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「甲午戦争」について特別頁を設けている『解放軍報』紙のサイト
日清戦争再発を暗示する中国の不気味な宿命論 「再び巡ってきた甲午の年」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140402-00010003-wedge-cn&p=1
WEDGE 4月2日(水)12時57分配信
再び巡ってきた甲午の年。この「甲午の年」というフレーズは2014年に入ってから盛んに中国のメディアを賑わせている。というのは2014年の今年は中国における旧暦の「甲午の年」だからだ。日本人には馴染みが薄いこの「甲午(こうご)」とは中国人にとっては恥辱の歴史の代名詞である1894年の「甲午戦争」(日清戦争)が起きた干支(えと)であり、旧暦「きのえうま」を意味し、干支の60年周期で31番目の年を指す。そして今年は日清戦争勃発からちょうと120年目に当たるのだ。
■国威発揚のまたとない機会
尖閣諸島の領有権や歴史認識を巡って日中関係がかつてないほど冷え込む中、「甲午の年」が再び巡ってきたということで、中国では国威発揚のまたとない機会として党や軍の宣伝部門が「甲午戦争」を取り上げて愛党、愛国、国防の必要性を訴えるキャンペーン(『解放軍報』紙サイト「中国軍網」は特設頁〔写真〕を設けているほどだ)を展開している。
そしてキャンペーンに止まらず、これを宣伝や教育政策にも反映させる動きが出ている。立法機関である議会に当たる全国人民代表大会では代議員たちが日清戦争を記憶し、愛国主義や国防に生かす必要性を主張し、制度化しようしている。そこで『解放軍報』から二本の記事を取り上げ、紹介したい。
一本目は解放軍芸術学院の文学部主任である徐貴祥教授による「歴史の宿命?―甲午戦争文化黙考録シリーズ」であり、二本目は「今日、どのように国恥を記憶するかー全人代の軍人代表たちが甲午の年に強軍建設を提案」という記事だ。後者は3月17日に閉幕した「両会」(全国人民代表大会と全国政治協商会議の二つの議会に当たる会議)に際して連載された特集であり、日清戦争と軍の政治思想統制や教育を関連付けた代議員たちの政策提案を紹介している。
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記事(1)【2014年3月20日『解放軍報』(抄訳)】
2014年は1894年に勃発した中日の甲午戦争からちょうど2周回甲午年を経た年だ。この120年間で世界は激変したが、中国の軍人からするとあの敗戦はあたかも体から取り出せない銃弾のようであり、胸の傷口は未だに癒えないままである。
1840年のアヘン戦争から1894年の甲午戦争の勃発までの間、中国人は既に「天に頂かれた国」(自意識過剰な国という意:筆者)という看板を下ろし、林則徐は海外に目を向けるようになった。
アヘン戦争が中国の鎖国の扉を強制的に開かせたが、中国の朝廷は依然として国力が衰退しているという事実を信じることはなく、「天朝上の国に四方から朝貢に訪れる」という美しい夢を見続け、戦争の失敗を外人の「魔術」によるものと決めつけて神が助けてくれるものとばかり希望を託していた。こうした迷信によって朝廷は麻痺し、民衆は絶望させられた。
■「兵士の資質に問題があった」
一衣帯水の隣国である日本は中国のアヘン戦争において喝を入れられて夢から醒め、中国人に替わってこの戦争を反省した。佐久間象山は、清朝の失敗を「彼(西洋諸国)の実事に熟練し、国利をも興し兵力をも盛んにし、火技に妙に、航海に巧みなる事遥かに自国の上に出たるを知らずに居候故に」(イギリスが、清朝よりも遥かに進んだ軍事力を持っていることを知らなかった…:筆者)と指摘した。こうした惨敗を経ても朝廷は超然としており、学習しなかっただけでなく、外国を俗物と見なしていた。
日本民族は学習によって立国し、西洋列強によって開国を迫られてから中国と西洋を比較し、「学をなす要は格物究理に在り」と有用の実学を発見した。アヘン戦争後、日本人は中国の状況を把握し尽くしただけでなく打開策を見つけた。中国を侵略し「脱亜入欧」して、東方のボスとなろうとした。1868年に明治天皇は「古いしきたりを打開し、世界に知識を求めよ」と号令をかけ、西洋の進んだ文化を学び、留学生、使節団を派遣し、鉄道電信を興し、教育を普及させた。天皇も節約節食し、民衆は寄付も行い、一体となって軍備を拡充したことは伝説の様に中国人によく知られている。
李鴻章はドイツから「鎮遠」、「定遠」など十数隻の軍艦を購入し、仰々しく日本に訪問さえしたが、日本の代表団は北洋水師の艦船を訪問した際にすぐにその破綻に気付いた。洋務運動を通じ構築が進められていた中国の海軍は、艦船の排水量でも、火器の装備でも日本の海軍と遜色なかったが、装備を操作する兵士の資質に問題があった。規律は弛緩し、訓練は統制がとれておらず、汚職が蔓延しており、闘志がなかった。
日本のある大佐は白い手袋をはめ、軍艦の砲台を撫でたあと埃がついたのをみて、軽蔑的笑いを浮かべ、絶対的自信をもって開戦を求める書簡をしたためた。中国の甲午戦争での失敗は、兵力の相違、装備の相違でも戦術、技術が原因ではなかった。民族精神、先進的文明に対する学習態度の違いだった。
今日、習近平総書記は中華民族の偉大な復興という中国の夢を提起し、中国の人々の愛国心を大いに鼓舞している。私たちは歴史を鑑とし、屈辱と失敗に向き合い、教訓を客観的に総括し、改革開放を深めて思想観念の束縛を突破しなければならない。
■全人代での軍代表の言葉
記事(2)【2014年3月13日『解放軍報』】
今から120年前の甲午の年。中国近代史上一つの屈辱的戦争が悲痛な傷跡を残した。時はめぐりまた再び甲午の年が巡ってきた。今日の中国は既に他人に凌辱され、分割された屈辱の歴史から脱して国際的地位でも総合国力においても天地を覆すような変化を成し遂げている。
全国人民代表会議の軍代表(軍を代表して出席した代議員たち:筆者)たちは、中華民族の発展、運命に大きな影響を与えたあの戦争から教訓として何を得たのか。
白文奇(海軍中将、元北海艦隊政治委員)代表
我々の北海艦隊の艦艇は、通常甲午戦争が発生した戦場に赴くことが多いが、毎回波しぶき立つその海域に入るたびに、沸き立つ砲声を聞くかのような思いに囚われる。歴史を刻み、国恥を忘れないことは一人一人の北海艦隊兵士たちの必修科目となっている。我々一人一人の兵士において歴史の詳細は時間の流れとともに流れ去ってはいない。
1894年7月25日、日本軍は清朝の兵士輸送艦隊を奇襲攻撃し、豊島海戦が勃発した。9月には大東溝海戦が勃発し、11月には大連が陥落した。翌2月17日、北洋水師は威海(山東省沖)で壊滅した。かつて兵士に聞かれたことがある。一体いつを記念日にすればいいのだろうかと。そこで私は次のように言った。甲午戦争記念日をいつにするかは重要ではない、重要なのは君が国恥を心に刻むことであり、どのように奮起して中華民族の悲劇を繰り返さないようにするかだ、と。
王華勇(海軍少将、東海艦隊政治委員)
一枚の「下関条約」(中国語では「馬関条約」と呼称:筆者)は屈辱的に領土の割譲と賠償を迫っただけでなく、清朝が行ってきた洋務運動(西洋化を図り近代化する活動:筆者)を通じた強国実現構想を御破算にした。中国近代の反侵略戦争において甲午戦争は最大規模で最も残酷で影響も最も深い戦争だった。中国の植民地化プロセスを加速させ、近代化を中断させ中華民族の運命は歴史的谷底に陥った。
日清戦争前に日本の大本営は制海権の策を練った。その一方で清朝、李鴻章はこの重大な戦略問題に対してぼんやりしたままだった。戦時に海軍がどのような役割を果たすか、明晰な考えを持ち合わせていなかった。朝鮮と開戦してから日本海軍は充分に準備を整え、中国艦隊に対応すべく精力を集中した一方で、中国海軍は敵との遭遇の回避を図り、決戦に備える思想、軍事的準備を整えていなかった。制海権の放棄と喪失が日中戦争で敗北した重要な戦略的原因だったわけだ。
莫俊鵬(陸軍少将、第二砲兵22基地司令員)代表
120年前にアジア最強の艦船を保有した清朝の軍隊は、それにもかかわらずあの戦争に敗北したのである。一つの重要な敗因としては、朝廷が上から下まで民族的危機感を心に刻んでいた人はそれほど多くなく、主流を占めることはなかったことが挙げられる。
北洋水師(清朝の海軍:筆者)は、風紀紊乱(ふうきびんらん)に陥り軍規は乱れ、悪弊が蔓延していた。歴史は一面の鏡であり、我が国の安全保障が直面する挑戦とチャレンジは未曽有のものだ。現在の平和ボケを徹底して取り除き、「定遠号」の鉄の錨を永遠に心に刻み、民族と国家の大業を重視し、国防と軍隊建設を念じて、戦わねばならず、準備を整える必要がある。
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■蔓延する汚職 近代化への焦燥
【解説】
日中関係が未曽有の行き詰まりに陥る中、中国メディアを賑わす日清戦争120周年の話は日本人からすると不気味に映る。中国は一体戦争を欲しているのか、日本に攻撃を仕掛け、日清戦争時の屈辱を晴らそうとしているのか、という疑問さえ湧く。
しかし、上記のように紹介した文章を詳細に見てみると、重点は日本との戦い云々よりも、歴史的教訓として軍の近代化と改革を進めるべきと考え、汚職の蔓延や効率の悪さで遅々として進まない近代化への焦燥が窺える。王毅外相は「両会」記者会見の席で2014年は「1914年でもなければまして1894年などではない」と歴史の再発を否定する発言をしている。
10年ほど前に中国国内で『共和へ向かう(走向共和)』というドラマが話題になったことがある。日清戦争を経て革命時代に突入し、最終的には中華人民共和国を設立するまでのプロセスを描いた大河ドラマだが、戦争の描き方が党プロパガンダと少し異なっていたため議論を呼び、一度放映されたきり再度放送されることはなかった。問題視されたのは、日本が国防の近代化のために明治天皇までも食事を我慢して国力増強に備えた歴史の教訓として描いた点であり、まさに今回取り上げた論評や代議員たちの提案と似た論調だった。
中国において国の発展、軍の近代化を阻害する大きな要因の一つが汚職だということはこれまで別の記事でも紹介してきたが、その後、軍のトップだった徐才厚・元中央軍事委員会副主席が身柄を拘束された、とか現職の国防大臣の汚職関与の噂さえも華僑系ニュースを賑わすまでになっている。
こうした汚職のほかにもう一つのポイントが機構改革だ。昨年秋の3中全会以降に俎上に上がっている軍機構改革は1985年の100万人削減、1997年の50万人、2003年の20万人と大ナタが振るわれた削減に続く4回目の兵員削減に当たる。兵員削減と機構改革は表裏一体であり、それに汚職という要素が加わり、機構改革をより困難にしている。こうした中で日清戦争の教訓を持ち出して機構や人員刷新を図ろうとするのは中国ではオーソドックスな手法だ。
習近平政権は政府、党中央に改革を深める指導グループ(全面深化改革領導小組)と称するタスクフォースを設置して一気呵成に改革を進めようとしている。軍にもこれに対応したタスクフォースを設置して、習近平がじきじきにその長に就任し、許其亮と範長竜という二人の中央軍事委員会副主席がその副組長になった(許は常務副組長としてイニシアチブをとるようだ)。さらにその下に分野別タスクフォースも設けられ、更迭された谷俊山が所属した兵站部門でも改革タスクフォースの会合が開かれた。
とは言いながら、日清戦争を云々する論調は今年1年を通じてこれからより盛り上がる可能性があり、日本人にとって不気味であり、うんざりだ。それでも私たちはこうした中で発せられる一つ一つの文章や指導者の演説を冷静に分析し、メッセージの意味や発せられるシグナルを忖度(そんたく)することが重要なことには変わりはない。
弓野正宏
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