08. 2014年10月23日 21:54:30
: b5JdkWvGxs
日本人はゴリラでもメスならやりたいんだよな: 日本軍が占領していたニューギニア島北側のティブンケ村では、住民がオーストラリア軍に通じているとみなした日本軍が住民を集め、その中の男たちを銃剣や軍刀でさらに機関銃で殺していった。現在九九人の犠牲者の名前が確認されている。
さらに日本軍は、親日派の他の村の男たちにティブンケ村の女性たち約六〇人を集団で強姦させた。 何人かの少年は初めは男たちと一緒に紐でつながれたが幸い釈放され、彼らが虐殺の目撃者となった。 ティンブンケ事件の詳細については
『世界戦争犯罪事典』秦 郁彦, 佐瀬 昌盛, 常石 敬一監修、文藝春秋社p181〜182より引用します。 ティンブンケ事件(ニューギニア) 1944年7月、東部ニューギニア(オーストラリア委任統治領)のティンブンケ村で、約100人の村民が日本軍に集団虐殺された事件。この事件には、原住民間の部族抗争もからんでいて、今も謎の部分が残っている。
ティンブンケはセピック河中流に位置するが、1942年末、北側の要点ウエワクを占領した日本軍は、この地域一帯に軍政を施行した。第41師団の歩兵第239連隊は、浜政一大尉の指揮する一個中隊(約150人)をコログ村に駐屯させ、約100キロ下流のティンブンケに一部を分派していた。 44年7月、反撃に転じた米豪連合軍がティンブンケを爆撃したが、村民が通謀していると疑った浜大尉は、コログ村民もひきつれてティンブンケに報復攻撃を加えた。村民たちは村の中心部に集められ、縛り上げられたのち、日本兵は軍刀、銃剣と機関銃で、コログ村民は斧、弓、ナイフでティンブンケ村民を殺害した。 犠牲者は男99人、女1人とされ、別に数十人の女はレイプされたのちコログ村に拉致されているが、子どもたちは処刑を免れた。 コログ村民が積極的にこの虐殺に加わったのは、以前からつづいていた部族同士の対立抗争に起因したといわれる。 終戦後、浜大尉は犯行を認め、豪州軍のラバウル法廷で死刑を宣告されたが、コログ村村長マンバーの嘆願により減刑され、代わりに逮捕されたマンバーは獄中で死亡した。 1994年来日したこの地域の首長ラクは、日本軍による虐殺、レイプ、人肉食などの戦争犯罪に対する補償を要求したが、日本政府はサンフランシスコ平和条約で解決ずみだとして応じなかった。 (秦郁彦)
《参考文献》 「浜政一手記」(『丸』1972年3月号) 清水靖子『森と魚と激戦地』(北斗出版 1997) この事件では、日本軍だけではなく、現地住民同士の部族抗争という点で日本軍の残虐行為に現地の住民が関わっていることにも注目です。部族抗争が前からあったようで、悲惨な惨状となりました。同質の事件についてはほかにもあります。 http://72.14.203.104/search?q=cache:MdaiU8jG9OsJ:www2u.biglobe.ne.jp/~NKK/zinmin_1994/08/moririronhantai.htm+%E9%81%A0%E8%97%A4%E8%AA%A0%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AB%96&hl=en&ct=clnk&cd=1より 「太平洋戦争中にニュ−ギニアで大虐殺 遺族らが日本国首相に対し謝罪を申し入れ」という見出しで次のような記事がでております。 「太平洋戦争中、ニュ−ギニア島南部のトンボンチョ村で日本軍による大虐殺があったとして遺族らが来日、八月十日、村山首相あてに日本政府への謝罪と補償を申し入れた。来日したのはこの村の遺族、被害者代表のカビド−ル・マキさん(六十六才)、ピ−タ−・カンボラさん(六十七才)であります。ピ−タ−・カンボラさんの証言によると、旧日本軍は昭和十九年七月、村人がスパイ活動をしたという理由で村の男性九十九人を銃剣などで殺し、 さらに隣村の男性たちに対し、この村の女性たちにたいする集団強姦をさせた」。 この事件は八月十三日、十四日の両日、新宿でひらかれている集会で報告されているはずであります。 トンボンチョ村虐殺事件というべきでしょうか。ここでも現地住民も日本軍の虐殺行為に加担していることが伺えます。この事件についてはネット上には詳細が見つかりませんでした。 http://ajrp.awm.gov.au/ajrp/remember.nsf/pages/NT00005182?openDocumentより
1943年、オーストラリア人とニューギニア人の将兵から成る連合軍情報局(AIB)斥候隊は、情報収集と島におけるオーストラリアの存在感の回復、及び撃墜された航空兵の救出任務のため、ニューブリテン島に派遣された。現地民らは往々にして、これら斥候隊を支援した廉で報復を受けた。例えば1943年の終わりごろ、日本軍は、AIBの斥候隊が支援を受けていたナカナイ地区(Nakanai area)での支配力を回復しようと努め、そのために村の関係者数人を拷問して処刑し、 他の事例では住民は殺害されるか殴打され、または強姦された。 オーストラリア軍は友好的な住民をゲリラとして訓練し、1944年2月から3月にかけて、ゲリラたちはわずか二名の戦死を出す間に、二百八十六名もの日本兵を殺害した。ゲリラたちが、日本軍に協力したラバウルの近くの村人に対する報復をしようとした事で、部族間の抗争もまた勃発した。 http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/17823322.html
|