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【IWJルポルタージュ】「事故が忘れられていく」〜福島原発事故から3年と1ヶ月、立入りが制限された20km圏内の今(前編)━ぎぎまき記者
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/138308
5/6 15:57 IWJ Independent Web Journal
「原発事故が忘れられていく」――。
原発事故から3年と1ヶ月の間、手入れされず朽ちていく我が家を、想像したことがあるだろうか。家の主がいなくなった部屋は、降り積もった埃で灰色に染まり、割れた窓ガラスからはみ出したカーテンが、物悲しく揺れている。そんな嘘のような日常が、福島県内のあちらこちらで今もなお、広がっている。
2011年末から、官邸前を中心に、反原発抗議行動を続けている首都圏反原発連合(以下、反原連)は、2014年4月19日と20日の2日間、東京からマイクロバスをチャーターし、福島県に向かった。避難指示区域を視察するためだ。
2011年3月に発災した、東京電力による福島第一原発事故は、未だ収束しないまま、現在に至る。高線量に汚染された地域は「避難指示区域」に設定され、そこで暮らしていた住民、約80,000人が、現在も自分の家に戻ることができず、避難を強いられている。
IWJ(私とカメラマン)は反原連のメンバー約20人に同行し、避難指示区域の視察に同行。現地の様子をカメラに収め、取材中に出会った地元の方の声を記録した。
記事目次
・「福島」を後回しにした政府
・原発事故から3年、脱原発世論は約8割
・小泉元総理も「脱原発」
・全町民が避難している、双葉郡浪江町
・『避難指示区域』の基本的考え方
・南北への道が閉ざされた線路
・目では見えない、放射線被害の無残さ
・年間50ミリシーベルト超えの「帰宅困難区域」へ
・今までの法律を守れない、社会的事情
・2011年3月12日に配達されるはずだった朝刊
・テレビから知った原子力発電所の状態
・津波で壊滅的な被害を受けた請戸地区へ
・浪江・小高原子力発電所
・馬場町議、「同情は欲しくない」
■「福島」を後回しにした政府
4月11日、自民党の安倍政権は、新エネルギー基本計画を閣議決定した。原発を「重要なベースロード電源」に位置づけ、民主党の野田政権が打ち出した「2030年までに原発ゼロ」という方針を完全に撤回。決定的な原発回帰を宣言した。
閣議決定直前の4月上旬、自民・公明両党が、福島原発事故に対する「深い反省」を謳った一文を、基本計画の前文から削除したことも発覚。党内からの批判が相次いだことから、該当部分は再び記載されたものの、原発事故を軽視する与党の本音が明るみになり、原発事故被災者の気持ちを逆なでした。
■原発事故から3年、脱原発世論は約8割
事故から3年経った今、脱原発世論は、どうなっているのだろうか。
ピーク時、反原連が主催する官邸前抗議行動は、約20万人の参加者で埋め尽くされた。現在、その数は2,000人程度に落ち着いている。人数の減少傾向から、反原発世論の低迷を指摘する声もある。しかし、反原発運動は、東京のみならず、この3年間で全国に飛び火し、今でも、全国各地で定期的に行なわれており、その不撓不屈の思いは、世論調査の数字に明確に現れている。
3月中旬の朝日新聞が実施した世論調査(※注1)によると、77%が脱原発を支持、原発再稼働の賛否については、反対が59%で、賛成の28%を大きく上回った。安倍政権の方針は、国民の支持を得ていない。この点だけははっきりしている。
(※注1)原発再稼働「反対」59% 朝日新聞世論調査
http://www.asahi.com/articles/ASG3K42CKG3KUZPS001.html
■小泉元総理も「脱原発」
「脱原発の世論の土台は、過去3年間の市民運動で培われてきた。(先の都知事選で)小泉元総理があれだけ堂々と脱原発を打ち出せたのも、土台があってこそ」
反原連のミサオ・レッドウルフさんはそう語る。
「それでも私たちは、どうしても日々の暮らしに流されてしまう。事故が起こったらどうなるのか、私たちは、思い出さないといけない。実際は自分の目で見るのが一番だが、(画面を通して)原発事故の被害の実態そのものを、見てもらいたい」
これまで市民の手で反原発運動を築きあげてきたことに誇りを抱いているミサオ・レッドウルフさんだが、世論に耳を傾けない、政府の挑発的な姿勢に、強い危機感も覚えている。福島入りの目的について答えるミサオさんからは、原発事故の被害の実態を今一度胸に刻み、伝えたいという、焦り混じりの気迫のようなものが感じられた。
■全町民が避難している、双葉郡浪江町
ミサオさんに話を聞いたのは、福島県南相馬の道の駅。そこで反原連一行は、この日の案内役、双葉郡浪江町の町議、馬場いさおさんと合流した。
▲浪江町に向かうバスの中で、町民の避難の現状を説明する馬場いさお町議
馬場町議は8期という経歴を持つベテラン議員だ。昨年4月に行なわれた浪江町議選では、23人の候補者の中でトップ当選を果たしている。馬場さんは、被害の状況を伝えるため、要請があれば、できるかぎり視察に同行し、案内役を買って出ているという。
福島県双葉郡浪江町(なみえまち)は、福島県浜通りに位置し、福島第一原発からは約9kmの距離にある。3月11日の午後7時、政府は原子力緊急宣言を出し、翌朝5時44分、半径10km圏内の住民に避難指示を発令。圏内の住民らは、避難指示に従い、まさに、財布も箸も持たない状態で家を出た。
「数日、避難すれば大丈夫だろう」――。
多くの人がそう思ったに違いない。それから3年と1ヶ月もの間、自分の家に戻ることができないなどと、誰が予測しただろうか。浪江町民は今現在も、全員が避難を余儀なくされ、その数は、20,320人にのぼるという。
■『避難指示区域』の基本的考え方
▲避難指示区域の概念図と各区域の人口及び世帯数(平成25年12月末時点)
(出典:経済産業省http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/pdf/131231a.pdf)
「避難指示区域」について、おさらいしたい。
2012年4月1日、福島第一原発周辺の市町村の避難区域は再編され、「帰宅困難」「居住制限」「避難指示解除準備」の3つに区分された。
・「帰宅困難区域」――5年間を経過してもなお、年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある、現時点で年間積算線量が50 ミリシーベルト超の地域
・「居住制限区域」――年間積算線量が20ミリシーベルトを超えるおそれがあり、住民の被曝線量を低減する観点から、引き続き避難の継続が求められる地域
・「避難指示解除準備区域」――年間積算線量20ミリシーベルト以下となることが確実であることが、確認された地域
現在、帰宅困難区域で約24,700人、居住制限区域で約23,300人、避難指示解除準備区域で約32,900人と、福島県内の約80,000人の県民が、自宅に帰還できていない。
▲雑草で覆われたJR常磐線の線路。無人の町である。ここが避難区域であることは、ぱっと見ただけでは分からない
■南北への道が閉ざされた線路
「私はここに立つ度に、行く手を遮られていることを実感します」
私たちを乗せたバスは、JR常磐線の線路が見下ろせる場所で停車した。立入りが制限されているJR常磐線の広野駅と原ノ町駅の区間は、現在も不通となっている。馬場さんは、南北への道が閉ざされてしまった町の閉塞感を、こう表現した。
■目では見えない、放射線被害の無残さ
「この景色だけを見ると、『何でもないじゃないか』と思うかもしれませんが、以前は、家の中を豚や牛が野放し状態でした。大動物は処分されましたが、今は、ネズミやハクビシンなどの小動物が歩き回っています。家の形がそっくりそのままでも、もう住むことはできません」
馬場さんは、ひと目で目視だけでは分からない被害の実態を説明した。確かに、目の前に広がる風景は、雑草が荒々しく伸びていること以外、特段、悲惨さを物語ってはいない。馬場さんが、目に見えない被害の実態をよりリアルに伝えるために、あえてそう説明する理由が分かる。
人の温もりを失った街の異様さは、しばらくただずんでいるうちに、ひたひたと迫っている。生活の音がない。人の声がしない。景色の中に、動くものが全くといっていいほど、いないのである。段々と、ここは無人の町なのだ、ということが全身で了解されてくる。物悲しさが充満してきて、息が詰まりそうになった。
「みなさんが息を止めても、残念ながら被曝します」
馬場さんが手にしたHORIBAの線量計は毎時約1.7マイクロシーベルトを表示した。年間に換算すると、約8.7ミリシーベルト(※注2)。私が暮らす東京都世田谷区の毎時約0.1マイクロシーベルトと比較すると、約17倍。
馬場さんのこの言葉に、この日初めて、被曝することへの恐怖感を味わった。
(※注2)環境省による年間被曝線量の算出方法
http://josen.env.go.jp/osen/osen_05.html
■年間50ミリシーベルト超えの「帰宅困難区域」へ
▲ここから先は、年間50ミリシーベルトを超える「帰宅困難区域」
バスに乗り込み、さらに10分走ると、私たちは帰宅困難地域のゲートに到着した。他の避難指示区域と違って、検問所は重々しい空気に包まれている。一行は、バスを降りた。
当然のことなのだが、鉄格子1つで、放射性物質が遮断できるわけではない。しかし、ゲートを越えたあちら側の景色は、一段と、オドロオドロしく映り、ゲートの手前にいる自分は、まだ、少しは安全かもしれないという錯覚に陥る。
「放射能との闘いは、まず、『測る』こと」
錯覚から目をさましたのは、馬場さんのこの一言だった。
放射性物質は、線量計で測らなければ、その存在を、認識することができない。避難指示区域を歩いたこの2日間、それぞれが手にしていた線量計が、何よりも大きな拠り所だった。私たちに唯一与えられた、リスクマネージメントである。それでもやはり、線量計の数字にさえ、慣れてきてしまうのだ。目に見えない、匂いもないことは、本当に恐ろしい。
「若い人はあんまり外に出ない方がいいね。空間線量4.2、高いよ。早く乗って」
馬場氏が、そう呼びかけた。
■今までの法律を守れない、社会的事情
日本政府は、国際放射線防護委員会、ICRPの基準を拠り所とし、「年間20ミリシーベルト以下であれば、健康に大きな影響はない」とした。しかしこれは科学的な根拠に基づくものではなく、社会的に決めた事情に過ぎないことは、火を見るより明らかである。
元来、一般市民の被曝限度は「年間1ミリシーベルト(毎時0.23)」であり、年間5.2ミリシーベルトで、放射線管理区域に指定され、一般市民の立ち入りが禁止される。また、過去、白血病を発症した原発労働者の中には、年間5ミリシーベルトで労災認定されたケースもある。
今は、こうした法律が守ることができない非常事態、なのである。仕方がないから、住民に被曝を強いているのが現状なのである。
馬場氏は、車中で東電や政府への怒りを口にした。
「今、『生業を返せ』(※注3)の裁判をやっているが、東電は反論に出てきている。20ミリシーベルトまでは安全だと。訴えられても、今の法体系では、そこまで責任を追う体系になっていない。法律上、何の根拠もないから、主張を却下してくれと。そんなことまでしたら莫大なお金もかかるから、やれと言われてもできないと。開きなおりもいいところだ」
(※注3)「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟とは、東電と国が招いた公害に対し、東電が作った「基準」に縛られることなく、完全賠償を目指し、原発事業を推進してきた国にも、被害回復、賠償への制度作りを求めていく訴訟。
■2011年3月12日に配達されるはずだった朝刊
バスは、JR常磐線の浪江駅に到着した。
駅のロータリーには、閑散としていたが、子どもたちを迎えに待機していたスクールバスが2台、放置されていた。自転車が一台、倒れたまま横たわっている。地震の揺れで落ちたと思われる電灯も、コンクリートにたたきつけられたままだ。
駅前で見る当たり前の日常が、ぐにゃっと曲がって、そこに存在していた。
私たちが駅周辺に滞在したのは、10分程度。本来ならば、ひとっこ一人いないこの町を、ゆっくりと時間をかけて歩いてみたかった。その強烈な物悲しさにとことん付き合い、被害の実態を、胸の奥に刻みたかったのが、本音だったが、それは許されなかった。浪江町からは、午後4時までに退去しなければいけないという規則があるからだ。
私たちは、急ぎ足で町を歩き、写真や映像で、目の前の現実を記録していった。
▲「店からは何もなくなってしまった」。浪江町駅前にあった宝石店を指さす、馬場町議。住民の避難後、盗難が相次いだという
▲生活の音が消えた無音の世界に、退去時間を告げる町内放送だけが侘びしく響く
▲3月12日に配達されるはずだった山積みになったままの朝刊
▲町内には解体撤去ができないで放置された家屋が多く見られた
■テレビから知った原子力発電所の状態
「一つ一つが深刻でした」
バスに戻ると、馬場さんは、3年前の避難時の状況を振り返った。
「3月12日午前10時頃、国や東電からは連絡がなかったが、テレビから原発の状態が危険だということで、25km離れた津島に避難した。2、3日すれば、落ち着くだろうと。25km離れれば大丈夫だろうと、財布も薬も持たないで町民は逃げました。
普段であれば30分で着く津島まで、5時間かかっても到着しなかった。いかに、道路が渋滞していたか…。
病人は薬もない、食料だって準備がない。トレイも困った。学校のグラウンドに穴を掘ってブルーシートで覆い、用を足した。避難先で産気づいた妊婦もいたので、パトカーに先導してもらい、妊婦を病院に運んでもらいました」
原発事故の特徴は避難が長引くことだ。2、3日すれば落ち着くだろうと避難した町民は、事実、3年経った今も自宅へ戻れないでいる。
原子力災害対策指針は原発事故後、原発から30km圏内にある自治体にも、避難計画の策定を義務付けた。該当する市町村は全国で135にのぼるが、3月の期限が大幅に遅れ、2014年4 月現在で、約4割の自治体が未策定の状態だという。
設備や予算の確保など、クリアしなければいけない問題が山積みで、現実的な計画は作れないと、策定に難色を示している自治体も多いのが現状なのである。
■津波で壊滅的な被害を受けた請戸地区へ
この日の最終地点として訪れたのは、太平洋に面した、浪江町請戸(うけど)地区だ。福島第一原発4号機のサイトの一部が見えるほど近く、距離にして約5キロ。
▲写真手前に映っているのが、震災前の請戸地区。約540戸あった集落のほとんどが、津波の被害にあった
「ここは、全部、住宅でした。この辺は農地。津波で大きな被害に合いました。被災者がよく『3年の時間は過ぎたけど、心の時計は止まったままだ』と言いますが、ここに立つと、本当にそのままです。ここに来るのは辛いものです」
請戸地区に到着してバスを降りると、馬場さんはかつての請戸の町の姿を説明した。
「私たちは、命が詰まる生活を日々送っています」
馬場氏によると、津波被害で亡くなった浪江町の住民は182人。未だ34人が行方不明。そして震災関連死が、この3月で320人を超えたといい、長引く避難生活が、町民をさらに追い詰めていると話す。
▲この周辺の放射線量は、0.1程度とさほど高くはない。しかし、避難区域に指定されているため、復興作業はほとんど進んでいない
▲慰霊碑に手を合わせる反原連のメンバーたち
▲卒業式の準備をしていたままの、請戸小学校の体育館。生徒たちは、日頃の防災訓練を活かし、高台に逃げて、全員無事だった
▲請戸小学校の1階部分。窓の向こうには、瓦礫が入った黒いフレコンバッグが並ぶ
反原連のメンバーであり、「怒りのドラムデモ」の井手実さんが最初に請戸地区を訪れたのは、2011年4月。今回で2度目となる。
――2011年と比べて、今の請戸地区はどうですか。
井手氏「当時は、辺り一面、もっと瓦礫で埋め尽くされていましたし、海水が溜まって『腐敗』の匂いがひどかったです」
――なぜ、もう一度、来てみようと思ったのですか。
井手氏「何度でも来ないとな、と思います。忘れているわけじゃないけど、もう一度、ここに、胸に刻むために」
巡礼者のような相貌だった。この地に繰り返し足を運ぶのは、祈るような思いがなければできることではない。
■浪江・小高原子力発電所
再びバスに乗り込むと、馬場さんは、この地域に、別の原発建設の計画があったことを説明した。
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