01. 2014年7月16日 17:50:57
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http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/41200 ケ小平の罠から逃れられない中国 改革開放を進めるもいまだに「封建社会」 2014年07月15日(Tue) 柯 隆 ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・スティグリッツ教授は、かつて自分の著書“Whither socialism?”の中で、「社会主義体制でも短期的に資源を集約させ経済成長を実現することができる」と述べたことがある。この指摘は1950年代前半に旧ソ連で実現された経済成長に依拠したものである。 スティグリッツ教授のこの指摘を踏まえ、中国国内の一部の研究者は「改革開放」政策以降の高成長が社会主義の優位性を実証していると主張する。果たして社会主義体制は、資源を集約して経済成長を実現する比較優位を持っているのだろうか。 社会主義をどのように定義するかにもよるが、1949〜76年までの毛沢東時代の社会主義体制を考察すれば、その経済運営は明らかに失敗であった。当時、農業、工業とサービス産業のすべては崩壊してしまった。 無論、毛沢東が行った経済運営は必ずしもマルクス、レーニンが提唱した社会主義と合致しないところが多い。 中国人歴史家の研究によれば、毛沢東はマルクスの本をほとんど読んだことがないと言われている。これこそ悲劇の始まりだったのかもしれない。マルクスとレーニンが提唱した社会体制が社会主義であるとすれば、それを読んだことのない毛沢東が中国で推し進めていたのは何だったのだろうか。 農村も都市部もいまだに封建社会 冷戦の終結で社会主義の実験はすべて失敗に終わった。中国はその前から、「改革開放」政策の導入で毛沢東路線と決別している。今となっては中国が社会主義でないことは明白であるが、資本主義でもない。では、中国社会をどのように定義すればいいのだろうか。 今の中国社会には様々な要素があるが、その権力構造と国民の意識から捉えてみると、中国は依然として「封建社会」であると言わざるを得ない。 極論すれば毛沢東時代の中国では、農民は農地を国に奪われ、都市部へ自由に行くことすらできない「奴隷」のような存在だった。毛沢東時代の中国が奴隷社会の末期に相当していたとすれば、今の中国社会はまさに封建社会の段階である。 西洋の資本主義と民主主義の教育を受けた一部の知識人は、中国で民主化運動を推進しようとする。だが、それはしょせん無理な注文である。中国で民主化が実現しないのは、為政者がそれを拒むからという理由もあるが、草の根の民の多くが民主主義の価値観を十分に理解していないからだ。 中国の農村では、村民同士が対立した場合、裁判所に行くことはほとんどなく、村の権力者である村長に仲裁を依頼することが多い。村長の仲裁は法律に依拠するものではなく、公明正大でもない。だが村長の権威は法律以上に絶対的である。村は、中国社会を構成する最小の行政単位であり、いわば凝縮された小さな社会と言える。 実は、都市部でも同じことが言える。例えば、国有企業の従業員は夫婦喧嘩の仲裁を勤務先の上司にお願いする。無職の者ならば、町内会の会長のところに仲裁してもらいに行く。すなわち、中国人は自らが所属するコミュニティの権威ある人物に、身の回りの問題の解決を依頼するのだ。法律は後回しである。 したがって、中国共産党は一党独裁の政治を維持するならば、常に権威を誇示し続けなければならない。 さらに、中国がいまだに封建社会であると定義する論拠として、中国社会が権力を中心とする同心円の構造になっていることが挙げられる。王朝時代の封建社会は、皇帝を中心とする同心円の構造だった。皇帝の権力を誰も制限・コントロールすることはできない。まさに絶対的な存在である。今の中国社会もまったく同じと言って過言ではない。 封建社会では、君主が暴政を行った場合、周りはそれに造反するか、さもなければ、君主の老衰を待つしかない。聡明な君主が君臨した時代に国家が栄えることもあったが、それは歴史の偶然によるもので、制度によって担保されるものではない。 問題の解決をあとの人に委ねたケ小平 最高実力者だったケ小平が「改革開放」政策を推し進めた目的は、経済発展を実現することにあった。それは正しい選択だったが、制度の構築が不十分だったため、ここに来てその矛盾が急速に露呈している。 そもそも「改革開放」政策の特徴は、ケ小平が定義した「渡り石を探りながら川を渡る」ことだった。しかし、市場経済の構築は先進国ではとっくに実験済みであり、渡り石を探らなくても、すでに存在している橋を渡ればよかった。 おそらく「改革開放」政策初期において最高実力者だったケ小平が最も危惧したのは、市場経済が社会主義のイデオロギーに抵触することで、党内において、とりわけ保守的な長老グループに責められることだったのだろう。改革の実験は、長老グループの抵抗をかわすための工作だったに違いない。 問題は、ケ小平以降の指導者にはいずれもケ小平ほどのカリスマ性がなく、ケ小平の遺産を引き継ぐことしかできないことである。その結果、ケ小平の言ったことは共産党の中で絶対的になっている。 では、ケ小平はどのような遺産をその後継者たちに残したのだろうか。まずは、改革開放路線を堅持することである。そして、共産党の独裁体制を維持することである。さらに、文化大革命や天安門事件などの歴史問題は再評価しないことである。ケ小平の後継者たちはいずれも反ケ小平的な言動を見せず、その掟を守っている。 ケ小平の改革は、短期的に経済発展を実現することはできても、持続不可能なものである。中国はいわば「ケ小平の罠」にはまっている。 ケ小平には、難しい問題をあえて無理して解決することはせずあとの人に任せるという無責任な一面があった。民主化の政治改革をいずれ行わなければならないと分かっていたはずだが、それを性急に行うと共産党が分裂してしまうと恐れていた。 しかし、問題の解決を先送りすればするほど問題は解決できなくなっていく。今の中国では、政治改革の遅れは明らかに経済成長の妨げになっている。 中国人民解放軍に所属する作家の劉亜洲氏は、日清戦争で中国が負けたのは、技術や設備が遅れていたからではなく、制度の遅れで負けたと述べている。中国人や中国政府は目に見えない制度よりも、目に見える技術や設備を重視する傾向が強い。だがソフトウエアが遅れれば、ハードウエアが優れていても役に立たない。中国経済が今後持続的に発展してけるかどうかは政治改革を含む制度の構築にかかっている。 |