01. 2014年6月08日 10:19:58
: eq6YIYBFHY
その英霊が、ベトナムで銃乱射してゲームのように婦女子を大虐殺し楽しんでいたことや、同じく婦女子を次々とレイプして、終わったら殺していたんだから、どいつもこいつも地獄送りだわな。さすがにパク・クネ大統領も、同じ女性として許せなかったんだろ。でも、日本ばかり非難するのは理屈が通らんわな。ベトナム戦争の1960年代。世界が次々と共産化されるとアメリカが唱えたのが、有名な「ドミノ理論」。ベトナムの強酸化を防ぐためと称して、西側諸国が南ベトナム側に立って参戦した。アメリカに次いで大規模な派兵をしたのが、パク・クネ大統領の父、高木正雄-朴正煕大統領であった。 ドミノ理論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%8E%E7%90%86%E8%AB%96 ベトナム戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89 韓国軍・SEATO連合軍の参戦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89#.E9.9F.93.E5.9B.BD.E8.BB.8D.E3.83.BBSEATO.E9.80.A3.E5.90.88.E8.BB.8D.E3.81.AE.E5.8F.82.E6.88.A6 (転載開始) 1961年11月、クーデターにより政権を掌握した朴正煕国家再建最高会議議長は、アメリカを訪問すると、ケネディ大統領に軍事政権の正統性を認めてもらうことや、アメリカからの援助が減らされている状況を戦争特需によって打開することを意図してベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた。 ケネディ大統領は韓国の提案を当初は受け入れなかったが、ジョンソン大統領に代わると、1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた。 1965年から1972年にかけて韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンに官民挙げてのベトナム特需に群がり、三星(サムスン)、現代、韓進、大宇などの財閥が誕生した。 アメリカはその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。 また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)などによって、韓国は漢江の奇跡と呼ばれる高度成長を果たした。 1965年8月13日に、韓国国会がベトナム派兵に同意する。1965年9月から10月にかけて大韓民国陸軍陸軍首都師団(通称:猛虎部隊、ファイアス・タイガー、朝鮮語でメンホサタン)の1万数千兵、および大韓民国海兵隊第2海兵師団(通称:ブルー・ドラゴン、青竜師団、朝鮮語読みではチョンヨンサタン)もベトナムに上陸した。1966年9月3日には同陸軍第9師団(通称:白馬部隊)もベトナムに上陸する。 タイ王国やフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなどの反共軍事同盟東南アジア条約機構(SEATO)の加盟国も、アメリカの要請によりベトナムへ各国の軍隊を派兵したが、韓国軍はSEATO派兵総数の約4倍の規模で、アメリカ以外の国としては最大の兵力を投入した。 これは、米韓の協定により、派兵規模に応じた補助金と対米移民枠を得られたこと、軍事統制権をアメリカが持っており自身に権利が無かったこと、さらに韓国自体が、北朝鮮や中華人民共和国などの軍事的脅威を身近に感じていたため、共産主義勢力の伸張に対して強い危機感を持っていたことが理由である。 (転載終了) ●当方はニュージーランドとオーストラリアで生活しましたが、両国ともベトナム参戦は公式表明こそしていないものの、反省しています。1980年代のベトナムからのボートピープル受け入れのために長らく掲げていた白豪主義を廃止したり、1984年のニュージーランドによるアメリカ核兵器搭載艦船の寄港禁止など、それの表れです。 両国にはベトナムに行った元軍人もおられますが、彼らにとっても「黒歴史」だそうで、決して他人に話さないそうです。もっとも、このことが影響して、かつて第二次世界大戦で日本がオーストラリアを爆撃したことについて、何も言わなくなったのですが。 戦争に勝者はありませんね。 |