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私が武田鉄也の鬱に気付いたのは1992年のことである。鬱というのは非常に明らかな病気であるので、ほとんど見た瞬間にわかる。デブを糖尿というのは正確性に問題があるかもしれないが、デブを太っているということについては争いようがないだろう。鬱の人間を鬱病と判定するのは、それくらい容易な話である。
体質やおかれている状況などの要素によって人間の精神は左右され、ちょっと鬱になったり、かなり鬱になったり、もう鬱から逃れられなくなったりといった程度の差があるので、全てを鬱病で片付けることはできないものであるが、一度とらわれてしまったら、もうこの場合は全面的に向き合わないと助からない。武田は、もともと鬱の素質があったが、それまでのようにヤケクソの活力で突破できる限度を超えていた。
武田の告白によると、鬱病は1991年のドラマ「101回目のプロボーズ」あたりからはじまったのだという。私はドラマをみていないのでどんな役柄や演技を武田が提供したのかはしらないが、注目の集まるヒット作だったことは確かなようである。
中年の年齢域を迎え、とうとう鬱にさいなまれる武田鉄也であるが、本人はその発病過程でおこった事件に気付いているだろうか。
まずは1989年。綾瀬で起こった現役女子高校生監禁レイプ殺害事件である。
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/562.html
逮捕された少年たちは被害者の女性に武田鉄也の物真似をさせていたのだった。キンパチ先生は歌う。「がんばれ がんばれ 頼む がんばれ がんばってくれ」がんばってもダメだった非行少年たちにとっては中学教員から頑張れなどと戯言をいわれることに殺意を覚える。そして、武田鉄也の物真似をして前髪をわけながらキンパチ・ソングを歌わされている被害者は倒れるまで暴行を受けながら床に顔をつけて「がんばれ がんばれ」と熱唱しつづけた。止めると暴力がさらにエスカレートするからである。
それを知った武田鉄矢ははじめてキンパチドラマの功罪を受け止めはじめるのである。問題児に思いやりを投げかけるテーマで偽の調和を捏造したB組の嘘は現場で起こっている問題を野放しにして遠ざける効果を合わせ持っていた。
そして1990年。武田鉄也といえば幕末オタクであり、町人か百姓の出身なのにかかわらず、みずからを坂本龍馬になぞらえている痛い男である。その武田が全てをかけて取り組んだ芸能生活の集大成といえる仕事はキンパチ先生でもなければ刑事物語の片山ハジメでもない。黄色いハンカチでもなければ、殺虫剤のCMでもない。 脚本・主演した邦画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年)である。この映画を監督した武田の盟友、河合義隆がこの年(おねえちゃんの家で)自殺。武田主演の映画がこけてから、鬱状態で無職・無収入・無気力の浪人スパイラルから抜け出せず新潟出身なこともあって現世を中絶。
武田鉄也の空元気が点滅しはじめた。刑事物語6も企画倒れしたことはいうまでもない。「人は〜不安が〜多い〜ほど〜、気力が〜おちこみ〜めげるのだか〜ら〜」
そして鬱に。
明らかに減速した熱血漢武田鉄矢は照明にかこまれた華やかなスタジオからゴルフ場に主戦場を移し、生き延びる。
当時、吉本興行系のバラエティーに出演した武田は「(今までさんざんっぱら、お笑いをやってきたことが)スランプの原因」だと発言していた。そのスランプが鬱病を意味することは私にとって簡単な翻訳であったが、武田は自分を道化にして笑いものになったことで鬱が訪れたなどという自己解釈しかもっていなかった。
おだてられて木に登った豚が、居心地の悪さに自己喪失する。今更、キャラをかえてしまえるすべもない。弱り目に祟り目。ダチは自殺するし、国民的凶悪事件の被害者は自分にみたてて殺される。武田鉄矢墜落・・・・・・
同じような落ち目にみまわれたタレントはいくらでもいる。失踪したり自殺したりする者もいた。その場合、多くのピンで勝負するタレントは、自分の居場所というものを固める。ビートたけしは軍団、さんまは欽ちゃんに学んでファミリーや準ファミリーを構成し、所ジョージは宗教の輪を利用し、有名番組の出演者は常に派閥に守られることで仕事ができるものだ。一匹狼なんかありえない。
武田鉄矢の場合は、それが武田鉄矢一座だった。素人公募でできたB組ワナビーで公演をする。観客の求めているものは、一流の芸能などではなく、武田の熱血やユーモアが反映された強い心の絆でまとまった家族的なユニットだっただろう。現にオーディションにきたのは武田の弟子を目指すような若者ばかりだった。しかし武田はその時、非常に厳しい言葉で審査をしめくくった。「ボクは自分のファンはいらない。ボクが彼らの願望をかなえてやるための一座をはじめるんじゃない。自分がこの先この世界でどうしていきたいかという目標をいかに、うちに来ることで現実に近づけるか、そういうビジョンを持っている人間が欲しい」
そこには、夢を売る三枚目スターの博多っ子キンパっつあんでなく、教育学部出身のプロデューサーとしての武田鉄矢がいた。おちゃらけに飽きた武田はそうやって三枚目を返上し、ズッコケを卒業しようとしたのだ。自ら自分をサポートする一家を否定して、個人のキャリア育成の場を運営しようとした武田だが、いままでズッコケで生き残ってきたのはそれなりの必然があってもことだという事実を忘れている。キンパチ先生というのは視聴者の誠意に挑戦する試みだったと武田は語っている。そうやって一度、客の心遣いに媚びて出世したTVタレントが、社会人面して理念を追求していけるほど世の中は甘くないだろう。武田はあくまで人間関係を大事にして心の温かく強い夢のある活動をしていくべきであった。それは、もともと芸能でやっていくしかないくらい弱い存在である自分自身を保護することでもあったのだ。自分を慕う若者を突き放した武田に鬱病を打破する強さはなかった。
数日前、20年以上にわたって鬱病を患っていたことを告白した武田鉄矢は最終的に、スイスの心理学者ユングの言葉「山は登った分だけ降りないとさまよい人になってしまう」で開眼したとのだという。ユングかジュディ・オングかしらんが、そんな当たり前のことにわざわざ感心している60代のオッサンというのが喜劇である。テントで暮らしている人のいる場所を通ると必ず声がきこえてくるではないか「はりきんなアホ〜」と。
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