http://www.asyura2.com/14/genpatu36/msg/505.html
Tweet |
匿名 陰から 脅し 盗撮 大量メール 「反原発」に続く嫌がらせ(北海道新聞)
http://www.asyura2.com/14/genpatu36/msg/477.htmlの投稿に
「反原発運動の支柱的存在だった故高木仁三郎元東京都立大助教授は1992年、地方講演の際、会場に知らない贈り主から花輪がずらり届いた。共産党の名前入りは豪華だった。全てニセ。「アカ」と印象づけたかったらしい。」
という箇所があったが、「アカ」が悪いのか!!
反原発運動は反核・反戦運動の歴史があるもので、人民のために闘争する活動家は賞賛こそすれ、危険視するのは筋違いだ。
真面目に活動する人たちの過去の経歴を洗い出して左翼だ反日だと!
福島の闘う牧場主吉沢正巳さんも成田闘争の戦士だが、だから何なんだ?
左翼運動が危険というのは政府の印象操作に過ぎない。
人民を解放するまで戦いは続けられねばならない。
★三里塚と、全共闘運動が産んだ民衆の科学者、
・・・・『高木仁三郎』
http://blogs.yahoo.co.jp/huwawatanpopo2010/MYBLOG/yblog.html?fid=0&m=lc&sk=0&sv=%B9%E2%CC%DA%BF%CE%BB%B0%CF%BA
「反原発=過激派=中核派」とレッテル貼りされるには理由がありまして、中核派はじつは原発に関しては反原発の元祖的団体なんですよ。
「中核派が脱原発運動につけ込んだ・・」のではなくて、中核派はもともと反原発の元祖なのです。
3.11が起きるまで、共産党はもとより旧社会党も、原発に取り組んだ政治党派はなかったのです。議会と選挙一辺倒の政党にとって「住民運動は票にはならない」と言われていたからです。
だから、取り組んだ政治党派としては中核派だけだったのです。
「たんぽぽ舎」が反原発に取り組み始めてから20年ですが、じつは中核派が反原発運動を始めたのは「たんぽぽ舎」よりも十数年も早く、約35年前です。
中核派が、「住民運動・農民運動」の三里塚空港反対闘争(成田空港反対闘争)を闘った事が契機でした。
高木仁三郎が三里塚闘争にヘルメット姿で参加した辺りからです。
75年あたりからです。
「祝い島」の上関原発反対運動はすでに30年にもなりますが、2012年の現在に至るまで着工さえ出来ていません。 これは、三里塚空港反対闘争の経験が「上関原発反対運動」に遺憾なく発揮されて、闘われているからです。
「さよなら原発・1000万人運動」呼びかけ人の鎌田慧さんも、全共闘運動と三里塚闘争に参加した一人なのです。
(以上、たんぽぽの投稿コメントから)
この人に聞く 鎌田 慧さん
全共闘運動に触発された安保世代として
「市民科学者として生きる」にも、三里塚の話が出てきます。それが仁三郎さんの生き方に大きな影響を与えたようですが、鎌田さんは、三里塚での仁三郎さんをご存じですか。
鎌田 高木さんは、ぼくよりも早く三里塚に行っていましたね。三里塚に「しだれ梅」という無党派の団結小屋がありまして、彼はそこに居たはずです。彼はいつも黒いヘルメットをかぶっていました。赤とか白とかいろいろあるんですが、黒ヘルは無党派なんです。
−仁三郎さんがヘルメットをかぶって闘争の前線にいたというのは、当時を知らない私たちには、馴染みのない部分ですね。
鎌田 本人自身の「自己変革」だったのでしょうか。都立大学の助教授がヘルメットをかぶっていたのですから、彼の姿は、みんなから見られて目立っていました。
そのころは、まだ原発の運動をやっていなかったのではないでしょうか。それでも、あの人は、目がきっとしていて、決意性の表れている顔が印象的でした。自分に対する決意性ですね。
「市民科学者」としての高木の魂は全共闘運動と三里塚農民の闘いに触れて開眼し、培われた。
三里塚岩山大鉄塔は高木仁三郎の発案だったのです。
高木仁三郎、小出裕章
『反原発の世界的カリスマ・高木仁三郎』
推進側から一目置かれた反原発の世界的カリスマ・高木仁三郎をチェックしておこう。【動画】 (小出裕章)
「高木仁三郎という希望」中里英章
▲上へ ★阿修羅♪ > 原発・フッ素36掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。