http://www.asyura2.com/14/cult13/msg/361.html
Tweet |
チベットよわーです。今日は、大阪出身の女流作家、佐藤愛子(90)さんの書籍から転載をします。佐藤さんといえば、北海道に別荘を買って移住を試みたところ心霊現象にみまわれ、それについてまた光明盛大にシラフで執筆を行ってきた人。歌手・山本譲二などに平行する往年突然のオカルトデビューに周囲からは変人扱いを受け年々丹波哲郎化していく印象がいなめない。
私は「死後の世界」や霊界といったようなことを口にする人に出会うたび、そのアマチュアぶりに吐息をもらす。わかりやすい矛盾があまりに多く、識者を説得するだけの材料をもっていないからである。
超常現象といえばビートたけしのTVタックルであるが、当番組にでてきた中沢新一までがこんな陳腐な演説を行った。「死んだ後には死後の世界がありますから、死を恐れる心配はないのです」
ま、好きにいってればいい。言論の自由の範囲だろう。
佐藤愛子さんにしても、おそらくオカルト界との接点を持ったばかりにおかしな考えを取り入れるにいったのだろう、と私はふんでいた。しかし、実際はかなり異なる。やはり大阪のオバサンだけあって現実的というか抽象的でないというか、ありのままに霊界とのつながりを事実的にとらえているだけであることがわかったからだ。
以下は、佐藤さんの著書にある生前親しかった同じ関西の生んだ作家・遠藤周作が化けででてきた逸話である。(以下;コピペ)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●遠藤周作さんが亡くなったのは平成8年9月である。その年の1月、遠藤さんから電話でこう訊かれた。
「佐藤くん、君、死後の世界はあると思うか?」
「あると思う」
とすぐ私は答えた。遠藤さんは「なぜあると思うのか」とは訊こうとせずに言った。
「もしもやな、君が先に死んで、死後の世界があったら、『あった!』と言いに幽霊になって出てきてくれよ。オレが先に死んだら、教えに出てきてやるから」
「遠藤さんの幽霊なんか来ていらん!」
と私は言い、話はそこまでで終わった。
遠藤さんが亡くなった翌年の5月の中旬だった。私は夜遅く、江原啓之さんと電話の長話をしていた。心霊についての質問や相談をする時は、いつも夜の11時頃である。その時、話の途中で江原さんは突然、
「あ、ちょっと‥‥待って下さい‥‥」
と言って言葉を切ったかと思うと、
「今、佐藤さんの部屋に遠藤先生が見えています」
と言った。
「多分、遠藤先生だと思います。写真で拝見しているのでわかります。茶色の着物姿で、そこの部屋の壁に掛かっている絵を眺めたり、今はデスクの上に書きかけの原稿がありますね、それを見て‥‥人差し指で下の方のも持ち上げてニヤニヤしながら見ておられます‥‥」
私は言葉が出ない。私は10畳の洋室を書斎兼寝室にしている。その時はベッドに腰をかけて受話器を耳に当てていた。勿論、私には何も見えず、何の気配も感じない。
「遠藤先生がこう言っておられます。死後の世界はあった。こっちの世界はだいたい、君が言った通りだ‥‥」
私の身体を戦慄が走った。驚きや怖ろしさではなく、それは間違いなく感動の戦慄だった。私は思いだしたのだった。遠藤さんの生前の、あの会話を。
――もしオレが先に死んだら、教えに出てきてやるから‥‥。
遠藤さんはそう言った。そしてその約束を守って出てきてくれたのだ‥‥。
呆然としている私の中に何とも言えない懐かしさと嬉しさがこみ上げてきた。わっと泣き出したいような熱いものがたちのぼってくる。
「それから‥‥こう言っておられます。作家というものはみな怠け者だから、こうして時々見回りしなければならないんだ‥‥」
それから江原さんはクスクス笑いだした。
「この前も見てたら、佐藤くんは机に向かったままじーっと動かない。そんなに行き詰まっているのかと思ってそばへ寄ってよく見たら、居眠りしとった‥‥」
思わず私は、
「遠藤さんはあの世に行っても生前のキャラクターが消えないのね」
と感心した。
「遠藤さんが行かれた所は幽界の一番高い所で、四季の花が咲き、鳥が歌い、言うことなしの、天国と言われている所に当たります」
と江原さんは言った。そこは肉体がないので欲望からは解放され、怒り、憎しみ、嫉みなどに左右されることのない想念だけの世界である。しかし生前の記憶や性格は残っていて、最高に楽しい所だという。ここよりも上の世界、つまり霊界に入ると、記憶はなくなり、苦しくも楽しくもないという状態になる。そのため更に修行して霊界へ上がるよりもここにいる方が楽しいと思って、なかなか上へ上がろうとしない魂もあるそうだ。
江原さんはそんな説明をして、それからまたクスクス笑った。
「こうおっしゃってます。ぼくの人格が高いから真っ直ぐにここに来た。人の役に立ってきたからなあ。たくさんの寄付もしたし‥‥と自慢しておられます」
実際、死んだ後1年も経たないうちに「天国」まで真っ直ぐに行くことのできる魂は稀であるという。遠藤さんはでたらめを言うのが好きな、いくつになってもしようのない悪戯好きだった。だが生涯を通じて病弱な肉体と繊細な感受性ゆえの苦しみと闘った内省の人だった。遠藤さんの波動は高かったのだ。
我々は簡単に「あの世で会おう」とか「あの世で待っている」などど言う。会うつもりでも波動が違えば会うことはできない。どんなに愛し合った男女でも、波動の差によって離ればなれになるのだ。「あの世で一緒になりましょう」と心中した男女は、共に暗黒界に落ちるのだからそこで一緒にいられるかもしれないが、暗黒界にも上、中、下くらいの差はあるというから、一緒に死んでも「あの世で夫婦」というわけにはいかないであろう。私があの世で遠藤さんに会いたいと思っても、そうなるには私の波動をもっと上げなければならないということになる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(コピペ終了)
チベットよわーです。
まあ、体験談のあとにしるされた佐藤さんによる非論理な能書きはいらないのだが、
それでも遠藤周作が死体のくせに佐藤さんの自宅に不法侵入してきたことだけは現実に
起こったことのようである。
それで佐藤さんが満足なら別に誰が口出しするいわれもないわけだ。
しかしそれが起こったと直接認識しているのは佐藤さん本人ではなく、あくまで江原啓之の霊視の
中ではじめて語られた事実なのである。つまり、江原が詐欺師であれば、全部が嘘である。
実際には死んだ人が生前にしっていた存命中の人間を訪れることはない。特別なビジョンを持つ
ものだけが認知できる・・・・・それもない。遠藤の人生はエンドしたわけであり、この現象界へは
もう帰ってはこないのだ。しかし、それで私は江原を眉唾と非難するつもりはない。騙されている
佐藤愛子さんをボケ老人だと責めるつもりもない。なぜなら、死者との交歓を行う儀式とは
日本古来の伝統であり、非常に美しい行事だと思うからである。日本人はもっと豊かな神々の
慈愛にかこまれた幻想の世界観を取り戻すべきである。
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。