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株式日記と経済展望
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「不必要だった二つの大戦: チャーチルとヒトラー」 イギリスは、戦争に勝ったが、
植民地も、海も、ポンドも、国際関係を仕切るシステムもパワーも全て失った。
2014年5月17日 土曜日
「不必要だった二つの大戦: チャーチルとヒトラー」 (パトリック・ブキャナン著)
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8D%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%88%A6-%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB%E3%81%A8%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC-%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BBJ-%E3%83%96%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%8A%E3%83%B3/dp/4336056412
人類史上かつてない惨劇をもたらした二つの世界大戦。
この戦争は本当に必要だったのか?本当に不可避のものだった
のだろうか?チャーチルとヒトラーの行動を軸に、
戦争へといたる歴史の過程を精密に検証する一書。
◆不必要だった二つの大戦: チャーチルとヒトラー パトリック・J. ブキャナン (著)
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最も参考になったカスタマーレビュー
パトリック・ブキャナンは、二十世紀に起きた二つの大戦における英独の抗争を中心に、この時期にヨーロッパに起きた様々な歴史的事件の意味を説き明かそうとする。そして、「この二つの大戦は本当に必要な大戦だったのか?」と問いかけ、実は不必要な戦いではなかったか? と問題を投げかける。
二つの大戦の戦死者数と傷病者数、破壊された文化遺産、余りにも多くの犠牲。戦いは、避けられなかったのか?
第一次大戦は、ホーエンツォレルン家とハプスブルク家、ロマノフ王朝を滅ぼし、代わりに、ヒトラー(ナチズム)、ムッソリーニ(ファシズム)とスターリン(スターリニズム)という三つの全体主義を生んだ。
第二次大戦は、「ドイツ第三帝国」を壊滅させ、その代わり、「スターリンの支配する東欧世界」を生んだ。アジアでは、「大日本帝国」を崩壊させ、代わりに「毛沢東の中国」を生んだ。二つの大戦で主導的役割を果たし、特に、第二次大戦では「大英帝国」の威信を賭けて、戦いを「欧州動乱」から「世界大戦」に発展させたチャーチルは、アメリカの援助による勝利と引き替えに、世界の四分の三を支配していた「大英帝国」を「ユナイテッド・キングダム」という北海上の一島嶼に落としやった。
大まかに言って第一次大戦が五千万人の死傷者をもたらしたとすれば、第二次大戦は一億人の死傷者をもたらした。その中の多くの物語は、生き残った者の手記や証言、書物、記録フィルム、後になって作られた映画等によって知られている。それらは余りに多くの悲劇に満ち満ちたものだ。
第一次大戦の「ベルサイユ講和条約」が第二次大戦の悲劇を産み落としたものであるとすれば、なぜ、間違ったのか?
「ミュンヘン会談」でチェンバレンがとった「宥和政策」が、本当に大戦の引き金を引いたのか?
イギリスとの全面戦争を望んではいなかったと思われるヒトラーを、追い詰めたのはチャーチルではなかったのか?
チャーチルは勝つために、本来「ヨーロッパの危機の根源」と見なしていたスターリンと組み、戦後、中央ヨーロッパを失った。そして、アメリカの援助によって勝利したために、戦後、「ポンド体制」も「国際政治支配システム」も、ことごとくアメリカの手に移ることを認めざるを得なかった。
「偽りの戦勝国・フランス」は、ドゴールが失われたプライドを粉飾したが、やがて失意のうちにベトナムとアルジェリアから撤退せざるを得なかった。
ドイツは、東西に分割され、早々と戦線離脱したイタリアは小国にとどまった。
「ヨーロッパの栄光」は、二つの大戦で打ち砕かれた。著者は、失われた栄光の日々を追慕しながら、その原因がどこにあったのか?誰が、責任を担うべきなのか?と、問い続けるのである。
「ベルサイユ講和会議の悲劇」を招いたのは、対ドイツ復讐心に燃えるクレマンソーだったのか?それとも日和見を決め込みながら、イギリスの既得権益をしっかりと抑えようとするロイド・ジョージだったのか?著者は、それ以上にアメリカ大統領ウィルソンの責任を追及する。
ドイツは、ウィルソンが呼びかけた「十四箇条の和平提案」に乗った。ドイツは、東部戦線では勝利をおさめていたが、西部戦線ではアメリカの参戦によって勝利の見通しはなくなっていた。「ベルサイユ講和会議」は、戦いを弁論の場に移したが、ウィーン会議のタレーランと異なり、ドイツ代表は会議に参加を許されなかった。しかも、その間もドイツに対する経済封鎖は継続された。このイギリスの経済封鎖はドイツに深刻な飢餓地獄をもたらし、76万人の餓死者がでた。ドイツ人は、餓死よりも、どれほど不当であろうとも、戦争の全責任をドイツに押しつける講和条約を受け入れる以外になかったのだ。ドイツがウィルソンの見かけ倒しだけの偽善を憎んだことは言うまでもない。
著者は、ある歴史家の言葉として、「ラファイエットの『平等』の観念と、ウィルソンの『民族自決』の理念が結びついたとき、(それを実現するほど成熟していない)世界は、致命的な混乱に陥らざるを得なかった」という言葉を紹介する。
このことが、端的に現れたのが、「オーストリア・ハンガリー帝国」を解体するサンジェルマン条約とトリアノン条約である。中央ヨーロッパに「チェコスロバキア」を作り出すことは、オーストリアを弱小国に落とし込むと同時に、ドイツ、ソビエト、ポーランドを牽制し、彼らの力をそのためにそぎ取ることができると英仏は考えたからである。
「民族自決」という原理を恣意的に用いて、例えば、1918年、トマス・マサリクの下に新国家として生まれた「チェコスロバキア」は、国民の47%を占めるチェコ人の支配下に、350万人の在外ドイツ人、300万人のスロバキア人、100万人のハンガリー人、50万人のルテニア人(ウクライナ人)、15万人のポーランドを抱え込んだ。新国家は、オーストリアとハンガリーから70〜80%の産業を奪い、一躍世界十位の工業国になった。なぜ、このような手品のようなことができたのか?チェコの独立運動家、マサリクもベネシュも人間的魅力と狡猾な政治的知性に長けていた。彼らに足りなかったものがあるとすれば、必ずしも国際的に信頼も尊敬も受けていないチェコ人の英仏のドイツ牽制の思惑によるできすぎた成功は、後々の失敗の原因になるという経験則を忘れたことである。「ズデーテン」「シレジア」。住民投票でドイツ帰属が明らかな国境地帯を抱え込んだことが、チェコスロバニアには、後々、致命的な運命をもたらすことになる。
(ルテニア人とは、一般の日本人にはほとんど耳慣れない言葉である。19世紀にウクライナ人が独立運動を夢見たときに、彼らはそれぞれのいきさつに従って、ポーランド、ロシア、オーストリア三カ国のうちの一つを援助国として選んだ。オーストリアを頼みとした人々は数的には一番少なかったが、第一次対戦終了までこの名称はオーストリアには残った。言葉の起源は、キエフを創った「ルーシ」に由来する)
第二次大戦は、ネビル・チェンバレンの名前とミュンヘンにおける「宥和政策」の失敗抜きには語れない。多くの論者が、この「ミュンヘンでの妥協」がチェコスロバキアを解体させ、ナチスを勢いづかせ、とどめようもない「悪鬼羅刹」と化させたのだと信じている。しかし、著者は、反論する。チェンバレンは、ミュンヘンで突然宥和主義者になったわけではない。
チェンバレンは、元々、「ズデーテン」も「シレジア」もドイツに帰属すべきだと考えていた。国際管理下に置かれていた自由都市「ダンチッヒ」も住民の95%はドイツ人であり、ドイツに帰属すべきである。そのために、ポーランドは、「ポーランド回廊」の一部を譲るべきであろうし、当然そうすべきものとして、1939年の8月末まで、つまり開戦直前までポーランド政府を説得していたのである。
著者は、チェンバレンに責任があるとすれば、「ポーランドに対する攻撃に対してイギリスは無条件で宣戦布告する」という、イギリスの開戦責任をポーランドに白紙委任してしまったことにある、と追及する。
チェンバレンにしてみれば、イギリスがついているなら、ドイツもそうそう軽率に軍事行動はとれないだろうと考えた。しかし、ポーランド政府は、「それなら」とドイツとの外交交渉を数ヶ月間サボタージュし、「絶対ダンチッヒもポーランド回廊も譲らない」と決め込んだのである。(このポーランドの頑なさに支持を与えていたのはアメリカである)
この事態は、一日で動いた。1939年8月23日、リッベントロップとモロトフは、一日で「ポーランド分割」に合意して「独ソ不可侵条約」を締結したからである。一ヶ月後、ポーランドは独ソに分割され、軍事占領される運命にあった。
9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻が始まり、9月3日には、イギリス、フランスはドイツに宣戦布告した。こうして「欧州の動乱」は始まった。9月17日には、ソビエト軍のポーランド侵攻も始まり、27日、独ソ両軍は予め設定された境界を挟んで、分割協定にサインした。
(日本の高校世界史の教科書は、「反ファシズム戦線」の一翼をソビエトが担っていたとする余り、「独ソのポーランド分割協定」を避けて記述したから、「独ソ軍がそれぞれポーランドに進駐した」と書くだけで理解不能だった。今は、どうなったことか。もっとも、これは、日本人だけではなく、ホブズボームのような左翼史家は慎重に記述を避けて知らんぷりをする。
戦前、日本は1939年9月の事態を「欧州の動乱」と呼んだ。昭和で言えば、14年9月。この時点で戦争はまだ局地戦争だった。同年10月号の中央公論「巻頭子」は「この動乱がいつ世界大戦ともならないとは限らないのである」と書いた。つまり、「世界大戦」などこの時点で存在しないのである。二年後、1941年末、「世界大戦」と呼ぶべき状態になったとき、初めて、「世界大戦」という状態が認識され、1914年の「世界大戦」と区別するために「第一次」と「第二次」という区分が冠されたものである。)
ビクトリア女王の孫でもあったヴィルヘルム二世にとって、イギリスとの戦いが本意でなかったように、ヒトラーにとっても、同じテュートン民族が戦うことに抵抗があった。このヒトラーの真意は、チャーチルも承知していたことだろう。
「バトル・オブ・ブリテン」の直後、1940年のフランス占領の直後、ヒトラーは、二度、丁重な和平の提案をチャーチルに対して行っている。
恐らく、ヒトラーの構想は、海はイギリスに任せ、陸の、中央ヨーロッパの覇者としてドイツが君臨することを思い描いていたものだったろう。放っておけば、ドイツは、その中世以来の本能として東方植民に向かい、スラブ民族と熾烈な争いを展開したとしても、フランスに対しては、「アルザス・ロレーヌ」以上の野心は見せなかったことだろう。
だが、チャーチルは、ヒトラーの提案を黙殺した。ナチスのやり方は余りに野蛮であり、まともな交渉相手として認めたくない感情が働いたとしても無理はない。死者と破壊の規模が少なくて済むことだけを考えるなら、なぜ、このとき、妥協しなかったのか、と批判できなくはない。人口三千万のポーランドは、650万人の死者(50万人はユダヤ人)を出し、国土は西に大きく動かされ、その後45年間ソビエトの支配に苦しんだ。だが、チャーチルがポーランドに対して、「色男のベック(当時のポーランド指導者)のバカ野郎!チェコ解体のときはナチスと組んで嬉々としてテッシェンの鉱山地帯を併合した奴だ。チェンバレンの説得を聞かず、イギリスを開戦に持っていった奴じゃないか。ポーランドなんてナチスのユダヤ人殺しの片棒ばかり担いで、力もないくせに大言壮語して、結局、独ソに分割された奴だ。同情などできるか」と答えたことは、事実である。(日本人はポーランド贔屓だが、ナチスのユダヤ人迫害はポーランドの協力があってのものだった。野村真理「ガリツィアのユダヤ人」参照)
1941年6月22日。ドイツ軍のソビエトに対する「バルバロッサ作戦」が始まった。破竹の勢いでドイツ軍は、モスクワ近辺に迫った。
ブキャナンの仮説は、「ヒトラーの真意は、ソビエト軍を殲滅すれば、イギリスのソビエトとの連携作戦は消滅する。チャーチルは否応なしにドイツとの和平交渉の場に立たなくてはならなくなる」というものだ。
「定説」は、ヒトラーは本来東方政策として「レーベンスラオム(生存圏)」の確保のために、ポーランド、ウクライナへの野心を隠していなかった。フランスを制圧し、イギリスに反攻の能力がないと見て、粛清によって軍が弱体化していると見られていたソビエトの攻略に向かった、というものである。著者の「仮説」の妥当性は、今後の検討課題である。
著者は、言う。この二つの大戦に、チャーチルほど深く関わった者はいない。若き議員チャーチルは、第一次大戦でイギリスを開戦へ導いた立役者の一人だった。ボルシェビキ革命の危険性にいち早く気づき、最も激しく、レーニンとスターリンに対する戦争を主張した男だった。ナチスの台頭については、その危険性に一貫して警鐘を鳴らし続けた。チェンバレンに反対し、ドイツとの戦いを恐れず、むしろ望んだ。ヒトラーの和平提案を無視して、あくまで最後まで戦うことを望み、フランクリン・ルーズベルトを戦線に引き込んだ。そして何より、あれほど、憎み嫌ったスターリンにお愛想を振りまき、最後には、スターリンに「過去の私を許してくれますか」とまで言った。
イギリスは、戦争に勝ったが、植民地も、海も、ポンドも、国際関係を仕切るシステムもパワーも全て失った。一体、チャーチルとは、何者だったのか?
著者にとって許し難いことは、このチャーチルの胸像をホワイトハウスの一角に飾り、ネオコンに吹き込まれた「一国覇権主義」に凝り固まった外交問題に素人の大統領である。共和党の大統領選にも出馬経験のある著者は、チャーチルを崇拝することの危険性を強く説く。
評者のレビューは、少し長過ぎる。アジア情勢、日本や中国について論じたいことはまだまだあるが、いい加減、この辺でやめなければいけない。500ページ余りの本を読むために、二日間、睡眠不足になったが、それだけの価値は十分にある著作である。
(私のコメント)
私の歴史観からすれば、大英帝国を滅亡させたのはウィンストン・チャーチルではないかと思うのですが、イギリス人の多くはチャーチルを歴史的英雄として評価されているようだ。チャーチルは第一次世界大戦と第二次世界大戦に深く関与している人物であり、ブキャナン氏が指摘しているように二つの世界大戦は避けられないものだったのだろうか。
二つの世界大戦そのものがヨーロッパの没落をもたらし、アメリカだけが一人勝ちした。だからアメリカこそ二つの世界大戦を仕掛けたのではないかと言った陰謀論も出てきますが、ヒトラーを育て上げたのはアメリカの資本家たちだった。アメリカとしてはヨーロッパの戦争は高みの見物をしていればよく、勝敗が見えたところで参戦してきて戦勝国として利権を獲得して行った。
第一次世界大戦の時は、日本もアメリカと同じく戦勝国として利権を獲得しましたが、第二次世界大戦で敗れたことで全てを失った。私の歴史観からすれば日清日露戦争も不必要な戦争であり、日韓併合も日中戦争も日本にとっては負担になるだけで大陸進出には何のメリットも無い。経済交流の相手としてだけ付き合えばよく、守りに徹すべきだった。
しかしロシアは満州から朝鮮半島を下って来て、対馬海峡での攻防戦は避けられなかっただろう。ならば日本は大艦隊を育成して海上における決戦に全力を注ぐべきだった。日清日露戦争でも黄海海戦や日本海海戦は避けられない戦闘であり、それに勝利すれば清もロシアも日本には攻めてこれなくなる。陸軍は日本国内にロシアが攻めてきたような時には必要ですが、大陸に進出するような大陸軍は必要ない。
二つの世界大戦はイギリスとしては中立を保っていればよく、ロシアとドイツの覇権争いを傍観していれば良かったはずだ。むしろドイツやロシアに兵器を売って大儲けが出来たのではないだろうか? ドイツ軍やロシア軍にはイギリスに上陸作戦をするだけの海軍力も海兵隊も無い事からもイギリスに影響はなかったはずだ。結局バトルオブブリテンも僅か600機ほどのスピットファイアー機でルフトバッフェ野望を打ち砕いた。
日本にしてもアメリカとの戦争は避けられないと考えたのなら、守りを固めて大陸から兵力を引き揚げて、大艦隊と迎撃戦闘機の開発に全力を注ぐべきであっただろう。イギリスが600機のスピットファイアーで守りきったのなら、日本陸軍も10000機の飛燕や鍾馗や疾風を作ってB29を迎え打つべきであった。
日本海軍は米内正光がロシアのスパイで山本五十六はアメリカのスパイだった可能性があり、有効な迎撃戦闘機の開発に失敗している。当時の日本の軍部には守りを固めると言った戦略家がおらず、ガダルカナルまで出て行ったら燃料が無くなって日本は負けてしまった。イギリスにしても海軍力や空軍力で守りを固めればドイツも手が出せず、独ソ戦で双方が消耗したところで出て行けばバランスオブパワー戦略も有効だっただろう。結局はアメリカにトンビに餌を奪われてしまった。
イギリスが当初中立を保って独ソ戦を見守り、ドイツが敗色が濃くなったところでドイツを叩けばアメリカの参戦は必要がなかった。チャーチルがやった事はアメリカの参戦を促すために日本をけしかけて、必要以上に日本を追い込んだから第二次世界大戦となりましたが、日本が参戦していなければシンガポール要塞も東洋艦隊も失う事も無く植民地を失う事も無かっただろう。
ウクライナ問題は、クリミア半島の住民投票でロシアの編入が決まりましたが、このような方式が認められる事は、多民族が入り組んだヨーロッパにおいては大問題に発展しやすくなる。第一次大戦後はオーストリアが分割されてハンガリーやチェコスロバキアが独立した。ポーランドも領土拡張を主張したり、ナチスのユダヤ人虐殺に手を貸したりとロクな国ではないのですが、周囲に嫌われた国は分割されて消えてしまっても同情してくれる国はない。
中国にしても韓国。北朝鮮にしても周囲の国から嫌われていますが、いずれはポーランドやオーストリア帝国のように分割されて消えて無くなるかもしれない。ドイツ帝国も分割されて消え去りましたがソ連崩壊と大英帝国の没落で東西ドイツは統合して復活が出来た。それに対して大英帝国は世界の覇権を失い、スコットランドも分離独立を要求するようになった。結局はチャーチルがバカだからアメリカに覇権を奪われ今ではEUの嫌われ者だ。
結局はチェンバレンのようにドイツとは妥協を重ねて時間を稼いで、ヒトラーが暴走して独ソ戦で消耗した後で叩けばアメリカの手を借りずに一人勝ちできたはずだ。たとえソ連が負けてドイツが勝ったとしても、第一次世界大戦のようにドイツはロシアに勝っても内部の革命が起きて負けた。日本もロシアには工作員を送り込んで内部から革命を越させて帝政ロシアを滅ぼした。
このように歴史の教訓を学べば、今後の日本の戦略が浮かんできますが、中国の台頭に対してはチェンバレンのように譲歩を重ねては時間を稼いで、工作員を送り込んで内部から崩壊させることだ。チベット人やウイグル人活動家を支援して、分離独立の動きを活発化させれば中国は内部分解するだろう。ロシアも同じでありチェチェンをはじめとして民族紛争を抱えている。
このように戦わずして勝つことが戦略の基本であり、チャーチルのように戦いには勝っても大英帝国は崩壊してしまった。ブキャナンの本はこの事を指摘していますが、アメリカにしても戦争には勝っても国力を消耗して厭戦気分が高まり経済が破綻すればどうなるか分からない。アメリカはソ連を封じ込めで追い込んでソ連を崩壊に導きましたが、日本やドイツの協力があったからだ。中国に対しても封じ込めで対処すべきであり、全体主義はソ連崩壊を見ればわかるように長続きしない。
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