01. 2014年12月02日 07:59:12
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JBpress>海外>アジア [アジア] 「モノが溢れていると発想が貧困になる」のウソ 絵コンテが理解できないカンボジアのカメラマン〜それでもテレビは放送される(7) 2014年12月02日(Tue) 金廣 純子 カンボジアのテレビには、なぜあんなに不可思議な映像が流れているのか、これまで私なりに分析してきた。 そこから、色々なことを”私なりに”理解したのであるが、この連載の第1回で書いた「クメール語が理解できなくても、彼らが創った映像を見れば、彼らが大体どんな道筋で物事を理解し、どう考えているのか、少なくともどんな風に考えるように教育されてきたかが想像できる」というのを、まとめてみるとこんなことになるのだと思う。 1.上意下達のカンボジア社会にあって、社会的地位の高い人から認められることは一番の名誉である。だからカンボジアのテレビニュースには、常に儀式・式典映像ばかりが並んでしまう(通常、日本のテレビマンは、「儀式・式典の映像ほど絵にならないものなない」と言って避ける傾向にある)。 2.出版文化や出版物そのものが破壊されてしまったために、物語を構築するのが難しい。 3.映像表現に客観と主観があることが理解できないため、曖昧な映像で表現しようとする。また、自分の主観的興味に素直なので、対象物ばかりを主観的に撮影・編集してしまい、回りの状況がよくわからない。 つまり、これらが彼らの考える道筋の全てではないが、一部がこうして映像に表れるのである。 図画工作を経験したことがないカンボジア人スタッフ さて、今回は、こうした事情を踏まえた上で、「ABUデジスタ・ティーンズ」の準備を通して見えてきたことを書いてみたいと思う。 デジスタ・ワークショップの模様。(写真提供:筆者、以下同) 7月にデジスタに参加する学生たちを集めてのワークショップを開催した。ワークショップでは、学生たちがデジタル映像作品を制作するのに必要なツールの使い方やストーリーの組み立て方など、いわば「映像の基本」を教える。
メンター(指導者)として、カンボジア在住のアニメーターでありデザイナーである中村英誉さんが2Dアニメーションを担当、そして、わざわざ日本からコマ撮りも手がけるクリエイター・青木純さんをNHKが派遣してくれたのである。 2Dアニメーションの場合、専用ソフトをコンピューターにインストールし、それを使いこなせるようになると画面上に絵を描き、そしてそれを動かすことができるようになるのだが、コマ撮りの場合には、画面に登場する造形物を創って、それを1コマずつ静止画(写真)で撮影していかなければならない。 つまり、自分たちの手を使って、まずは手作りで造形物を創らなければならないので、その造形物を作るための材料が必要なわけです。 ということで、青木さんが日本からやって来る前に、その造形物の材料として私たちが揃えておかなければいけないのは、粘土、画用紙、水彩絵の具、色エンピツ、クレヨン、糊、ホチキスなどなど・・・といったものだった。 お気づきのように、日本人である私たちならほとんど子供の頃に慣れ親しんだ遊び道具である。 私は、この道具を私自身が買いに行くのではなく、国営テレビ局の若いスタッフに買いに行かせることにした。なぜなら、今年初参加のデジスタに来年以降も参加するには、彼ら自身がこうした道具を調達しなければならないからである。 ただ、なんとなくこのリストを見た時に、粘土は知らないだろうなあ・・・という予感があった。もしかしたらクレヨンも分からないかもしれない。なぜならば、カンボジアでは「美術」とか「図画工作」といった情操教育が、いまだに多くの小学校や中学校のカリキュラムに組みこまれていないからだ。 今現在だってそうなのだから、既に成人を過ぎているスタッフは学校で教わっていない可能性もある。 アニメ用造作物を制作する道具でテンヤワンヤ そこで私は、それぞれのアイテムに写真を添付し、形状の説明を加え、それをスタッフに英語からクメール語に翻訳してもらって、購入リストを作り上げた。そして、そのリストをスタッフたちに見せて、まずはリストの一つ一つが理解できるかどうかを聞いてみた。以下、スタッフたちとの問答である。 スタッフ「ジュンコ、この1番目のクレイ(粘土)って何?」 この質問は想定内なので、余裕で身振り手振りも交えて答える。なんか納得してくれたみたいだ。 スタッフ「エンピツは黒しかありません」 え? 黒しかないの? スタッフ「黒しかない。見たことがないです」 あああ、そうなんだ。じゃあ、まあ一応他の色があるかどうか探してみて。 スタッフ「画用紙ってコピー用紙のA4のやつ?」 違う違う。もっと厚いの。絵を描く専用のやつ。 スタッフ「??」 続けて言う。「でも色が付いたのはA4しかないと思う」 どうも彼らは画用紙そのものを見たことがないらしく、紙の厚みとか材質については全く気にせず、A4にこだわるのである。こだわるところはA4じゃなくて、絵を描くための材質なのだが。 あ、それと、絵の具は水彩です。油じゃありません、と説明。これについては、彼らは理解したように見えた。 ワークショップで用意した道具や素材 そして・・・
予想通り、買い物は一度では終わらなかった。絵の具は油絵の具だったし、いわゆる子供用の綴じられた画用紙セットと、色のついたA4のコピー用紙を買ってきた。案の定、どちらが画用紙なのか分からなかったらしい。 そして、エンピツはやはり黒しかないと言い張り、結局、最後には私が「ブックセンター」という名の文房具屋に出向いたら、何の苦もなく色エンピツが見つかったのだった。 しかし、彼らが知らなかったので丁寧に説明した粘土は、きちんと買ってきたのである。 「絵コンテ」を理解できないカメラマン つまり、恐らくはこういうことなのだ。 お絵かきをする、という体験が彼らにはあったにしても、我々のように当たり前に画用紙を使ったり、色エンピツを使ったりして描いていない。見たことがないから、わからない。特に、「エンピツは黒しかない」という固定概念を捨てきれないから、目の前の色エンピツなどは視界に入っていても、認識すらできない。 20代後半から30代前半のスタッフ。お絵かきの経験はあるのだろうか? さらに、こうした「お絵かき」の経験がないと、どういうことが起こり得るのかをもう一つ書く。
以前、CMの撮影とか、MC(司会)を使った撮影などをしたことがある。 私が主に彼らに教えているドキュメンタリーは、現場によって状況が刻一刻と変わっていくので、よほど事前に準備しておかなければいけないこと以外は、その場で「こんなものを撮影してくれ」という指示を出す。 しかし、CMとかMCを使った紹介カットの撮影は、予めシチュエーションも画角もきちんと決めておく。1カット目、2カット目と、すべて決めて撮影を進めるので、事前にカメラマンやスタッフと「絵コンテ」(簡単なコマ割りマンガのようなもの)を使って打ち合わせをしておく。 ところが、私が一緒に撮影をしたカメラマンたちは、この「絵コンテ」の通りに撮影をしないのである。あまりにも違うポジションから撮影しようとするので、最初は私が描いた絵コンテが下手だから理解できないのかと思った。 そこでファインダーを覗いて、「ね、この絵コンテだとこの建物のどまんなかにMCが立つことになっているでしょう? だからこのポジションじゃないよね?」と言って、ずるずるとそのポジションまでカメラとカメラマンを引っぱって行った。 それでもう一度ファインダーをのぞかせて、「ほら、この絵コンテと同じような構図になってるでしょ?」と言うのだが、どうも納得していないようなのである。 最初は、このカメラマンが下手なのだと思った。ところが、その後に別の撮影で絵コンテを見せながら撮影した別のカメラマンもそうだし、もっと言うと、同席したディレクターもどうもわかっていないようなのだ。 子供の頃の「お絵かき」が育むもの これはどういうことなんだろう? と、しばらくよく分からなくて考えこんでしまったのだが、ふと思い浮かんだのは「お絵かきの不在」ということだった。 恐らく、20代後半から30代中盤の彼らも、お絵かきを子供の頃に経験していないのではないか・・・と。 つまり、お絵かきと言うのは、3次元の現実を2次元に投射してゆく作業である。頭の中で感覚的に置き換えていくのだ。絵コンテを見て撮影するというのは、2次元で描かれた絵コンテを、3次元の現実に投射していくという逆の作業になる。 彼らにお絵かきの経験がないとすれば、こうした2次元⇔3次元の情報の切り替えをする訓練がされていない、ということになる。そうだとすれば、彼らが絵コンテを認識できないのは、自ずと理解できるというものだ。 それにしても、である。 その昔よく言われた、「モノが溢れていると発想が貧困になる」というのは、もはや通用しないのではないか、と私はカンボジアに来て思うのである。絵を描く道具もなく、その経験もないカンボジアの人びとから見えてくる風景が、何より、それを指し示していると思うのだ。 モノが溢れているということは、それだけ選択の幅が広がるということである。何よりモノがないと、それを認識することすらできず、それを応用して新しいものを創りだすこともできず、だから、発想の幅が著しく限定される、ということだと思うのだ。 食パンと蟻の闘いを制作中。道具と材料に囲まれてこそクリエイティブなセンスは育まれる その証拠に、ワークショップで私たちが用意した材料を使って、学生たちが創りだしたものは意外性に溢れていた。
水彩絵具用の水を入れるために用意しておいたコップを胴体にして、人形を作った女子学生たち。その人形の表情は豊かで最後には本物の水を使って、その目から涙を流してみせた。 紙を切り出して、食パンと蟻との「闘い」を描いたチームもあった(最終エントリー6作品はこちらでご覧いただけます)。 お金さえ出せば何でも手に入れることができ、情報が溢れている現代においては、より豊かな選択肢の幅が加わってこそ新たな発想が生まれてくるのだと、その光景は物語っているかのようだった。 こうした豊かな発想を生み出す豊饒な文化は、人間だけが享受できる、そして人間が人間らしく生きていくために不可欠なものだと思うのだ。 目の前に繰り広げられている光景は、カンボジアもそういうフェーズに入りかけていることを物語っているのだろうか? そうだとすれば、そのお手伝いを少しでもできていることがとても嬉しいと思うのである。 つづく (これまでの連載はこちらから) http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42296
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