02. 2014年11月04日 07:46:18
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「再来一杯中国茶」 生きづらい中国で、美しく生きる人々 システムと個人の相互不信【後】 2014年11月4日(火) 中島 恵 (前編から読む) 前編では、中国で出会った「システムの不備」に纏わる話をあけすけに編集担当Y氏にしていたら、彼から「中島さん、なんだか最近、中国に取材に行くたびに、どんどん中国が嫌いになっていっていません? 私、今日はあまりの毒舌ぶりに正直いって呆れましたよ!」と言われて、どきっとしたことをお話した。 中国では、公共の施設はすべてが管理する側の視点で設計されており、使う人がどんなに不便だろうが、そんなことは知ったこっちゃない、というほど使いにくい。障害者用のサービス(点字ブロックなど)もあることはあるが、ブロックは途中で寸断されていたりする。公共の乗り物を利用しなければならない人々は、いつもそのインフラに我慢しなければならない。 でも、私はずっと不思議に思っていたことが2つあった。1つ目は「中国人はこのシステムにあまり頭にきている様子がないのだけど、どうしてだろう?」ということ。2つ目は「中国人のお役人はあんなに頭がいいのに、どうしてこんな使い勝手の悪い設計をするのだろう?」ということだ。 地下鉄の自販機にコインやお札が入らずモタモタして焦っていても、私はこれまで後ろの人からせっつかれたことは一度もない。以前、中国人の若者たちと地下鉄に乗ったとき、コインが詰まってしまって自販機が動かなくなったことがあった。みんなして昔のテレビみたいに機械をドンドンと叩いてみたけれどダメ。駅員を呼ぶことになったのだが、私だったらこの際、いつも思っている自販機に対する不満のひとつも言ってみたくなるのだが、若者たちは一言もいわず、素直にコインを返してもらっていた。 ということは、「もしかして、みんなこの使い勝手の悪いインフラに満足しているってこと? そして、そもそも、どうしてお役人はこんな設計をするの?」と思った。 「修正は不可能、自分だけでも生き残ろう」 今回の中国での取材では、私はそんな疑問も友人に問いかけてみた。すると友人はこう言った。 「そうじゃないですよ。ある程度知識を持った人たちは、この巨大な国で今のシステムを直すことはほとんど不可能に近いとわかっているから、あきらめているのです。それ以外の人たちは、大概こんなもんだろうと思って、何も考えていないかも。ほとんどの中国人は海外に出たこともないし、海外と比較してみたこともないから……」 「それに、日本人には信じられないでしょうけど、これでも昔よりは数段よくなっているんですよ。荷物検査機だって、みんな意味がないとわかっています。でも、文句を言ったって仕方がない。あそこにいつも3人くらい係員がいるでしょ。理屈から考えて彼らは必要ないんですけど、それを追求していったら、彼らだけでなく他にも不要になる仕事がたくさんある。意味がなくても既得権益があってそれを糾弾できない」 「つまり、どんなに優秀な人でも、自分がこの巨大な国を建て直そうという気持ちにはなかなかなれない。直していくのは膨大なエネルギーと予算と努力、大勢の人の理解が必要だからです。だから、壮大なシステムを元から直していく、なんていう正義感や使命感を持つのはあきらめ、“自分だけはここから抜け出そう”と思うんです」 「2つ目の質問ですけど、高級官僚や偉い人たちは地下鉄やバスに乗ることはないから、関係がないですよ。ただ大勢の中国人をいかに管理しやすくするか、頭にあることはそれだけなんです。人々の利便性を考えたシステムにすれば、それだけ管理も複雑で面倒になりますからね。大事なことは、自分も既得権益側の人間になり、優位に立つことです。公共交通機関など一度も乗らなくて済むような…。そう思って努力するほうがずっと現実的だし近道ですからね。だから、一心不乱に猛勉強するしかないんです」 日本人でも、私のような貧乏人が中国で暮らせば、“中国化”せざるを得ない。 人間的にも「上には上が」いるのが中国 街にゴミをポイ捨てすることはないにせよ、もともと汚く使っているもの(トイレなど)を、あとに使う人のために自分だけはきれいに使おうとか、みんなももっときれいにしようよ、などと呼びかけるというような殊勝な気持ちにはなかなかなれない。心がすさみ、諦めてしまうからだ。だからつい日本と比較し、余計に中国を軽蔑したり、嫌いになってしまいがちになるのが日本人の心情なのかもしれない。 だが、このような厳しい状況の中国で暮らしていても、そこに染まらず、きりりと立派に生きている中国人は大勢いる。前述したように、中国人の幅は日本人が想像できないほど広く、下には下がいるが、上には上も大勢いるのだ。 それは、金持ちを指しているのではない。簡単にいえば、世の中をよく知り、礼儀やマナーを重んじ、教養があり、他人を思いやれるような人格者、とでもいったらよいだろうか。日本より遙かにひとに過酷な環境でありながら、その辺を歩いている庶民の中にそういう清廉な人、ちゃんとした人がいるのである。 私もこれまで数々の「すばらしい中国人」に出会ってきた。現在も交流している人が大勢いるが、もう二度と会えない人もいる。 大学の卒業旅行をしたときも、そういう立派な中国人に助けられた。四川省の大足という田舎を旅していたのだが、言葉がまったく通じず困っていた。そのとき、同じ町を観光していた上海人の若夫婦が声をかけてくれた。衣服は新しくはないが清潔で、言葉遣いもきれいな標準語。物腰もやわらかだった。日本人ひとりで旅していると知り、一緒に観光してくれたのだが、大足の史跡に詳しく、教養のある優しい夫婦だった。 「諦めない人」がいるからこそ その後も旅先で、何度か名もない中国人に助けてもらった。当時、日本人と中国人の間にはかなりの経済格差があったはずだが、彼らから見返りを要求されたことは一度もない。名前も覚えていないし、インターネットもなかったから今では連絡を取る手段もないが、いつも中国の街を歩くとき「あのとき出会ったあの人はどうしているだろう。元気かな?」と心の中で思っている。それ以来、日本に暮らしている自分も外国人には親切にしようと思ってきた。 先日北京で知り合った中にも、前述の病院関係者とは異なるが、医者の卵がいた。彼女は中国の荒廃した医療状況を何とか改善したいと思い、別の大学で経済学を勉強したあとに一念発起して医学部に進学した。彼女の父親は日本に十数年間住んでいたが、やはり「母国の発展に尽くしたい」と帰国し、ある研究職に就いている。 大きな流れにはなかなかつながらないが、さまざまな業界で「このままではいけない。中国をもっとよくしたい」と思ってがんばっている中国人もきっと大勢いるはずだ。逆説的な言い方だが、そういう人々がいるからこそ、さまざまな不備はありつつも今の中国はここまで発展することができたのだ、ともいえる。 私が書いてきた本の中に出てくる中国人たちも、みな立派な人々だった。若者が多かったが、尊敬できる人ばかりであり、今も交流を続けている。はっきりいって知的面でも、人格的にも「私にはもったいない」と思うようなハイレベルな友人ばかりであり、実はときどきついていけない。 彼らは日本やアメリカに留学するなど恵まれた家庭で裕福に育った人もいるが、中国から一度も出たことがない人や、内陸部の出身者もいる。必ずしも裕福に育った人ばかりではない。 私の本に何度も出てくる王剣翔さん(24歳)は、私が生涯大切にしたいと思っている友人のひとり。奨学金を得て米国の有名大学の大学院で学んでいる秀才だが、幼い頃は家が貧しくて服が数枚しかなく、恥ずかしい思いをしていたという。でも、先日上海で再会したとき「私は中国人に生まれてきてよかった」と語っていた。 「貧しかったから、幸せのありがたみが分かる」 なぜなら「貧しかった経験があったからこそ、親にも感謝できる。今がどんなに幸せか、そのありがたみもわかるから。最初から裕福で何でも持っていたら、そういうことはわからなかったと思う」からだという。米国には富裕層の中国人も多いし、奨学金で学んでいる中国人もいる。そこで世間を見るうちに、いろいろと感じることがあったのだろう。彼に会ったとき、たまたま私の母親が今度手術をするという話をしたのだが、そのことを覚えていてくれて、手術前にはお見舞いのメールをくれた。 私はこれまでも、雑談のとき、彼ら本人に「(あんな過酷な環境の中で)どうしたらそんなにちゃんとした人に育つの?」と聞いてみたことがある。そういう質問は中国の方に失礼だったかもしれないが、マイナス100からプラス100までいる中で、以前から私の素朴な疑問だった。 生き馬の目を抜く変化の激しい中国では、価値観が変化しやすく、自分を見失いやすい。以前は違ったのに、世の中に流されて拝金主義に走り、人格が変わってしまう人も少なくない。あまりにもレンジが広く「何でもあり」の中国で揉まれているというのに、どうやったらこんなにしっかりしたいい子に育つのだろう? やはり「親」だろうか 彼らは「そんなことないですよ〜」といって照れるばかりで、その理由はいまだにはっきりわからないのだが、私が感じたところでは、やはり親御さんの教育だろうと思う。私は何人かの留学生の親に会ったこともあり、また、間接的に両親や、さらに祖父母の生い立ちまで聞いたことがあるのだが、「この親にしてこの子あり」と感じるところがあった。 共通するのは、勉強だけを重視してきたのではないという点だ。彼らは人間として立派に育つように、深い愛情をかけられ、かつある程度厳しくしつけられている。 そんなこと当たり前だろう? と思う人もいるかもしれないが、これまで述べてきたように、中国の現状を知れば、礼儀や分別をわきまえた人間に育てることはそんなに簡単なことではない。昨今の親は、子どものカバンを持ってあげることや、送迎が愛情だと思っている人もいて、子どもたちの一部も「こんなに勉強させられているのだから当たり前」と思っている。 それは日本でも同じだが、日本の場合、親の教育以外に、学校や友だち、クラブ活動、塾、習い事、自治会の活動、アルバイトなど社会のあらゆる方面から学ぶものもけっこう多く、社会全体として子どもを育てていっている面もかなりあると思う。50代になっても、人生で最も感銘を受けたのは、中学のときのクラブ活動の先生、と振り返る日本人は少なくないだろう。だが、中国でそれを期待することは難しい。 以前、日本に2年間だけ住んでいて、子どもを日本の幼稚園に通わせた経験のある中国人女性から聞いたことがあるが、中国の幼稚園の先生と日本の幼稚園の先生は全然違うそうだ。中国では「子どもが好きだから保母さんになった」という人は少なく、資格や条件で保母さんになるという人が多いそうだ。その女性は、日本の幼稚園に行ったとき、保母さんが子どもに対し「まるで本当の母親のように優しく接している」のを見てびっくりしたという。 このコラムの読者の方はご存知のように、中国ではクラブ活動もないし、勉強以外に人を評価する基準がない。そういう中では、子どもの得意分野を伸ばしてあげるなど、伸び伸びとした教育を受けさせ、他人を思いやる子に育てるのは難しい。人の気持ちばかり思いやっていたら、いつまでも自分の順番は回ってこないからだ。 学校の先生は勉強以外教えてくれない。だから、道徳も含め、それ以外のことはほとんどすべて親が教えてあげることが重要で、子育てにかかる親の責任や役割は、もしかしたら日本よりも重くなるのではないか。 天国のようなシステムの日本に住んでいて、日本人のマナーや礼儀がいいのは当たり前だ。高度にシステムが機能し、何ごともお上まかせになっていて、この日本のシステムがどういうふうに働いているのかさえ考えたこともないのが今の日本人だ。 その我々からしてみると、システムの不備や、一部の中国人のマナーの悪さは、どうにも我慢がならないときがある。それは自らの恥ずかしい体験を含めて認めるしかない。できすぎた日本と比べてしまうからだ。 上海で窮地を救ってくれた青年 これまで中国の不備を「楽しんできた変わった性格の自分」であったが、年齢とともに体力が落ちてきてからは、なかなかその不便さを楽しむ余裕がなくなってきた。普通は年齢とともに楽をする(お金で便利を買う)ようになりカバーできるのだが、それができない自分は、身体がしんどいがために、このところ中国の悪い面にばかり目を向けてしまっていた。 でも、ここまで述べてきたように、システムの欠陥=中国人の質の低さだと決めつけてしまうのは大きな間違いだ。現に、来日した中国人は日本の高度なシステムの中に入ったら、私たちと同じようにルールを守り、きちんと生活しているし、中国では不備な中でも、助け合って暮らしている人々がいる。 そういえば、2〜3年前、上海で地下鉄を降りるとき、切符をカバンの奥底にしまいこんでしまったらしくて見つからず、カバンをゴソゴソやりながら改札の手前で突っ立っていたことがあった。 周囲をキョロキョロ見渡してみたが、誰も私に気づいてくれない。日本のようにすぐ脇に駅員がいる窓口がないから、「切符を失くしました」と言いに行くこともできず、とても困っていた。そのとき、改札の外側にいた見ず知らずの青年が改札ギリギリのところまで近づいて来て、私に手招きした。 「えっ、なに?」と思って寄っていくと、自分の交通カードを改札口にタッチしてくれ、私を外に出してくれたのだ。一瞬、何をしてくれたのかわからなかった。「あっ、ありがとう!」という前に、その青年はニコニコして立ち去ってしまったのだが、心がとてもほっこりしたことを覚えている。不便なシステムだからこそ知り得た、ささやかな人の温かさであった。 年を取るほど勘違いが増えそうだけど システム=人ではない。考えてみれば当たり前のことなのだが、幸福な国、日本に住む私たちは、知らず知らずにうちにこの国のシステムまで日本人という民族の質の高さとイコールであるという傲慢な勘違いをしていないだろうか? システムを個人と同一視する勘違いに気づかないまま時間が経てば、Y氏が「中国と関わった人って、みんなこうなっちゃうのかなあ!?」と前回で嘆いたように、“中国嫌い”がどんどん増えてしまう。体力気力が年を取って衰えていけばなおさらだ。私も相当危ないところだった。 今後、このシステムの差が少しでも埋まっていくことが理想だ。そうなることが、両国に住む人々の気持ちをも少しずつ近づけていってくれるのではないかと願っている。 大事なことを見失いかけていたが、担当編集者Y氏の仏頂面のおかげで、忘れかけていた経験も思い出すことができた。 謝謝! Y氏。そして、中国の尊敬する友人たち。 このコラムについて 再来一杯中国茶 マクロではなく超ミクロ。街中にいる普通の人々の目線による「一次情報」が基本。うわさ話ではなく、長時間じっくりと話を聞き、相互に信頼を得た人から得た、対決ではなく対話の材料を提供する企画。「中国の人と」「差し向かいで」「お茶を一緒に」「話し合う」気分を、味わってください。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20141027/273065/?ST=print
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