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オウム真理教は、もともと『虹の階梯』(ラマ・ケツン・サンポ、中沢新一共著)に教理、教典の基礎をいただき、中沢と麻原の交歓を経て完成したと言ってもいいだろう。
実際に中沢が本書を執筆した頃、『チベットのモーツァルト』と併せ、日本の多くの自分探し君たちが熱狂したものだ。それは、『チベットの死者の書』にも言える。
世はバブル期華やかなりし頃であり、日本の思想史は小室直樹を経て吉本隆明に至り、岸田秀、中沢新一が隆盛を極めることになった。
金余り現象が蔓延すると、日本人は心のふるさとを求めたのか何なのか知らんが、チベット密教に教えの確かさではなく、神秘性そのものを重用してしまったのだろう。
オウムの狂気を早くから指摘してきた法曹界やマスコミの一部記者を除き、民放各社を筆頭にこの白ずくめの異様な集団は日本で注目されたが、その末路は終末論の自作自演という鬼畜の行為を許す結果となった。
オウム真理教に限らず、世界のカルトは一様に同じ終焉を迎えるわけだが、何れの場合も「終末論」に苛まれている。
金儲けに走った統一教会や法の華など、まあかわいい方であろう。
言い換えると、教祖やその教えの絶対性、完全性に帰依することの妄信の末路となるわけだ。誰よりも先に自分が幸福になる手段や教えを手にして、優越感に浸った結果、逃れられない牢獄のような思想性にがんじがらめになって、あり得ない行為を正当化する狂気が蔓延するのだ。
カルトが「終末論」を持ち出すのも、この選民思想を利用したものと見てよい。というか、教祖自ら選民する側に廻るという傲慢極まりないやり方に振り回された結果である。
オウム真理教の麻原は、東大進学を諦めざるを得なかった落胆がその発端となるという、誠に人間的な妬み思想から出発し、終には小さな王国の国王となり、本人が願った通り、VIP扱いで護送され、現在では「死」を待つだけの存在になった。
ある識者は「日本は二度とこのような過ちを犯してはならない」と強弁したが、それは不可能である。
世の中には勘違いの自分探し君はゴマンといるから、時代が変わっても同様の事犯は起こり続けるだろう。
現に、勘違いのオオバカがハッタリと嘘、デマを流し選民思想で信者を縛り付けている団体が存在している。
一般社会には全く知られていないが、池袋に住むガマガエルを教祖に頂く、独立党(教団)というものがある。
教祖はその見てくれに反して短小包茎(多分な・・・)なただの小心者である。あ、信者の前では声だけはデカイ。
その独立党(教団)とかいうカルトは、一生懸命、教祖のハッタリを流布させることに執心しているが、一向にその教えが社会に浸透する気配は無い。
もともとデマとハッタリだけだから当たり前なのだが、それ以上に重要なのは、教えに一貫性が無いからだろう。
その場しのぎの人生を歩いてきた末路と言えば言えなくもない。教祖がそんな風だから、信者も推して知るべしである。
その弱小カルトはいよいよ進退窮まった末に、遂に禁断の木の実に手を出した。
楽園のリンゴを手にしてしまったのだ。それは終末論である。
自民党の「集団的自衛権の行使容認」閣議決定を受け、いよいよ自衛隊に蜂起を促しているのだ。
自分達が蜂起するのではなく、自衛隊にその蜂起を期待しているのである。
どこまで行ってもこの短小教祖は小心者であり、人頼みの人生である。(国家転覆しろと言っているのではない)
せめて『ゆきゆきて、神軍』の奥崎健三くらいの根性を見せてみろ!と言いたくなってくる。
この時点で既に騒乱罪の範疇に入るだろうが、警察も暇ではないので、バカを相手にはしないだろう。
つまり、このバカ教祖とバカ信者は教祖のバカな狂言に踊らされてそれで終わりである。
ただ、このバカ教祖にお灸を据えるために、若しかしたら事情聴取くらいはするかも知れない。
そうなったらなったで、面白そうだ。
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