06. 2015年4月16日 20:15:47
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南京で暴虐の限りを尽くした田所耕造。 http://anarchist.seesaa.net/article/78079481.html 陸軍第114師団重機関銃部隊所属 田所耕造。
『週刊アサヒ芸能』(71年)の取材に答えた当時、彼は53歳。 彼が語った残虐の限り。しかもこれが「命令」なんだから驚くしかない。 女が一番の被害者だったな。年寄りからなにから、全部やっちまった。 下関から木炭トラックを部落に乗りつけて、女どもを略奪して兵隊に分ける。 女1人に兵隊15人から20人くらい受け持たせてね。倉庫のまわりなど、 日当たりのいいところを選んで、木っ葉などをぶらさげて場所をつくる。 赤ケンといって、中隊長のはんこがある紙を持った兵隊たちが、ふんどしを はずして順番を待つんだ。 いつか女の略奪班長をやったことがあるけど、ゆくと、女たちはどんどん 逃げる。殺すわけにはいかないから、追いかけるのに苦労したもんだよ。 支那の女は技術はうまいね。殺されたくないから、必死なんだろうけど、 なかなかいい。なにしろ上陸以来女の身体にさわったこともないんだから 、いじくりまわしたり、なめまわしたりする。私らは、よくなめ殺すといったもんです。 その凶暴兵は、柳川平助兵団(第10軍)第114師団所属。南京作戦での「働きぶり」によって上等兵に昇進。
そして、血に飢えた「ならずもの部隊」は徐州(シュイチョウ)へ進撃したのだった……。 南京に2ヶ月ぐらいいて、徐州に向かったんだけど、このときだったな、 股裂きをやったのは。ある部落で、みせしめのために女を柳の木に縛りつけ、 両足首にまきつけたロープを2頭の馬の鞍に結び、左右からムチをくれると 股から乳房のあたりまで肉がさける。骨があとに残るんだ。それを部隊 みんなでみている。中隊長もみてみぬふりだった。将校だろうと下士官 だろうと、文句をつけても『ウシロダマ(後ろ弾)だぞ』とおどしちゃう
田所耕造はこの気分が悪くなるような話を得意げに話している。上官を 無視しても、「戦闘」では頼りになった兵士による略奪・強姦・虐殺は セットで日本軍は容認していたということだ。 川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、 陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山(クンシャン)まで道端に延々と そういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられて いて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコが 丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。『チンポコ3万本』と俺たちはいっていたが、3000人以上はいたろうな。遠くからロングに引いてみると、残虐というより壮観だった。
読売のカメラマンで発狂したのもいたな。やったってしようがないのだが、 飛び出してやめさせようとするものもいた。普通の百姓だからといってね。 しかし兵隊はそんなのにかまわずぶっ殺していった。俺か? 俺は残虐な 写真ばかり撮っていたので病膏肓に入っていた。そういう残虐な写真を 撮るのも喜ぶものもいたし、やめとけというのもいた。参謀本部では証拠に ちゃんと写真を撮っていたな。 以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。 当然のことながら、柳川平助兵団による強姦・虐殺は南京攻略以降の 徐州・漢口作戦でも繰り返されることとなる。 徐州作戦では捕獲したチェコの機関銃がよく使われた。10人、20人と固まって 死んでるのが3キロも4キロもつづく。殺し方もいろんな方法をとった。 3人ぐらいいっしょに木にぶら下げられていたり、首をはねたり。子どもの 首をはねるのだけど、うまいもんだね、皮一枚ちゃんと残るように斬るんだよ。 その瞬間の写真を撮ったけど…… 自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている 股裂きなんぞ、東映のモンド映画『徳川いれずみ師 責め地獄』にて鬼才石井監督が撮っていたけど、その遥か以前に日本軍では娯楽の殿堂として「日常風景」だったとは驚きだ。 日本軍って、頭の中が「石井輝男」と同じだったんだな。
「股裂き」の田所耕造が所属していた柳川平助兵団が如何に凄まじい「ならずもの部隊」であったか、従軍カメラマンとして共に行動した河野公輝さんが証言しているな。 これも酷すぎて卒倒するぜ。 蘇州(スーチョウ)の略奪もすさまじかった。中国人の金持ちは日本とはケタがちがうからね。あのころでも何万円とするミンクのコートなどが倉の中にぎっしりつまっているのがあった。寒かったから、俺も一枚チョーダイしたよ。(中略)東京の部隊では赤羽工兵隊というのが一番悪かった。 蘇州の女というのがまたきれいでね。美人の産地だからね。兵隊は手当たりしだい強姦していた。犯ったあと必ず殺していたな。
以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。
以上の証言は河出文庫『証言・南京事件と三光作戦』より引用した。
この本のAmazonでのレビューにこんなのがあったが…… 洗脳、と言う言葉がある。 この言葉は元々は中国語だ。日本語ではない。 朝鮮戦争時の捕虜米兵に対して共産主義を信じることをせまった行為を中国共産党が洗脳と呼んでいたのが語源だ。 この捕虜米兵と同じように洗脳された人たちがいる。 日中戦争時に捕虜となった日本兵捕虜である。 生きて日本に帰ることのできたこの日本兵捕虜は「中帰連」(中国帰還者連絡会)と呼ばれ、帰国してから「証言」したものが、南京虐殺やら三光事件やらの 「旧日本軍が大陸でいかに悪いことをやったか」を描いた数多くのプロパガンダ本の基となった。本多勝一の『天皇の軍隊』も彼らの「証言」を基にした著作だという。 さて本書であるが、タイトルの、証言とはいっても上記の中帰連(笑)の生き残りの人たちがメインである。この時点でこの本の客観性や実証性はゼロといっていいプロパガンダ本といっていい。「南京大虐殺」「三光作戦」がウソ、でっちあげの産物であると言うことはネットや書籍を通じてようやく近年常識として広まりつつある。 これも一つの戦後レジームからの脱却と言っていいだろう。
『週刊アサヒ芸能』のインタビューに答えた人間が中共の捕虜だと決め付け、事実を歪曲しているところなんぞ、まさに中共と同じやり口だな。藁
自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている。インタビューを受けた当時でも、自分が行ったことは間違っていないと自慢していた神社の神主であった。三島が自決した日に息子に「お父ちゃんもあんなふうに死ぬのか」と聞かれた彼は、「お父ちゃんが死ぬときは共産党と社会党のやつらを皆殺しにしてからだ」と答えている。 http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/182.html
中国山西省に出征した旧軍人のKさんは3年兵の時、トーチカ(砲台)の一室で、4〜5人の4年兵が現地女性を連れ込み輪姦している場面に出会った。
4年兵の兵隊が終ると、「今度は3年兵の番だ」と言われ、Kさんは、強姦は犯罪だという認識がなく、単に古兵の命令に従わなければならないと思いそれに加わった。 Kさんはこういう“戦争犯罪に対する無感覚”は戦時中だけではなくて、戦後も変わらなかったと指摘する。戦友会の席上では、このような犯罪が懐かしい話、面白い話として語られるという。 その中には「股裂き事件」という話もあった。ある旧軍人が1944年の 河南戦争前後で見たことだ。中国人女性の片足を木に縛りつけ、もう片足を 馬の鞍に括りつける。そして突然馬のお尻を叩き、驚いた馬が走り出すと、 女性の体が二つに裂けてしまうというものだ。 Kさんが駐在していた山西省旧遼県でも、1941年4月に日本軍隊長が中国語で「勒馬分身」(股裂き) という方法で殺人を行ったという。そのことは中国側の資料にも記述されている。 http://www.magazine9.jp/kaigai/dai027/index.html
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