03. 2015年4月18日 01:29:58
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琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、沖縄本島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、琉球語(琉球方言):ルーチュークク)と称した。最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。 勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国[1]との深い結び付きが知られる。 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けたりしていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。 琉球王は、明国に対しては朝貢国として、形式上その臣下となることを強いられたが、一方で、国内では、時に琉球王を天子・皇帝になぞらえるなど、独自の天下観を見せた可能性がある[6]。その例として、『朝鮮王朝実録』には、1545年に朝鮮からの琉球への漂着民が残した証言として、「王は紅錦の衣を着て、平天冠をかぶり、一人の僧侶と対面して紫禁城遥拝の儀礼を行っている」(『朝鮮明宗実録』)という記述がある。 薩摩による琉球侵攻 16世紀後半、豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢を命じたが、明の冊封国であったため国王は一旦拒否した。しかし、実際に文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島に攻め込んだ時には、琉球は日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担った。 1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。 これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD 冊封(さくほう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(モンゴル帝国、清朝を含む)たちが自任した。 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は 「臣」の名義で「方物」(土地の産物)を献上 「正朔」を奉ずる(「天子」の元号と天子の制定した暦を使用すること) などを行った[1]。 「方物」は元旦に行われる「元会儀礼」において展示され、「天子」の徳の高さと広がり、献上国の「天子」に対する政治的従属を示した[2]。 「方物」の献上を「朝貢」といい、「朝貢」を行う使節を「朝貢使」と称する。 朝貢使は指定された間隔(貢期)で、指定されたルート(貢道)を通り、指定された「方物」を「天子」に献上し、併せて天子の徳をたたえる文章を提出する。これを「職貢」と称する。宗主国と朝貢国の相互関係は、つづめて「封貢」と称された[3]。 冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同義である。 冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の'''爵号'''を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。このようにして成立した冊封関係では、一般に冊封国の君主号は一定の土地あるいは民族概念と結びついた「地域名(あるいは民族名)+爵号」という形式をとっており、このことは冊封が封建概念に基づいていることを示しているとともに、これらの君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。 したがって、冊封関係を結んだからといって、それがそのまま中国の領土となったという意味ではない。 冊封国の君主の臣下たちは、あくまで君主の臣下であって、中国皇帝とは関係を持たない。 冊封関係はこの意味で外交関係であり、中華帝国を中心に外交秩序を形成するものであった。 冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもあるが、その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることができる。 ただし、これら冊封国の義務は多くが理念的なものであり、これを逐一遵守する方がむしろ例外である。例えば、朝貢の頻度は、冊封国側の事情によってこれが左右される傾向が見られる。 正朔についても、中国向けの外交文書ではこれを遵守するが、国内向けには独自の年号・暦を使うことが多い。またこれら冊封国の違約については、中国王朝側もその他に実利的な理由がない限りは、これをわざわざ咎めるようなことをしないのが通例であった。 冊封が行われる中国側の理由には、華夷思想・王化思想が密接に関わっている。華夷思想は世界を「文明」と「非文明」に分ける文明思想である。中国を文化の高い華(=文明)であるとし、周辺部は礼を知らない夷狄(=非文明)として、峻別する思想である。これに対して王化思想は、それら夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば、華の一員となることができるという思想である。つまり夷狄である周辺国は、冊封を受けることによって華の一員となり、その数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのである。また実利的な理由として、その地方の安定がある。 冊封国側の理由としては、中国からの軍事的圧力を回避できることや、中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築けること、また、当時は朝貢しない外国との貿易は原則認めなかった中国との貿易で莫大な利益を生むことができる、などがあった。 また、冊封国にとっては冊封国家同士の貿易関係も密にできるという効果もあった。なお朝貢自体は冊封を受けなくとも行うことができ、この場合は「蕃客」(蕃夷の客)という扱いになる。また時代が下ると、朝貢以外の交易である互市も行われるようになり、これら冊封を受けないで交易のみを行う国を互市国と呼ぶようになる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81 |