03. 2014年11月28日 07:04:31
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日韓合同制作の"芸術作品"、「悪辣非道の日本」 慰安婦の心象と韓国への温情を持ち込んだ河野氏の愚かさ 2014年11月28日(Fri) 森 清勇 河野談話(以下「談話」)の発出に至る経緯は政府の調査で明確になった。河野洋平官房長官(当時)は、慰安婦たちの証言・心象と韓国への温情から「強制性」にこじつけ、発表会見で「強制連行の事実があった」という認識を披歴した。 「談話」をはみ出した心象認識が、日本軍による「強制連行」として国際社会を駆け巡った。 証言や記憶などの信頼性については、よほど慎重でないといけない。河野氏が歴史に徴して、証言や回想録などをどう考えていたのか理解に苦しむ。以下、いくつかの事例を紹介しながら検証する。 菅直人元首相の出鱈目証言 菅前首相、福島原発事故「最大の責任は国にある」 国会・事故調 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会に参考人として出席した菅直人氏〔AFPBB News〕 「産経新聞」(26.9.29付)に阿比留瑠比氏が「菅元首相の証言は信用に足るか」のタイトルで、福島第一原発事故時の全面撤退問題に関する菅直人首相(当時、以下すべて同じ)の政府事故調査・検証委員会における発言を時系列で追っている。 事故の約3週間後(23.4.18)の証言は「(東電の)清水(正孝)社長は、私が(全面撤退はダメだと)言ったときに、『いやいや、別に撤退という意味ではないんだ』ということを言った」として、「全面撤退否定」を断言したとしている。 その1週間後(23.4.25)は、「『引き揚げられてもらっては困るんじゃないか』と言ったら、『いやいや、そういうことではありません』と言って」となり、続く5月2日には「『どうなんだ』と言ったら『いやいや、そういうつもりはないけれども』という話だった」と、微妙な変化を見せている。しかし、全面撤退否定に変りはない。 ところが約1年後(24.4.3)では、「私が(全面撤退はダメだと)言ったときに『そんなことは言っていませんよ』なんて反論は一切なかった。やはり(全面撤退を)思っていたんだなと思う」となっている。見事に証言が反転していることを証明している。 阿比留氏が慰安婦の証言をはじめとした検証に長けているのは、過去に延べ100人近い戦没者遺族を取材して「人は自分自身の体験を語る場合でも記憶はあいまいで、他の人の言葉や証言との混同は珍しくない。 さらに、記憶はときに美化されていたり、全くなかったことを覚えていたりする」ので、「当事者の証言だからと、とても信用できたものではない」と痛感していたからであろう。 民主党政権の福島原発事故対応は、国民の批判を招いた。閣僚や首相補佐官などで事故に関わった人物たちが競って武勇伝みたいなものを上梓したが、調書や著書には、結果が分かっている状況に近づける発言や記述が知らず知らずの間に捻じ込まれ、辻褄を合わせているに違いない。よほど注意して読み解かないといけない。 パル判事の「日記」観 東京裁判では『近衛手記』や『木戸幸一日記』などが珍重された。しかし、こうした日記にもすべて目を通したうえで、被告全員の無罪を主張したインドのパル判事は次のような日記観を披瀝している。 「人生の行路は不可解事で包まれているのが常である。それには常に数多くの自己矛盾があり、自己撞着がある。調和しない過去の事柄と、現在の事柄が常に存在する。しかし、人間たる創造者の筆はすべての衝突と矛盾とを解決して、定められた経路をたどろうとするのが常である。そうなると、日記に従って発展せられることになるのである。その日記の筆者が利害関係を持たない一観察者ではなく、自身が全事件の主だった参画者である場合、事実をゆがめる影響を生ずる可能性は一段と強くなることである」(清瀬一郎著『秘録・東京裁判』) 東条元首相、戦争継続に固執 終戦直前の手記発見 東京裁判に出廷した東条英機元首相〔AFPBB News〕 端的な例として、陛下が杉山元参謀総長に万一(大東亜)戦争になった場合、どれくらいで決着の見込みかとお尋ねになると、3か月位と答える。そこで陛下はかつて陸相として支那事変では1か月で片が付くと言ったではないかと詰問される(註:結果はどちらも4年近くになってしまう)。 これは『近衛日記』に書かれていることであるが、その日に近衛から聞いた重光葵はそれぞれ4か月と3か月と記している。同日の聞き書きで既に3か月が4か月になり、1か月が3か月に化けている。 大東亜戦争に関する日記、手記、回想録などのあちこちに、こうした「転換」や「誤記」が見つかる。筆者が大東亜戦争に関し、当時の外務省の主要人物の著作などを通じて開戦前から敗戦直後、そして関係者もいなくなってきた段階などについて調べた。 敗戦と塗炭の苦しみを国民にもたらした旧軍人という批判には謙虚に耳を傾けるべきであるが、軍人たちがほとんど回顧録などを書かなかったのに対し、外交官たちは競って回顧録などをものして自己正当化を図った姿を目にし、愕然とした記憶がある。 「日記」を付けなかった吉田茂 吉田茂は戦前戦後の日本において「自身が全事件の主だった参画者」だった。だからであろうか、彼は「日記のために問題を起こし、他人に、また国家に、累を及ぼしてはならない。そんな実例がないでもないからである」として、「在外勤務中から日記を付けないと決めていた」(『回想十年』、以下同)という。 その後も自叙伝や回想録を書かないかと奨められると、「結局、自画自讃か、自家広告か、然らずんば弁疎(註・弁解のこと)の類に過ぎない。だから自叙伝、回想録の類は書きたくない」と固辞し続ける。 その吉田も終戦10周年を迎えたところで、『回想十年』を書かされる。「でき上がってみると、やはり意に満たぬ点が多い。殊にわれ乍ら滑稽に堪えぬのは、人の場合には散々貶した自画自讃的な個所の出ていることである」と苦笑している。 そして、ところどころに挿入された余話″の方が、その道の権威者が書いたものだから「読者を益するところが多いと考える」と書き添え、史実に忠実であろうとした。 首相の話になった序に書き加えると、日本では首相経験者が首相退任後も大御所政治家然として政界に居残り、幅を利かして若手の登場を阻んでいるように思えてならない。 また、日本では2代目、3代目の政治家が多すぎる。しかも、河野洋平氏や鳩山由紀夫氏らが日本を益するどころか、日本の名誉を汚し、日本売りに注力してきたのは、まさしく「売り家と唐様で書く3代目」の諺を地で行くようで寒心に堪えない。 日本と外国では文化も政治システムも異なり一概に比較できないが、米欧では任期終了とともにさっさと政治家を引退して、自分に関係する資料を一堂に集めた記念館などを設立し、同時に回顧録の執筆に注力する者が多いように思う。 当該者の演説やその他関連の資料が一か所に集積されるという意味では、後世の研究者などに便宜を与え、自画自讃やごまかしなどは早晩見破られ、恥をかくことになる。外国の美点は美点として大いに見習ってもいいのではないだろうか。 信憑性のない朝鮮人慰安婦たちの証言 筆者は「日本のジャーナリストの怠慢とジャーナリズムの堕落 南京大虐殺や百人斬りの虚報も朝日新聞だけの責任か」で、「70年代にはいくらでも確認できる人物がいたと思われる」と書いた。 『正論』2014年12月号は、獨協大学の中村粲名誉教授が主催していた「昭和史研究會報」に掲載された軍人や民間人らの証言を転載している。談話作成の時代でも実務に携わった人士がたくさんいたことが分かる。 また、「慰安婦」問題ということから、談話では女性が主な聞き取り対象にされているが、中村教授の會報から分かるように、運営などに関わった男性の記名証言がよほど信憑性がある。 なお、韓国人慰安婦の数倍はいたとされる日本人慰安婦は1人として声を上げないで、韓国人のみが声を上げている。その解答は安秉直(アン・ビョンジク)ソウル大学名誉教授に対するジャーナリストの大高未貴氏のインタビュー(『週刊文春』2014.4.10号)が与えてくれる。 植民地経済史を中心にしていた安氏は慰安婦の実体がどんなものであったかに関心を持ち、1990年代初頭の韓国で慰安婦の実態調査を手がける。慰安婦問題の原点とされる聞き取り調査も、「挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)」と共同で行っている。 2年がかりで行った調査結果は日本語版『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(以下『証言集』)として翻訳されている。 安氏らの最初の調査段階では「日本軍を悪く言う慰安婦は一人もおらず、むしろ日本への憧れの気持ちを感じた」者たちであった(註:中村教授調査結果に合致)が、挺対協によって「帝国主義の犠牲者」という枠組みで洗脳されていくうちに証言内容が変わり、取り纏めでは(約40人の中から信憑性で選ばれた)19名の証言のみが『証言集』として記録されることになる。 安氏は「5、6回以上の面接調査」であるが、信頼できる報告書は「社会的に大きな問題となる前に、慰安婦たちと何年か一緒に生活しながら調査する」ことが必要だと言う。 談話で聴取された16人の慰安婦のうち、12人は挺対協が事実に歪曲があるとして採用しなかった者であり、残り4人は『証言集』に登場するが、証言集とは異なることを話していると大高氏は言う。 すなわち、ほとんど信頼性がない慰安婦たちの証言に韓国政府の意向を積み上げた「河野談話」に心象認識までもが加味されたもので、信憑性を口にするのも憚られる。 おわりに 慰安婦問題は「性」という個人の内面に関わることであるだけに、実体を聞き出すことは容易ではない。安氏が言うように、「一緒に生活」しなければ真実はつかめない。 山崎朋子氏は「からゆきさん」を取材するために、1メートルもの煤紐が下がり、壁は崩れ落ち、襖と障子はあらかた骨ばかりで、座敷の畳は腐りきって田んぼのように足が沈み、座った膝に何匹もの百足が這い上がってくる家とも思えない家に一か月弱泊まり込んで生活している(『サンダカン八番娼館』)。 それでも「果たして私はからゆきさんの声なき声を本当につかむことが出来たのであろうか―という反省があった」として、4年間は上梓できなかったという。 阿比留氏は記事の中で、芥川龍之介が傾倒したアナトール・フランス(ノーベル文学賞の仏人作家)の「歴史家がある証人を信用したり、他の証人を信用しなかったりするのは、感情上の諸理由にすぎないということである。歴史は科学ではない。芸術である」という文言を紹介している。 慰安婦問題ばかりでなく南京大虐殺や百人斬りなども実体に関わりなく、日本を悪辣非道の国家にするための「芸術」に高められている。 30万人や100人という数字の非科学性をいくら証明しても、相手がびくともしないゆえんである。別の手段・方法による反撃しか有効な手立てはないであろう。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42292
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