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「正しい生活の少女」朴槿恵の人格
勉強のできる潔癖な模範的女学生がそのまま大統領になったらどうなるか。
韓国はいま、「少女」の「正義感」に国を任せている。
李 相哲
韓国の「反日」は永久に終わらない 「新潮45」2014年2月号
http://www.gruri.jp/topics/14/03031630/
少女時代より変わらぬスタイル
今年62歳になる朴槿恵を「正しい生活少女」と呼ぶ人もいる。小学校時代より中学、高校、大学まで成績はつねに学年でトップであった。父・朴正熙大統領に連れられ青瓦台(大統領官邸)に移り住むようになったのは1963年12月、11歳のとき。翌年の3月から彼女は聖心女子中学校に進学して寮生活を送った。大統領官邸から聖心女学校が遠かったという理由もあったが、元教師の朴正熙夫妻は彼女に修道女学校の厳しい生活を体験させようとしたのだ。
厳しい寮生活をおくる槿恵だが、休みの日には大統領官邸に戻ることもあった。母が久し振りに家に戻ってくる娘のために少しだけおかずを増やすと、中学一年生の槿恵はこう言ったという。
「お母さん、こんなことしなくていいよ。新堂洞の家(父が大統領になる前に住んでいた家)に戻ったとき、困るでしょう」
この言葉に母は泣いたそうである。
要するに朴槿恵はずっと「いい子」で、学校では模範的な学生で通っていた。
中学校時代の生活記録簿の「品行」の評価欄には「素朴な学生」と書かれている。IQ127、何に関しても一所懸命、熱心な子供であったという。
聖心女学校時代の同級生たちは、「勉強のできる真面目な子」と記憶している。
「大統領の娘が何番目の成績で(聖心に)入ったか好奇心があって聞いてみたら5番目の成績だった。ピアノもギターも上手だった。「サウンド・オブ・ミュージック」の中の歌を歌ったりしたが、歌は上手ではなかった。でも熱心に歌っていた」と同級生の一人は証言する。
大統領になってからも、「正しい生活少女」の癖はそのまま残っている。
大統領府に住まいを移してからも生活習慣を変えていない。4時半に起床、各種報告書に目をとおしてからインターネットで世論の動向をチェックする。官邸から大統領執務室までは車で4分程、9時に執務室に入って夕方6時には執務室を出る。朝食も夕食も一人の場合が多い。朝食、夕食を兼ねて人に会うことの多い韓国の政界では珍しい。1800坪もある官邸に一人残された独身女性を案じて、せめて食事は一人で取らせないようにという「世論」があるほどだ。そして夜になると処理しきれなかった報告書を官邸に持参、資料を読みながら補佐官や大臣らに電話をかけるのが日課という。
いまだ家族(弟と妹がいるが)を青瓦台に招待したという話は聞かない。「一番幸せな瞬間は?」という質問に「甥のセヒョン君(弟・志晩氏の長男、今年9歳)と遊んでいるとき」と答えながらも、その甥も青瓦台に呼んではいない。
そんな彼女を「氷姫」と揶揄する人もいる。野党からは国民との意思の疎通が足りないと攻撃されることがある。
ただし人間関係の濃い韓国社会ではその冷たさが美徳になることもある。
「自分の長所は何だと思いますか?」という問いに彼女は「私利私欲にぶれないこと」と答えている。また「道端で1億円を拾ったらどうしますか?」という質問には「主を探して返します」と答える。
このような潔癖さ、模範的な行いを貫く姿勢が「正しい生活少女」と呼ばせる。そこには、世間知らずの「箱入り娘」という意味も含まれる。自分のやっていることが正しいと思ったら頑なにそれを守り、自分のやり方を通す。誰が何を言おうがわが道をいく。それが彼女の政治家としての魅力でもあり、欠点でもある。
「頑固」「不通」「正義感」で貫く政治
韓国では彼女のことを「不通(プルトン)」、すなわち話が通じない、頑固な人と批判する人が多い。安倍総理がさまざまなチャンネルを通じて会談を呼びかけても会おうとしない。彼女には、話しにくい人というイメージが付きまとう。それを意識しているからか、朴槿恵は自分から進んで意思疎通をはかろうと努力もしてきた。
「朝食べてはいけないものは何?」
「ランチ!?」
朴槿恵大統領がつくった「ギャグ」である。彼女は、会議の雰囲気を和らげるために、大事な会合に出るときは必ずギャグを一つ準備してくるという。
口下手の彼女のオヤジギャグは受けがいいわけではない。下手だから笑ってしまう。韓国語でオヤジギャグを「ソルロンゲグ(썰렁개그)」という。「寒い!」という意味が、まさにそのものだ。
また、彼女は普通は照れてしまいそうな、真面目で重い話をストレートに口にする政治家として知られている。
1992年11月22日の日記にはこう綴っている。
「自分のこころを全部見せても恥を感じることのない状態、これが正しさである。天に対し一点の恥も感じない、それが正しさの道である」
40歳のときである。また1993年2月23日の日記にはこう書く。
「世の中を正そうとせずに、まず自分自身を正すべきである。他人が自分のために何かをしてくれることを待たないで自分が先に他人のために何かをすべきである。それが世の中を正しくするし、温かい隣人をつくる道である」(日記集『苦難を友に、真実を燈台に』釜山日報社)
彼女の日記を読んでいると、「いい子にならなくては」と学期毎に決心を繰り返す小学生の姿を連想させる。
だからと言って彼女がただ幼いということではないだろう。男性社会の韓国において、女性が野党時代も与党時代も党首に上り詰め、男性政治家を率いて一大勢力を作ったのは奇跡に近い。大勢の男性議員が「親朴(槿恵)連帯」まで作って彼女にひたすらついてきたのは、それなりの政治家としての魅力があったからだろう。彼女が朴正熙元大統領の娘だからという理由だけでは説明がつかない。
彼女が政治家としての道を歩む決心をするのは1997年12月である。このとき韓国は通貨危機に見舞われ、国家財政は破綻直前に瀕し、IMF(国際通貨基金)の管理下に置かれていた。
彼女には、「お父さんの世代がどんな思いで国家建設に血と涙を注いだかを現場で見てきた」という自負があった。
「国家の根幹が揺らいでいるのに私だけが安易な生活を送るわけにはいかなかった」と彼女は当時を回想する。政治のせいで母も父も非業の死をとげた。1979年、父が銃弾に倒れ亡くなった後朴槿恵は政治の世界を遠ざけいよいよ「心の平和を手にいれようとしていた」、「しかし、私だけが安易な生活を送るわけにはいかなかった。私は『政治人朴槿恵』の道を歩む決心をした。大韓民国の発展のために残りの人生をすべてささげる覚悟を決めた」(『朴槿恵自叙伝』ウィズダム社、ソウル)
この言葉に嘘があるとは誰も思わない。そこに彼女のカリスマ性があり、求心力があるのかもしれない。彼女の普段の言動からするとそれは人気取りでも、いい子を演じているわけでもない。それを支持者たちは固く信じているのである。
「正義感」に火をつけた日本人
このような国家観、個人的な哲学が彼女の国政運営に影響を及ぼしていることは間違いない。外交も例外ではない。
彼女は、「一番いやなタイプは?」という質問に「無責任で嘘をつく人」と答える。素晴らしい人間の基準を「信頼できるか否か」に置いている。「信頼」とは、彼女の国内外政策のキーワードでもある。日本政府の会談要請を頑なに拒んでいる背景には、日本の一部の指導者に「信頼」を置けないでいるからだと言われている。
大統領就任式の2013年2月25日、祝賀使節団団長として朴大統領に面会した麻生太郎副総理は、挨拶の言葉を交わした後、突然米国の南北戦争に触れ、
「『米国を見てほしい。米国は南と北が分かれて激しく戦った。しかし南北戦争をめぐり北部の学校では相変わらず“市民戦争”と表現するところがある一方、南部では“北部の侵略”と教える。このように同じ国、民族でも歴史認識は一致しないものだ。異なる国の間ではなおさらそうだ。日韓関係も同じだ。それを前提に歴史認識を論じるべきではないだろうか』と発言した」(「中央日報」2013年4月23日付)
その瞬間、朴大統領の表情は険しくなったという。そして「特に両国の指導者が慎重な言葉と行動を通じて信頼を構築することが重要だ」(同)と短く応酬した。
その4日後の「3・1独立運動」記念式典で朴大統領は「加害者と被害者という歴史的な立場は千年の時が流れても変わることはない」と言ったが、それは麻生副総理の言葉に対する反論としても読める。日韓関係がこじれたのは、李明博前大統領の竹島上陸までさかのぼるが、この時点で友好関係はブツンと切れた。
彼女は、14歳にしてすでに外交舞台に登場している。1966年10月、アメリカのジョンソン大統領が「韓国の夜」行事に出席するため訪韓したが、彼女はホストとして会っている。
「31日夜8時25分、ジョンソン大統領は青瓦台を訪れた。玄関先では朴正熙夫妻と長女の槿恵嬢(聖心女子中、3年)がジョンソン大統領を待っていた。玄関に到着したジョンソン大統領は巨大な体を曲げ朴槿恵嬢に何かを囁いてから手にキスする場面もあった」(「東亜日報」1966年11月1日付)
1973年1月、大学4年生だった朴槿恵は韓国国民を代表してハワイを訪れ、「韓国人ハワイ移民70周年」記念行事に参加、英語で演説したこともある。彼女は、小さいときから父と母が信頼して外に出せる自慢の娘であった。
1974年8月、母・陸英修が北朝鮮当局の指示を受けた在日朝鮮人の銃撃で亡くなると、ファーストレディとして父を公私両面で支えることとなった。そこでカーター大統領の駐韓国米軍撤収計画を取りやめさせたという逸話は有名だ。
外交を多少なりとも知っている彼女が日本と距離をおくのにはもちろん理由はあるのだろう。
日韓関係を悪くしたのはすべて麻生副総理の責任というわけではあるまい。むしろ彼女の世界観やキャラクターと深い関係があるのではないか。
麻生副総理の発言があった後、安倍総理は「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」(2013年4月23日の参院予算委員会)、「侵略の定義は、いわゆる学問的なフィールドで多様な議論があり、決まったものはない」(同年5月8日の同委員会)と述べ、それと時期を同じくして橋下大阪市長の「慰安婦発言」が世界中を駆け巡った。朴大統領周辺の人たちは、彼女がそれを日本の指導者たちの「本音」だと判断したのだろう、と言う。
模範生として育った朴槿恵に、正しいことは絶対的であり、正義は貫くべきだという少女時代の気質が残っているとしても不思議はない。その「少女」の「正義感」に火をつけたのが麻生副総理であり、一部の日本の指導者だった。
「侵略」は絶対悪い。慰安婦も議論の余地のない悪なのに、なぜ日本では指導的立場の人間がそれを直視しようとしないのか? 「許せない」、それが彼女の本音だろう。
昨今の日韓関係は、融通のきかない朴槿恵という「少女」と、「王子」として英雄的にふるまう安倍総理との「擦れ違い」を見ているような気がする。
[著者]李相哲(り・そうてつ 龍谷大学教授)
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