08. 2014年7月14日 22:37:46
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日本を規模で追い抜くのは当然のこと今後は大変なのは中国も同じ https://www.blwisdom.com/strategy/series/china/item/9629-60.html?mid=w468h90100000492638 深層中国 〜巨大市場の底流を読む 第60回 将来に悲観的になり始めた中国人〜努力では豊かになれない社会に 経営・戦略 田中 信彦 2014年07月11日 上海で私の周囲を見渡す限り、中国の人々の間でここ数カ月、自国の経済、社会に対する悲観的なムードが一気に高まり始めた。それも「しばらくは景気低迷が続きそうだ」とか「物価が上がってどうしようもない」と言ったような、景気循環的な話ではなく、中国という国、もしくは社会体制がどうもこの先、まずいのではないかという意識が強まってきているのを感じる。中国と付き合い始めて30数年になるが、こういう感覚を持ったのは初めてのことである。 日本国内では以前から中国のネガティブな報道が広く浸透しているし、「中国崩壊論」も繰り返し語られている。だから中国の将来を悲観的に見るのはむしろ常識で、「何をいまさら」と思うかもしれない。 しかし、中国の人々の視線で考えれば、だいぶ状況は違う。 そこそこ満足だった30年間 1978年に改革開放政策が始まって36年。当時の大学生すらそろそろ社会の一線を退こうかという時代である。つまり、各界のトップリーダー層を除いて、現在、世の中の中核として働いている人たちは、ほとんどが改革開放後の右肩上がりの時代しか経験していない。先進国の視点で見れば中国は問題だらけだが、中国人民の立場になってみれば、自分たちの生活はみるみる良くなり、おいしいものがたくさん食べられるようになり、立派な道路や建物が続々とできて、クルマも買えて、海外旅行にも行けるという、まさに信じられないような変化が起き続けた年月だった。 「貧富の差の拡大」が中国の問題点としてしばしば語られるが、実は問題なのは「格差」そのものではない。自分の努力で格差を埋める手段を普通の人々が持てるかどうかだ。 農村から身体ひとつで上海にやってきて、男性なら力仕事、女性なら家政婦などで朝から晩まで働いて、徹底的に節約し、小さな中古マンションを買って家族を呼び寄せ、一家でせっせと働いているうちに不動産価格が高騰し、日本円で数千万円単位の資産を持つに至った人々は、私の周囲だけでも何人もいる。そういう人たちの子供はすでに立派な大学生である。「ああ、社会が発展するとはこういうことなんだ」と実感する。 そういう「先駆者」たちを見て、故郷からはツテを頼ってどんどん人がやってきた。もちろんみんながみんな成功したわけではないが、多くはそれなりになんとかなった。だから「格差」の問題に文句を言う人はあまりいなかった。要するに、誰にでもそれなりの希望があったのである。「将来に対する期待と楽観」。これが中国という国のパワーの源泉であったと思う。 儲からなくなった中国の商売 様子がおかしくなってきたのは2010年ぐらいからだろうか。 まず感じたのが、周囲の中国人たちの商売が急激に儲からなくなってきたことである。理由はいくつかあるが、最も大きかったのは人民元高(ドル安)だと思う。ドルと人民元の交換レートは、1990年代半ばから1ドルが8元ちょっとの水準でほぼ固定されていた。ところが2005年ごろから人民元は上昇を始め、08〜10年ごろに一時安定したかに見えたものの、10年後半から再びにわかに上昇を開始、現在では1ドルが6元ほどになっている。つまり10年弱のうちに人民元は対ドルで3割ほど高くなった。 縫製業とか雑貨や靴、玩具、アクセサリーの生産といった商売をやっている友人たちは顧客の多くが海外だったが、当然、そうそう値上げに応じてはくれないから、利幅が急速に薄くなった。時期は前後するが、08年のリーマンショックで欧米の市場そのものが冷え込んだたことも大きかった。「利幅が減っても注文を確保できればまし。とりあえず給料は払えるから」といった話を自嘲気味にしていたのがこの頃である。 加えてボディブローのように効いてきたのが従業員の賃金上昇である。かつて労働力は無尽蔵といわれた中国だが、03〜04年ぐらいから局地的に人手が集まらない状況が報告され始め、06〜07年ぐらいにはそれが全国に広がった。北京や上海など大都会の店舗やレストランなどでも人が採用しにくい状況が明らかになってきた。 「6年間で2倍」の賃金上昇
働き手に有利な方向に労働市場が傾いてきた機に乗じて、労働者の権利を強め、いわば「強制的待遇改善」を図ろうと政府は動き始める。その端的な現れが08年1月に施行された「労働契約法」で、これによって雇用後に一定条件を満たした労働者に対して、企業は期間を定めない雇用契約を結ぶ義務が課せられ、解雇が難しくなった。加えて政府機関の後押しもあって労働者の権利意識が高まったことで、賃上げ、待遇改善の圧力が急速に強まることになった。 各地の賃金水準の目安となる法定の最低賃金は、上海市の場合、07年840元、08年960元、(09年は金融危機のため調整なし)、10年1120元、11年1280元、12年1450元、13年1620元、14年1820元 と、6年間で2倍になった。これはあくまで最低賃金で、平均賃金で見ると、北京市統計局の数字では、同市内の勤労者の月間平均賃金(2013年)は5793元(約9万5000円)で、年収換算では114万円ほどになる。中国では男女の賃金格差が比較的小さく、夫婦とも仕事を持つのが普通なので、平均の世帯年収は200万円を超える。これは低賃金国とはとても言えないレベルである。 さらには中国には、従業員のために企業が納付しなければならない各種の社会保険(医療保険や養老年金のようなもの)がある。それまで各地の地方政府は企業の負担を慮って、不納付や過少申告を事実上、容認してきたケースが多々あった。それがこの頃から「お目こぼし」が許されなくなり、企業の負担は一気に増えた。こうした企業負担分は賃金総額の50〜60%にも達する。もともと規定通り納めていた大企業はまだしも、中小企業にとっては事実上、優遇措置が急に廃止されたようなものである。定期的な賃金上昇よりも実はこちらのほうが打撃は大きかったかもしれない。経営者仲間が集まると「政府は何を考えているんだ。民営企業を潰す気か」と不満やるかたない感じだった。 12人と面接の約束をして、1人も現れず そこにまたまた追い討ちをかけるようにのしかかってきたのが、人手不足というか従業員の採用難、そして育成難である。 いうまでもなく人件費の上昇と採用難は一体の現象である。労働側の売り手市場だから賃金が上がる。それはそうなのだが、中国の場合、労働者側が強気になると、単に賃金が上がるだけでなく、仕事に対するモラルが極端に落ちるという現象が発生する。今、中国の中小企業の経営者たちを最も疲弊させているのは、実はこの問題かもしれない。 中国では一般に働き手の自己評価が極めて高い。自信過剰である。加えて、職業選択に親や配偶者など「家」の影響力が強く、自分の意志だけでは職業人生を決められない傾向が強い。さらにはデスクワークを尊び、身体を動かす職業を蔑視する価値観が根強い。 そうした土壌があるために、労働市場が自分に有利になると、すぐに「見栄えのよい」仕事に移ろうとする、少し強く指導すれば翌日には来なくなる、「故郷の祖母が入院した」「子供のテストの成績が悪かった(ので勉強をみてやらないといけない)」といった理由であっけらかんと仕事を休む。朝、ショートメール一本でも来ればまだましなほうである。求人サイトで従業員を募集したら、面接に来ると約束した12人の応募者が1人も現れず、誰からも何の連絡もなかったという話もあった。「これでどうやって人を育てられるのか」と、ある友人は天を仰いだ。 「大家さんのために働いている」 競争力を失いつつある製造業に見切りをつけ、国内市場向けの小売やサービス業に活路を見出そうとするケースもある。賃金の上昇は消費者の収入増にほかならないから、この発想は順当なものだが、そう簡単にはいかない。次にのしかかってきたのが不動産価格の上昇による店舗賃料の異常なまでの高騰である。 上海の私の住まいは市の中心部から10qほど離れた住宅街の、ちょっとしたショッピングストリートのようなところにあるが、こんな郊外でも店舗の賃料は1日1平方メートル当たり日本円で300〜500円ぐらいする。仮に50m2の店舗(具体的なイメージで言うと、日本のコンビニが平均100m2強だそうだ)を開くにも、月に45〜75万円の家賃が必要になる。普通に考えて毎月数百万円の売上がなければ利益は出ないだろう。 実際に中国の店舗はどのくらい売れるのか。例えば中国チェーンストア経営協会のデータによると、中国のコンビニの平均店舗面積は約82平方メートルで、12年度の平均日販は5785元(日本円約9万5000円)。月商300万円に満たない。仮に我が家の近くでコンビニを開けば、家賃は月100万円近くになるはずで、とても商売にならない。近所で美容関係の店をやっているオーナーに聞いたら、やはり売上高の約3分の1が賃料で消えるという。「大家さんのために働いているようなもんだよ」と苦笑していた。しばらくしてこの友人も店を閉じた。 実際、このところ近隣では閉店する店が引きも切らない。最近だけでも焼肉店、ピザ店、婦人服のブティック、地場のコンビニが次々と閉店した。その後に入居するのは採算性など気にしない国有の商業銀行や証券会社、さもなくば怪しげなマッサージ店ばかりである。まっとうな商売が立ち行かず、後に残るのは独占企業と風俗産業。まさに市場経済の衰退そのものではないか。 最後の頼みの綱の不動産だが……
最後の頼みの綱が不動産(中国では土地の所有権は国にあり、売買されているのはほとんどがマンションだが、便宜上「不動産」と呼ぶ)である。経済の成長率が低下しても、商売が難しくなってきても、それなりに民心が安定を保っているのは、ひとえに不動産の高騰で都市部住民が分厚い資産を抱えているからである。 中国の人々がどのようにして「資産家」になったのかは、この連載の第2回「中国人が豊かになったメカニズム」などで紹介したので参照していただきたいが、1990年代後半に不動産の市場化が本格的に始まって以降、都市部の不動産価格はほぼ右肩上がりで上昇を続けてきた。もともとタダ同然で配給を受けた住宅が数千万円の価値を生んだ例がごく普通にあるのだから、まさに「打ち出の小槌」である。 そんなことが起きれば、そこにかつての日本と同様、「不動産神話」が生まれ、誰もが投資するようになるのは無理もない。借金してでも家を買ったほうがトクだとの信念が生まれ、親兄弟親戚友人知人から頭金をかき集め、世帯収入の半分以上をローン返済に充てている例は珍しくない。「ローン地獄」「不動産奴隷」などと揶揄されながらも、これまでのところ、その戦略は明らかに成功している。これが中流層の人々の安心感にどれだけ貢献しているか計り知れない。 「高騰阻止」から「暴落阻止」に政策転換 しかしこの頼みの綱も、どうも雲行きが怪しい。 数年前から政府は、不動産価格の高騰を押え込むため、さまざまな購入制限策(「限購令」という)を実施している。しかし今年に入って、各地方政府はこの制限を次々と解除し始めている。制限をやめれば買い手の層が広がるのは確かだが、政府が不動産の「高騰阻止」から「暴落阻止」に政策を転換すれば、それは「不動産はもう上がりません」と宣言したに等しい。これではますます誰も買わなくなるのは明らかだ。 90年代末から不動産投資を始め、現在は上海市内に3つのマンションを持って家賃収入で生活している友人がいる。その友人が今年初め、「そろそろ潮時ではないか。ひとつぐらいは売って現金にしておいてはどうか」という周囲の声に押され、マンションを一軒売りに出した。繁華街に近い140uほどの物件で、値札は600万元、約1億円である。ほどなく「580万ではどうか」という買い手が現れた。友人は迷った末、その話を断った。20万元、日本円で370万円の差は確かに小さくはない。 ところが、春先以降、とんと買い手が現れない。仲介の不動産業者は値下げを勧めてくるようになった。最初は550万元にという話だったのが、今では520万元と言ってくる。すでに日本円で1000万円の減価である。それでも売れるかどうかはわからない。友人は軽いパニック状態で、大胆に見切る決心もつかず、「また上がるかもしれないし」などと落ち着かない日々を送っている。友人がこの物件を買った当時の値段は80万元で、まだまだ充分すぎるほどの利が乗っている。何をあたふたしているのかと私などは思うのだが、値下がりというものを経験したことがないから精神的な打撃は大きいのであろう。 豊かになる道筋が見えなくなった これら経済面での行き詰まり感に加え、政治体制に対する幻滅も将来への悲観を一層強めている。特に最近、不満が強いのは政府の情報統制がますます露骨になってきていることである。国民全体の教育水準が低かった昔ならいざ知らず、いまや大学進学率は3割に近づき、学生だけで3000万人もいる。小学校から英語教育を積極的に進める一方で、海外メディアへのアクセスを遮断もしくは制限し、国内でも政治的に「敏感な」単語が消し去られるという体制はどうみても非現実的で、多くの国民は「政府からバカにされている」との思いを持ち始めている。 例えば領土や歴史の問題などにしても、「他国を批判するかどうかは、事実をもとに自分たちで決めるべき」と、ごく「まっとう」な思いを持つ人たちが増えている。そのため、政府が情報を操作していることが逆に権力発の情報の信頼度を低くし、説得力を弱める結果になっている。「民はこれに由らしむべし。知らしむべからず」という「愚民政策」はいよいよ限界に来ているというしかない。 そして極めつけは、おなじみ「腐敗」の蔓延である。腐敗は昔からあったし、中国社会の腐敗はある種手数料のようなもので、ごく身近な話である。それが今になって人々の批判が高まり、政権が本気で腐敗退治に取り組まざるを得なくなったのは、前述したように人々が自らの努力で豊かになる道筋が見えなくなってきたからである。かつて中国の人々は腐敗すらうまく利用して自らの活路を切り開いた。今はもうそんな時代ではない。権力者と独占資本が結びついて権益を固め、腐敗のケタが違う。普通の人々の手の届く話ではなくなった。だから取り締まって見せるしかなくなったのである。 「カネの切れ目が縁の切れ目」という言葉があるが、「カネ」とは「経済成長して豊かになること」 と考えれば、いま中国社会はこの「切れ目」に差しかかりつつあるように見える。政権が人々に「カネ」を与え続けられなくなった時、何が起きるのか想像はつかないが、容易ならざる事態に陥るであろうことは間違いない。もしかすると、そのプロセスはもう始まっているのかもしれない。昨今の中国の権力者たちのいささか常軌を逸した発言や行動を見るにつけ、そんなことを思わざるを得ない。 (2014年7月11日掲載)
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