えましたか。
細野「政府事故調ですか。ちょっと記憶してないけど、私はいつか、公開されるべきだと思っていたので、そういうふうに答えていると思います」
――ご自身の調書について、報道とか一般の人、あるいは原子力規制庁の人が見ることについてはやぶさかではないと。
細野「私に関してはそうです」
――今まで、細野さんはなかなかメディアの取材に答える機会はなかったと思うが、なぜか。
細野「一つはやはり記憶は薄れるので、3年というのは限界なんですよね。残しておかなければならないとすれば、そろそろ話さなきゃいかんなと思っていたので。まあこれまでも何度か話してきたのだが、私の認識で話していた。吉田所長の認識が呼び起こされたときに、当然補足しなければならないこともあるわけです。それを考えると、そろそろタイムリミットかなというふうに思ったのはあります」
――久々に吉田さんの言葉に触れた?
細野「いや本当、覚えている場面というのは克明に覚えていますからねえ。その経験というのはしたくないし、そんな経験をする人がたくさん出てきたらいかんと思うのだけど、そういう経験をした人間の責任というのもあると思うので、一定の形で、残しておかなければならないというのはあります。そういう意味で、そろそろ3年が過ぎていろいろなリミットがきているというのがあって取材を受けた」
――吉田調書はともかく、事故当時に重要な役職にあった政治家が政治家として、責任を持って語ったことを自ら公開することに努めるというのは必要とは思わないか。
細野「政治家は、より歴史に対する責任は当然重いと思う」
(聞き手:宮崎知己、木村英昭、堀内京子)
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