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セウォル号の悲劇、儒教のせいではない=儒学者
2014年5月7日 ウォール・ストリート・ジャーナル 日本語版
http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304155604579547191304074068
4月16日の旅客船セウォル号の沈没事故による死者数が日ごとに増えている。この悲劇で300人余りが亡くなったことがほぼ確実になった。
多くの死者が出た要因に韓国の儒教文化を挙げる欧米のコメンテーターがいる。船長と乗組員が客室にとどまるようにと指示したのに従い、船が傾いて海水が流れ込む中でも多くの生徒(旅客の多くが高校生だった)が船内にとどまった。より個人主義的な文化の中で教育を受けていれば、大半の生徒はこの指示に疑問を持ち、独自の判断で船外に脱出していたはずだ、という主張だ。
例えば米地方紙ダラス・モーニング・ニュースのラルフ・デラクルス氏は「あの船に乗っていたのが米国人生徒だったならば、あらゆる手段でフェリーから脱出していたはずだ。だが個人よりも集団を優先するアジアの文化では指示に従うことが絶対だ」と書いた。この主張は、東アジア人は物事を自分の頭で考えずに当局の言いなりになるという、依然として多くの欧米人の持つ文化的偏見に沿ったものだ。これは多くの点で誤った見方だ。
まずは東アジア人が権力者に疑問を持たないという仮説だが、多くの人々がこの(あるとされる)傾向を誤って孔子の教えのせいにする。だが孔子はたとえ両親に対してでも、盲従するように説いたことはない。父が息子に盗みを教えたら息子はそれに従って盗人にならなければならないのだろうか。これは「孝行息子」のとんでもない解釈だ。孔子が説いたのは目上の人々を敬うということだ。われわれ東アジア人も常に年長者と衝突する。礼儀をもって接しているだけだ。
敬意を示すことは他者の不当な権威にいたずらに従うということではない。礼儀正しく異議を唱えることはできる。孔子自身の人生がその好例だった。低い身分の出身だったが、時の権力者たちへの抵抗もいとわなかった。儒学者の荀子は「道に従いて君に従わず、義に従いて父に従わざるは、人の大行なり」と説いた。
欧米文化の方が個人主義が色濃く、その結果として同様の状況下では欧米の学生の方が自由に判断できる、という主張はどうだろうか。当たっているかもしれないが、米国人ブロガーのジョン・ボチカイ氏がこの件に関する分析で指摘したように、非常時に過剰な個人主義で秩序を乱すことが乗客のためになるかどうかは疑問だ。大混乱に陥った船内で数百人の若者がそれぞれに「考える」場面を思い浮かべてみるといい。効果的な危機管理どころではなく、パニックが起きるだろう。
非常時に必要とされるのは無謀で無責任な「自由」ではなく自制と協力だ。この点で生徒たちはよくやった。彼らは慌てずに指示に従い、互いを助け合った。生存者は、生徒たちが救命胴衣を譲り合う場面を目撃した。彼らは自分より集団の必要性を優先した。そのことは間違いではない。最も緊迫した状況で公共心を発揮したのだ。彼らの行動は、仁者は「己立たんと欲して人を立てる」という孔子の教えをまさに体現したものだった。欧米人コラムニストの論じるように、「個人主義的」でなく、早く脱出しなかったから愚かだと断じるのは無知・無神経以外の何物でもない。
真の悲劇は生徒が大人を信頼したことではなく、大人が彼らの信頼に応えられなかったことだ。事故の原因としてさまざまなミスが指摘される。規制を緩めて老朽化した船舶の輸入と改造を認めた政治家、検査時に安全基準を徹底させなかった当局、過積載を許可したとされる船の所有者。最も重大なミスを犯したのは船長と乗組員だ。彼らは誤った指示を出し、警備艇が到着した際にも船内に取り残された人々に知らせることなく脱出した。
若い韓国人は社会の腐敗を目の当たりにした。今後の最大の問題は、韓国が世代間の信頼をいかに回復するかだ。韓国がこの課題を克服するには、欧米式の個人主義ではなく儒教の倫理観と公共心がさらに必要とされるだろう。つまり、沈没した船に乗っていた生徒たちが行動で示したような資質だ。
(筆者のキム・ヨンオク氏とキム・ジュンキュ氏は「The Great Equal Society: Confucianism, China and the 21st Century」の共著者。
キム・ヨンオク氏は韓国の現代思想家で儒学者)
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