03. 2014年6月06日 11:50:26
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まあ中国だから不思議ではないhttp://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20140603/266068/?ST=print 「世界鑑測 北村豊の「中国・キタムラリポート」」 埋葬改革で4.5万個の棺桶を強制接収 火葬を国是としながら、火葬率は5割に満たず 2014年6月6日(金) 北村 豊 北京紙「新京報」は5月28日付で「安慶の“殯葬(埋葬)”改革、挫折から改めて再開へ」<注1>と題する記事を掲載した。この記事は中国国内の多数のニュースサイトに転載されて大きな話題となったが、その後当局から削除指示が出された模様で、ネットで検索しても当該記事は見当たらないし、新京報の電子版でも読めなくなっている。それは、当該記事が当局にとって敏感にならざるを得ない内容を含んでいるということなのだろうが、その要旨を取りまとめると以下の通り。 <注1>“殯葬”とは「出棺と埋葬」を意味するが、改革の力点は埋葬にあるので、「埋葬」と訳した。 伝統の土葬廃止に悲嘆、老人の自殺が続発 【1】“安慶市”は安徽省西南部にあり、湖北省と境を接し、“長江(揚子江)”を挟んで江西省に対面する要衝に位置する都市で、かつては安徽省の省都でもあった歴史を持つ。2013年末時点の常住人口は535万人であり、65歳以上の老人が常住人口に占める高齢化率は14.8%で、すでに「高齢化社会(7〜14%)」を過ぎて「高齢社会(14〜21%)」に突入している。その安慶市では先頃「埋葬改革」が実施されることとなり、6月1日からは同市の住民は都市部、農村部の区別なく、死亡したら規定に基づいて“火化(火葬する)”ことが求められることになった。ところが、この改革政策が発表された後、安慶市の管轄下にある“桐城市”の周囲50km圏内で6人もの老人が死後に火葬されることを嫌って自殺したことが判明したのである。 【2】安慶市周辺では人が死んだら遺骸を“棺木(棺桶)”に収めて土に埋める「土葬」が伝統的な埋葬方法で、人々は老年が近づくと事前に自分のための棺桶を準備し、死後はその棺桶の中で永久の眠りに就くのが長年の風習である。6人の老人たちは死後のために準備して来た棺桶が強制的に接収され、6月1日以降は遺骸が火葬されると聞いて動揺し、心の負担に耐え切れず、そうなる前に棺桶で土葬されようと自殺したものと考えられた。 【3】安慶市は、1994年に公布された『安徽省埋葬管理弁法』の規定に基づき、辺鄙な“岳西県”を除く全域を火葬地域と定め、火葬の普及に努めたが尻切れトンボに終わった。1997年に中国政府“国務院”が『埋葬管理条例』を公布して土葬を改革して積極的に火葬を推進することを規定した際も、安慶市の埋葬改革は停滞したままだった。2006年には改めて埋葬改革を推進すべく、大衆を動員して決起集会まで開催したが、これも中途半端に終わった。2013年5月のデータによれば、安慶市の火葬地域における年間死亡者数3万8000人のうちで火葬されたのはわずか3500人余りに過ぎず、しかもその半数は都市部が占め、農村部の比率は限られたものだった。 【4】1994年から2014年の現在まで、安慶市の埋葬改革は過去20年間遅々として進んでおらず、安慶市政府は中央政府ならびに省政府から大きな圧力を受けていた。このため、2014年3月16日、安慶市の共産党委員会と市政府は共同で「安慶市埋葬改革プロジェクト指導チーム」を組織し、3月25日付で「4月1日から埋葬改革を実施に移し、市の住民は都市部・農村部の区別なく死亡したら火葬する」旨の通知を出した。さらに、5月初旬には「6月1日から埋葬改革を正式に実施する」旨を通達した。これと同時に安慶市“民生局”は、全市の火葬率を2014年末までに50%に引き上げ、2015年には70%、2016年には80%に到達させるという努力目標を発表した。 【5】しかし、安慶市のように土葬の風習が深く根付いている地域で、他地域で苦労の末に長年かけてようやく実現した埋葬改革の目標値を、わずか3年間で達成することなど非現実的だった。3月25日の通知が出されると、下部の行政機構である“村”では村組織の委員を村委員会に招集して火葬推進の宣伝を行うと同時に、村の老人たちが準備している土葬用の棺桶の接収を決議し、老人たちを訪ねては強制的に棺桶の接収を始めたのだった。棺桶の接収は老人たちの抵抗を力で抑えつける形で次々と強行され、接収した棺桶は破壊された後に放置された。 “睡棺材”は老人たちの最後の願望 【6】5月6日、桐城市“新店村”に住む91歳の“呉正徳”は、棺桶が接収されているという話を聞いた1時間後に首を吊って自殺した。呉正徳の息子の“呉大旺”は、長年にわたり地元の中学で校長を務め、昨年退職したばかりだが、4月に棺桶接収の噂を聞いて脅える呉正徳に「何も聞いていないから、本当かどうか分からない」となだめていたのだった。また、同じ桐城市の“大関鎮?冲村”に居住する88歳の“潘秀英”は4回も自殺を試みたが死に切れずに救助され、彼女の子供たちの懇請を受けた村党委員会は暫時棺桶を接収しないことに同意した。5月25日に新京報の記者から取材を受けた潘秀英は、「私にとって棺桶は、唯一の生きる希望なのだ」と答えたという。 【7】上述した呉正徳の棺桶は自宅の部屋の片隅に置かれていたが、12本の杉の木を使って作られた朱塗りの代物で、上にはプラスチックのカバーが掛けられていた。また、呉正徳の家から20kmほどの距離にある?冲村の潘秀英の家では、類似の棺桶が彼女の寝台の正面に置かれていた。これらの棺桶は十数年前に作られたもので、当時2000〜3000元(約3〜5万円)で購入したものだった。84歳の新店村の村民である“施学文”によれば、棺桶は人間にとって最後の家であり、一生を苦労のうちに終えた人が死後に風雨の影響を受けず静かに眠れる家なのだという。従い、“睡棺材(棺桶で眠る)”ということは地元の老人たちに共通する願望なのである。 【8】安慶市一帯の伝統的埋葬方法は、“血葬(死者を棺桶に納棺したらそのまま土葬する方式)”ではなく、死者を納めた棺桶を野外に数年間放置した後に改めて土葬する“?棺(仮埋葬)”である。“五保戸”と呼ばれる生活保護世帯などは簡易な“血葬”だが、“血葬”は子孫の繁栄に不利と考えられ、“?棺”が一般的である。安慶市一帯の山の斜面にある木の茂みには石綿や石材で作られた灰色の小屋がそこかしこに存在するが、その小屋の中には土葬されるのを待つ仮埋葬の棺桶が置かれている。 【9】5月27日、新京報の記者は安徽省“民生庁”および安慶市民政局にそれぞれ棺桶の強制接収について問い合わせたところ、前者は「棺桶の強制接収は禁止されている」、後者は「安慶市の埋葬改革政策では棺桶の強制接収は禁止されており、現状のところ強制接収が行われている事実はない」との回答であった。しかしながら、こうした省政府ならびに市政府の回答にもかかわらず、下部の行政機構である“村”は上部機構の指示に忠実に従い、なりふり構わず棺桶の接収に精を出し、強制的な接収もいとわなかった。人口4900人の新店村では5月6日から棺桶の接収を開始し、棺桶1個当たり1000元(約1万6500円)の補助金を支給する形で、192個の棺桶を接収した。棺桶の接収量が一定水準に達しなければ、村役人たちは処分を受けるので、接収を強行しなければなかったのである。 当局は「老人の自殺と埋葬改革に因果関係なし」 【10】5月25日に桐城市党委員会“対外宣伝部”の副部長が、詳しい調査を経て桐城市には全部で4.6万個の棺桶があることが判明し、そのうちの4.5万個が廃棄処分されたと発表した。残りの約800個の棺桶は依然として住民の家屋内に残されて処分保留となっているが、政府はこれらの棺桶についても順次対処して行く方針だという。一方、5月27日に新京報記者が老人の自殺問題についてただしたのに応じた安慶市党委員会「対外宣伝弁公室」主任は、「一部のメディアが報じている老人の自殺と安慶市の埋葬改革には直接の因果関係はない。広大な中国で老人が病気を発症して死ぬことはごく当たり前なことであり、これを埋葬改革に結びつけるのは理屈に合わない」と述べた。 【11】安慶市における埋葬改革は、市政府が事前の調査研究も、住民に対する事前の啓蒙活動も行わぬまま、性急に火葬率の向上を図ったことにより、住民たちを混乱させると同時に、棺桶の中で永久の眠りに就くという老人たちのささやかな夢をも打ち砕いたのだった。棺桶の強制接収について言えば、棺桶も公民の私有財産であり、所有者が不同意という前提の下で、棺桶を強制接収して破壊するのは“物権法”に違反しており、明らかな違法行為であると法律専門家は述べている。 中国には全人口の92%を占める漢民族と残りの8%を構成する55の少数民族がいる。歴史的に見ると、各民族は“天葬(鳥葬)”、水葬、土葬、火葬、“野葬(草原に放置する風葬)”、“崖葬(崖の穴や壁に放置する風葬)”など、多種多様な埋葬方法を行って来ている。国家権力が埋葬に関与するようになったのは北宋時代(960〜1127年)からで、北宋の太祖“趙匡胤”(在位:960〜976年)と南宋の高祖“趙構”(在位:1127〜1162年)の2人は詔勅を発して火葬を禁止した。その後の明朝と清朝はそれぞれの法令である『大明律』と『大清律』の中で火葬を禁じている。このように北宋の時代から中華人民共和国の成立までの約1000年間は火葬が原則禁止されていたが、一般庶民には火葬を志向する者が多かったので、実際には火葬は禁止されていなかった。 北宋以降1000年は火葬禁止、共産党が埋葬管理へ 1949年に中華人民共和国が成立して中国共産党が政権を握ると、1952年には中国政府“内務部(後の民生部)”が“墓葬改革(墓改革)”を提起した。1956年、“中央工作会議(中央業務部会)”の席上、党中央委員会主席の“毛沢東”は、「全ての国民は死んだら火葬にすることを実行すべきで、そうすれば遺骨だけが残り、遺骸は残らないから墓を建てる必要はない」と提案した。当時この提案は具体化されるまで行かなかったが、それから30年後に具体化され、1985年に『国務院の埋葬管理に関する暫定規定』が公布された。この暫定規定を基礎として1997年には『殯葬管理条例』が公布され、最終的に「積極的に、順次火葬を実行し、土葬を改革し、埋葬用の土地を節約し、葬儀の野蛮な風俗を排除し、文化的で簡素な葬儀を提唱する(第2条)」が埋葬管理の方針として明記された。 1997年の管理条例の第5章「罰則」にある第20条には、「火葬しなければならない遺骸を土葬する、あるいは共同墓地や農村の公共墓地以外の土地に遺骸を埋葬して墓を建てた場合は、地元政府の民生部門が期限を定めて是正させる。これを拒否する場合は、強制執行を許すものとする」とあった。しかし、この第20条は2012年11月9日付で改正され(発効は2013年1月1日)、文末の「これを拒否する場合は、強制執行を許すものとする」が削除された。それは強制執行と中国伝統の“死者入土為安(死者は埋葬すれば極楽往生できる)”という埋葬の観念および風俗が両極端で相容れないとして、民生部門による強制執行に対する抗議と怨嗟の声が国中に溢れたことを受けた改正だった。 2012年11月9日付の法改正から言えば、安慶市の埋葬改革における棺桶の強制接収は明らかに法律違反であるが、それに目をつぶってまでも埋葬改革を推進しなければならないのが中国の現実なのである。中国の火葬率は2005年に53%であったものが、2012年には49.5%に下降し、一向に上昇していないのである。これと並行して、土葬が依然として蔓延(はびこ)り、墓地として使用するために耕地の濫用が横行し、火葬した遺骨を改めて棺桶に納めて土葬するなどの違反行為が大手を振るっているのである。 火葬率向上には、まず毛沢東の火葬から 1956年、毛沢東など151人の一世代上の党および国家指導者は、死後は火葬して遺骸を残さないこと提唱する文書に署名した。これが中国の埋葬改革の幕開けであった。しかし、その毛沢東自身が1976年9月9日に逝去した後は、遺骸は速やかに防腐処理されて保存された。そして、1年後の1977年9月9日からは北京市の天安門広場に建設された“毛主席記念館”の“瞻仰庁(せんぎょうちょう=仰ぎ見る間)”に安置された水晶棺の中で、毛沢東の遺骸は中国国旗である“五星紅旗”に包まれて眠っている。しかし、これは自ら火葬を提唱した毛沢東の本意ではないはずで、彼はその言行不一致の皮肉な現実を悲しんでいるのかもしれない。 2014年3月5日、著名な歴史学者である“章立凡”は自身のブログに、同じく著名な人権派弁護士である“浦志強”と連名で、『故人の生前の意思を尊重し、毛沢東の遺体を火葬して改葬することに関する提案』を掲載した。これには多数の知識人が賛意を表明したが、中国共産党ならびに中国政府はこれを無視し、同提案はネットから即座に削除された。中国が国民の火葬率を上げようと本当に思うのであれば、毛沢東の遺体を火葬に付し、国家としての本気度を国民に示すことが先決ではあるまいか。水晶の棺(ひつぎ)に納められて、毎日多数の参観者に眺められている毛沢東は、二枚舌の誹(そし)りを受けて浮かばれまい。 このコラムについて 世界鑑測 北村豊の「中国・キタムラリポート」 日中両国が本当の意味で交流するには、両国民が相互理解を深めることが先決である。ところが、日本のメディアの中国に関する報道は、「陰陽」の「陽」ばかりが強調され、「陰」がほとんど報道されない。真の中国を理解するために、「褒めるべきは褒め、批判すべきは批判す」という視点に立って、中国国内の実態をリポートする。 |