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”喉の渇いた旅人が、西瓜を一個無断で取って食べるくらいは盗みとは言えない”
―魯迅『故郷』
日本の将来に重大な不安をなげかけるシナの反日政府。国家省庁の最高責任者が国際的な反日発言に及ぶことが珍しくはない。「日本など軍事侵略によって滅ぼせ」、「尖閣諸島を奪取するためにはいつでも戦争をする」という極悪な声明が第三国のメディアにさえあがり、秘密情報網などではなく通常のメディア媒体を通じて伝わってくる。
そして大量に日本へ押しかける移民・留学生・違法滞在者などが全国各地で悪夢のように増加しつづけ、これだけ短期間になんとシナ人は凶悪犯罪・軽犯罪の両部門で他の外国人を大きく離してトップに躍り出たのである(警視庁発表)。年間、万件を超えるシナ人犯罪者の検挙数(警視庁発表)はもはや民族的侵略とみなしても大袈裟ではあるまい。
中でもシナ人によくみられるのは窃盗団を結成しての組織的な泥棒・スリである。都市部でよく発行されているシナ語のコミュニティー誌には、頻繁に窃盗団からの求人広告が大手を振ってあがっているのである。
中国といえば、窃盗さえ極刑の対象になるような家畜じみた法制度を生意気にも維持していたのではなかったのか。そんな国家でしつけをうけたシナ人がどうしてここまで薄汚い泥棒に変身をとげるのか?理不尽なルールから解放された在日シナ人がその解放感のままに今までしたくてもできずじまいだったカッパライの晩成デビューを飾ったということか?
この謎を読み解く大きな鍵が二つ。そのうちの一つはPRCの中共支配の思想統制からくるものである。彼らの思想とは毛沢東が翻訳したマルクス主義である。
つまり人は平等であり、平等に富を分配しなくてはならない。→日本人は裕福だから、当然、その富をとりあげて我々薄汚いシナ乞食に分け与えなくてはならない。→よって公務として日本人から金銭を強奪して平等を実現する役割をまっとうするアル
シナ人のコソ泥を捕まえる捜査官・警官は彼らに悪気が全くないことに驚くが、その理由こそがこの歴史や道義を一切無視して物質(金銭)の公平だけをはかることで平等を実現していいのだ、という愚かな民族の思想にあるのだ。
そしてもう一つが、上にある魯迅の言葉である。
シナを代表する作家である魯迅はここまで簡易な言葉で「泥棒は犯罪ではない」とするシナ固有の常識を披露しているのだ。自分のもの、他人のもの、などと所有概念を持つことを放棄するのが義務だと力説することにより、自分たちシナ人はコソ泥支持民族であると宣言しているのだ。
私が魯迅の『故郷』にふれたのは中学時代の現代文の教科書である。あいた口がふさがらないとはこのことであった。日本でいえば国民的作家である、たとえば谷崎潤一郎が、山本有三が、「強姦は健全なる青少年の元気の証拠」などといいだし「特定の相手との性交渉を取り決める婚姻ことが性の奴隷化の象徴である」と新聞誌面で発表することなどありえるだろうか?あるわけがないだろう。
日本人は一度も外国勢力の侵略を受けたことのない民族である。戦争には正々堂々と戦い一度負けているがそれで道徳的退廃を我々は経験していない。辺境民族の家来にさせられ、欧米からはアヘンでふにゃふにゃにされた上に戦争でやられてもう人としての誇りをもてなくなった倫理なきシナ人が「泥棒はオッケー」などとクルクルパーを爆発させるのと同じなわけがないではないか。
魯迅は日本に留学していたのだが、その東北の地で米作にはげむ農家を見学したことなどはなかったのだろうか?怠惰な農民がスイカに限らず作物をほったらかしにしているシナとは全く異なり、日本の勤勉で真心のある農民は非常な覚悟と旺盛な探求心により農業を農業2.0に進化させていたのだ。特別な配慮とケアで、シナでシナ人どもによってこさえられていたスカスカのスイカでなく、立派なプレミアム価値のついた極上品を日本人は誇りをもって産み出していたのである。
そうやって精神をみがいて高い志で励んだ農業の産物は気軽に「盗んでいいよ」などというわけにはいかなくなる。そこが「スイカはスイカある。どれも一緒あるよ。おなかがすいたら盗んでいいあるよケチ」というシナ人には理解できないのだ。
魯迅からすれば日本まできてコソ泥にせいを出すシナ人は、もっとも人間らしい生粋のシナ人ということになるようである。それはそれで結構なので、頼むからシナで好きなだけやってくれ。わかったアルか?
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